迷った時にどちらの道を選ぶか?
わからない。
コインでも投げるしかないのだろうか・・・
よくわからないけれど、あたしはしなくてもすむ苦労はしない主義だ。
石橋叩いて渡らない。
そのくせ、ふいに吊橋を渡ってみたくなる。
それだけのことだ。
声の呼ぶほうへ歩むだけ。
時にその道が険しく、なぜそんな方向へ行かなければならないのか酷く混乱することもある。
燃えカス・・・
つまりは倦みだ。
人生に退屈し始めると、誰でも倦む。
その姿があまりにも醜いので、酷く混乱することがある。
それでも彼らは自己正当化に必死だ。
自分たちは必死に生きているという・・・
退屈さを何で紛らわせているのだろうか?
それでいて、いつも何かを貪欲に求めている人も決して美しくはない。
若い頃は、誰でも美しいと思うのだ。
若いというだけで、その後に訪れる醜さをカバーしているのではないかとさえ思うことがある。
その覇気は次第に色褪せ、次第に人生に迎合し始める。
つまり、若さに倦んでいるのだ。
若さを持て余して、退屈しているのかもしれないな。
極めて退屈な人たちが多いのも、若さの特徴。
若いが故に、倦んでいる。
すでに子どもではない・・・だから自分たちは年を取ったと語りたがる。
ってことは、いつまで経っても単なるオコチャマだということを言いたいだけ。
大人になりきれないまま、若さに倦んでしまっているだけ・・・
極めて退屈な連中が多い。
あたしは、若い頃、倦んでいた。
それだけは認めよう。
人生に退屈し、自分のやりたいことが見つからない。
結局、自分を救うのは自分だけだ。
人生の倦みから抜け出すためには、自分で道を歩かなければならない。
愚かなのかもしれないし、退屈したくないだけなのかもしれないし、倦みを指摘されるのがイヤなだけなのかもしれないし、単にワガママなのかもしれないし、自分を捨てたいだけなのかもしれない。
倦むことに慣れてしまえばラクなのだ。
人生に退屈し、単調な生活が続き、風景に埋没してしまえばとてもラクだ。
倦んでいることを認め、自分も倦んでしまい、毎日愚痴をこぼし、退屈な人生を不平不満で塗り固め、それが当たり前なのだと認めることにより疎まれながら生きていく。
わかりやすい・・・
迷った時にどちらの道を選ぶか?
安易に他人に迎合しないことだ・・・
迎合しない道が険しいのかどうかまではわからない。
(『屁理屈日記』 2002/02/20より)
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