永 遠 の 恋 〈2〉
「・・・あなたが好きです・・・」 それは速水にとって思いもよらぬ言葉だった。 一生彼女の口から聞けるとは思わなかった。 だから、諦めた。 影でいる事を選んだ。 なのに・・・。 言葉が出てこない。 ここで彼女の気持ちを受け取る事ができたら、どんなにいいのだろうか。 しかし、彼にはできない。 背負うものがありすぎるのだ。 速水真澄個人の感情を優先させる事は彼にはできなかった。 ここで、本心を口にしてしまったら、自分を抑える事なんて、もうできないだろう。 彼女から視線を外し、再び月を見つめる。 そして、覚悟を決めた。 「ははははは。どうした?この俺に向かって、君がそんな事を言うとはな」 いつもよりも、冷淡に彼女に接する。 今はそれしかない。 一刻も早く、彼女から逃げたい。 当然、マヤは速水の言葉に顔色が青くなる。 「悪いが、俺は君の気持ちに応える事はできないんだよ。ちびちゃん」 煙草を取り出し、火をつける。 「知っているだろう?俺には婚約者がいる」 紫煙をス−っとマヤに吹きかける。 「それとも、俺の愛人にでもなるか?」 突き放すように笑い飛ばす。 彼はいつもそうやって、心を隠してきた。 「・・・私は、ただ・・・」 潰れてしまいそうな想いに耐え、ようやく、彼女は口を開き、彼を見た。 そこにいた速水はマヤが知っている彼とは別人だった。 まるで感情のないような瞳で冷たく、彼女を見る。 冷酷な彼の表情にナイフで心臓を一突きにされたような心地になる。 「・・・ちびちゃん。俺は君に対して一切の恋愛感情は持っていないんだ。君は俺にとってただの商品だ」 彼女の想いにとどめを刺すように、口にする。 速水はそれだけ言うと、部屋を後にしようと歩き出した。 「・・・私を援助し続けてくれたのは商品だから?紅天女候補だったから?」 ドアノブに触れた瞬間、彼の背中にその言葉がかかる。 「何?」 思わず、足を止め、再び彼女を見る。 月明かりの下に照らされた彼女の泣き顔が見えた。 できる事なら、今すぐにでも彼女を抱きしめて、想いのたけを伝えたい。 しかし・・・それはどんなに望んでも、今の彼には許されない事。 「・・・あなたが紫の薔薇の人だって・・・私、知っているんです・・・」 涙に滲む声で彼女が告げる。 彼女の表情をじっと見つめる。 なるほど・・・。俺が紫の薔薇の人だと知ったから、俺に恋をしたのか。 「以外に君は鋭いんだな」 彼女の言葉に動じる事なく、答える。 「そうだ。その通りだ。君が月影さんの弟子だったから、俺は君を援助しつづけた。もしも、姫川亜弓が選ばれなかった時の為にな」 速水の言葉にマヤの中の何かが崩れ去る。 「君に名乗り出なかったのは、俺の援助を君が受けない事をわかっていたからな。だから、匿名にした。君に借りを作るために。 君の性格だ。きっと、俺が紫の薔薇の人だと知れば、いくら、大都の舞台に立たないと言っていても、そういう訳にはいかなくなるだろ? 俺は君に恩を売りつけたかったんだ。言ってみれば、紫の薔薇は紅天女への投資にすぎないという訳だ」 速水の言葉を聞いているうちに、力が抜けていく。 一番聞きたくなかった言葉だ。 「君個人に興味があった訳じゃない」 彼の最後の一言にマヤは眩暈を起こしそうだった。 もう、何を信じていいのかわからない・・・。 善意だと思っていた紫の薔薇が突然汚い取引の道具に見えてくる。 マヤはただ呆然と、彼が部屋から出ていくのを見つめていた。 「社長、顔色が優れないようですが・・・」 運転手は後部座席にいる速水の様子がいつもと違う事に気づいた。 「・・・あぁ。少し、酒が入っているんでな・・・。悪いが黙っていてくれるか?考え事をしたいんだ」 苛立ったように口にし、彼は窓の外を見つめた。 胸が今にも張り裂けてしまいそうだ。 