大昔、おそらくは高校生の頃だったと思うのですが、友人があたしの部屋へ遊びに来た時に、「カオスの中に秩序がある」とのたまっておりました。
カオス・・・・つまり床の上に散らばった書物のことでしょう。
秩序・・・・とりあえずカテゴリー化されて散乱している。
お手伝いさんが床の上にある本を掃除機かける時に邪魔だからベッドの上に乗せちゃうんですよ。
で、だんだんめんどーだからそのままにして帰ってしまう。
で、あたしもめんどーだからそれをまた床の上に落とす。
じゃないと寝れないし・・・・
ということを日課として繰り返していたために、男性原理についてはともかく、『女性原理とは「混沌、カオス、芸術、職人、自由、無原則」などである(ネピロン)』という主張にはまったく反論できないですね。が、しかし、敢えて付け加えるならば、カオスの中にも自分なりの秩序というものが頑として存在しているということでしょうか。
カオスとは自由なものであり奔放なものでありいかなる秩序も受け付けないようでありながら、カオスの中に厳然として存在している秩序なるものを他人に見せ付けた時の快感はそれなりに今の自分という存在を支える柱のようなものなのかもしれません。
カオスの中の秩序を支えているものは何事もそのまま受け入れてしまうという柔軟な姿勢なのだと思うのです。あらゆるものを飲み込んでしまう太母という発想に近いものがあるとたまに感じたりするのですが、あらゆることに責任とかルールとか原理なるものをまったく考えなくなるとすべてのことがどーでもよくなってしまうわけです。
つまり、『地震、雷、火事、中国人のピッキング、ゴキブリの進入、不倫の進入、今ここにない夢へのあこがれというどうしょうもない悪魔のささやきの進入などなど(ネピロン)』の有事が家庭なる世界に発生したとしても物事を深く考えず、すべてを混沌とした世界の中で受け入れてしまうと、やはりそれはそれでカオスの中にも秩序が発生してしまう。
ルールなんか何もなくても秩序が存在してしまうというところに女性原理というもののルーツが存在している気が致します。
(『屁理屈日記』 2002/05/31より)
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