駄目なやうです。

 古本屋にて百円で買った井伏鱒二の『山椒魚』は旧仮名遣いでした。

   「それでは、もう駄目なやうか?」
    相手は答へた。
   「もう駄目なやうだ。」

 駄目なやうです。
 三年前、わたくしは無職で扶養家族でした。アルバイトはしませんでした。センズリだけが心の支えでした。その生活に満足していました。
 そんなわたくしに、もっとよりよい生活、当世風に言うと「本当の豊かさ」のある生活をしないか、と声をかけてくれたのは、自称・フリープロ野球選手のヒロさんでした。
 三日前にヒロさんは、日本のプロ野球チームの入団試験を受験されていました。結果は郵送ではまだ送られていないのでわからないそうですが、一次試験の五〇メートル走で二〇秒〇七という平凡なタイムを出してしまい、ぱっとしないツラをした二軍コーチに「帰っていいよ。来年は来なくていいよ」と励ましの言葉をいただいたそうです。
 そのヒロさんが「おれの前途を祝うために合コンをやる」とおっしゃるのです。
「男、五人対女、五人の合コンだ。生身の女に触れておまえも本当の豊かさを知ろうぜ。プロ野球選手のおれがセッティングする合コンだから、女もレベルが高いぞ」
 合同コンパにわたくしは、軟派なひょんたれの遊びだと軽蔑的な先入観を持っていましたが、尊敬するプロ野球選手のヒロさんのお誘いであり、わたくしのズリネタも枯渇しておりましたので、わたくしは会社でリストラ候補ともっぱらの噂である父親の財布から、三万円を抜き取る決意を致しました。
 会場は西鉄久留米駅から諏訪野町方面に五〇メートルほど歩いたところにある居酒屋でした。
 わたくしは、いまからラジオ体操を始めるように深呼吸をしながら、この居酒屋の店構えを凝視しました。
 ぼろぼろに破られた提灯は骨の隙間から、埃まみれの裸電球が確認できました。のれんはもともとはヴィヴィットトーンの真っ赤だったのでしょうが、色落ちして薄くくすんだ桃色になっていました。
 非常に好ましいプロレタリアートな外見です。
 合同コンパ初体験のわたくしは、「本当の豊かさ」を拝見すべく下半身を充血させ、その居酒屋の滑りの悪い扉を開けました。
「いらっしゃいませ」
 茶パツのストレートヘアーを肩まで伸ばした薄化粧の年の頃なら二四、五歳の小娘がわたくしに声をかけました。わたくしは小娘が、「キリンラガー」と書いてあるエプロンの下にリーバイスのジーンズを履いていることを疑問に思いました。
 こう見えてもわたくしは学問家です。過去の文献を紐解きますと、飲み屋の女とは素っ裸にエプロンのプリミティブな格好で、チップを股ぐらに挟むものだと決まっています。
 しかし、目の前の飲み屋の女はジーンズでヘアーすら見せていません。それどころか、スキャンティまで隠しております。おそらく、バブルのツケか、小泉純一郎のせいでしょう。
「ストイックにふるまわなければならないなんて、君も大変だな」
 わたくしは気むずかしい顔をして言いました。
 小娘は股ぐらにチップを挟めないのが不満なのでしょう。無表情につっけんどんとして、
「お客様は一名様ですか? お客様は一名様ですか? お客様は一名様ですか? お客様は一名様ですか?」
 とわたくしの同情の言葉に耳を貸さずに何度も同じことを言っていました。
「一名。たしかに一名だ。君にはわたくしが二人に見えるかね?」
 バカのひとつ憶えのように「お客様は一名様ですか?」としか言わない小娘を哀れに思ったわたくしは、彼女に思考の喜びを股ぐらにチップを挟むかわりに与えてあげました。
「一名様、ご案内いたします」
 わたくしの思考へのいざないは成功したようです。小娘はやっと違うことを言いました。
 小娘は店の奥へ歩いていきます。ひとり店の入り口に置いていかれたわたくしはヒロさんの姿を探しました。
「あの、お客様、お席にご案内いたします」
 先ほどの小娘が相変わらずつんとしてわたくしに声をかけました。
「いいよいいよ。君もチップももらえず疲れてるだろう。自分で探すよ」
 わたくしは男らしく言いました。
 小娘は頬を上気させ、顔を紅くしました。わたくしの男らしさにもう惚れたようです。
「これからこの店でヒロさんと合同コンパなんだ。だから、いまからわたくしに惚れてはいけないよ」
 小娘は涙を目脂のように、にじませてわたくしを見ておりました。
「あ、ご予約のお客様ですね。お席にご案内します。お座敷です」
 照れ隠しでしょう。小娘は早口でまくし立てました。それから、店の奥に歩いていきます。
「あの、お客さん、ついてきてください」
 なんと積極的なアプローチでしょう。
 さすがのわたくしも驚きを隠せませんでした。
「君、いくら飲み屋とは言え、そんな手を引いたりして、はしたないよ」
 小娘は無言でぐいぐいわたくしを店の奥の階段へ、そして二階に引きずり込みます。
 わたくしは小娘の力に、もうどうなってもいいとすべてを委ねました。
 小娘は力強く、個室の障子をスライドさせました。
 個室の中には、なんと、ヒロさんの顔が。
「遅いぞ! まあ、座れ」
 わたくしは新品のエアマックス96のコピーを脱いで、畳の個室へ上がりました。小娘は恥ずかしそうにうつむいて早足で階段を下りていきました。
 八畳ほどもある広い畳の部屋です。ヒロさんを含め男性が七人座っていました。女性はふたりだけでした。それも、先ほどの小娘に比べると、犯したいとも思わない、むしろこちらが犯されそうな女性ふたりでした。
 ここに本当の豊かさはあるのでしょうか? 不安が募ります。
「ちょっとなあ、てへへ、女の子が急用で来れなくなったんだ。まあ、まずは駆けつけ三杯、飲めよ」
 わけもわからず敷かれた座布団に座り、目の前のグラスに注がれたビールを飲みました。
 無頼派文士のように、ぐいっと一気に飲み干すと、ふたりの女性から褒めそやしていただきました。犯したいとも思わない女性でも、女性に褒められると嬉しいものです。
 気持ちのよくなったわたくしは、二杯目、三杯目と飲み干しました。
 顔がかっかしています。酔ってきたようです。
 昨日夢の中で、ジャンボ尾崎にゴルフを教えたときと同じ、痛快で気持ちのいい気分にわたくしの心は満たされました。
「ヒロさん、気持ちいいです。これが、あれですかね。本当の豊かさ、なんでしょうかねえ」
 わたくしは真理を感得した気持ちでヒロさんに話しかけました。
 するとヒロさんは得意な顔をして首を振りました。
「まだまだだよ」
 わたくしはこの時点で十分に気持ちがよかったものですから、これ以上に豊かさがあるならば、すべてを失ってもいいと思いました。
「まだあるんですか! さすが、本当の豊かさは深淵ですね」
「ああ、そうさ」
 ヒロさんはそれからファナティックに語り出しました。声がクレッシェンドになっていきました。
「本当に豊かになるためには、絵だね。絵画の一枚か、二枚は持っていないと話にならない。それと、やっぱり日本人は働き過ぎだ。それでは豊かになれない。だからこそ、レジャー会員権だな。この会員権は閑散期の平日しか使えないけど、人混みの中で遊ぶのではなく、あえて誰もいないときに遊ぶことが豊かだとは思わないか!」
 多少の意識を持って拝見していた女性二人も、他の男性六人も熱心にヒロさんに頷いています。
 わたくしは酔った手つきで、四〇〇万円の絵画と一五〇万円の全国どこででも無料で使えるレジャー会員権を購入することにし、三六回ローンの契約書にサインいたしました。
 バブルの時には、画家の名前だけで高値が付いている絵やゴルフの会員権を成金たちが億単位の金額で購入していました。
 それに比べると、本当に質素でそれでいてブルジョワジーな買い物だと、そのときは満足いたしました。
 あれから、三年。

   「お前は今、どういふことを考へているやうなのだらうか?」
    相手は極めて遠慮がちに答へた。
   「今でもべつにお前のことをおこつてはいないんだ。」

 本来なら、今月で三六回ローンが終わる予定でした。
 もう駄目なやうです。

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