今まで、沢山嘘はついてきた。 しかし、今夜程辛い嘘はない。 彼にとって唯一の聖域であった彼女との繋がりを自ら汚したのだ。 真っ青な彼女の顔が浮かぶ。 瞳を見れば、彼の言葉に彼女がどんなに傷ついたかがわかった。 すまない。マヤ・・・。 俺は君を傷つける事しかできない男なんだ・・・。 君に愛される資格なんてない・・・。 その夜、速水は紫織の所には行かず、朝まで浴びる程の酒を呑んでいた。 「マヤ?」 麗がアパ−トに戻ると、真っ暗な部屋の中に涙に震える声を聞いた。 電気をつけてみると、ドレスを着たまま、泣き崩れている彼女がいた。 今日は、念願の紅天女を掴んだ日だと言うのに、それは嬉しくて泣いていようには見えなかった。 「一体何があったんだ?」 彼女に駆け寄る。 「・・・麗・・・私、私・・・」 マヤはわ−っと麗の腕の中に飛び込んだ。 まるで、子供のように泣きじゃくる彼女に麗は何も言う事ができなかった。 泣いても、泣いても泣き足りなかった。 速水の言葉が幾度も頭の中を回る。 マヤにとって、何よりも辛かったのが、紫の薔薇が彼の善意ではなく、紅天女のためだったという事だった。 彼は本当は優しい人だと思った。 今まで彼が紫の薔薇の人としてしてきた事が全て否定された気がする。 ”紫の薔薇は紅天女への投資にすぎないという訳だ” 紛れもなく、その言葉は彼の口から発せられた一言。 やはり、速水真澄という男は利益しか考えない男だったのだろうか。 時折見せる優しい瞳も、笑顔も、全ては紅天女のため・・・。 本当にそうだったのだろうか。 不意に母親の事が頭に浮かぶ。 マヤを売り込むため、人を使って彼が監禁させていた。 そのぐらいの事をする人間だ。 紫の薔薇が紅天女のためだったというのは真実なのかもしれない。 それを自分は勝手に解釈をしていたのだ。 ずっと抱いてきた紫の薔薇の人への想いをいつのまにか彼に重ねていた。 彼の事を優しい人だと、愛情溢れる人だと思い込もうとした。 本当は酷い男なのに・・・。 「真澄様、どうしていらっしゃってくださらなっかたんですか?」 パ−ティ−会場で別れてから、一週間が経っていた。 速水は紫織に会いに行くどころか、電話さえかけてはいなかった。 まるで、彼女の存在を忘れてしまったように速水はこの一週間、仕事に没頭した。 「・・・紫織さん・・・」 彼のオフィスに現れた彼女は顔色が悪く、今にも倒れてしまいそうに見える。 「私はずっと、ずっと、真澄様の事をお待ちしていたのに・・・」 責めるように彼を見つめる。 「・・・すみません。仕事がたてこんでいまして」 彼の言葉に紫織は納得のいかぬように拳を強く握った。 「・・・私はあなたの何なのでしょうか・・・」 ここ数日ずっと自問自答していた言葉を口にする。 紫織は紅天女の舞台を見てから堪らなかった。 舞台を見つめる真澄の眼差し、そして、舞台から彼に投げかけられた視線。 あれは間違いなく、愛し合うもの同志の瞳だった。 紫織は一度も彼にはそんな視線は向けてもらえなかった。 ただ、彼は優しく笑うだけだ。 彼に愛されていない・・・。 その事実が目の前につきつけられる。 どんなに振り向いてもらおうとしても、彼の心は昔から、あの女優に捕まっている。 「・・・私とあなたの結婚が会社同士の利益を結ぶためのものだと言う事はわかっています。 あなたが私を愛していない事も、そして、これから先、愛してはくれない事もわかっています。 でも、それでも・・・私は・・・私は・・・」 紫織の瞳に涙が浮かぶ。 「・・・あなたを諦められない。あなたの心が私になくても、私の方を向いて欲しい。 あなたの心の中から、北島マヤの存在を消したい!!」 彼に愛されたい一心で、心の声を口にする。 そんな事を言っても、無駄だという事はわかっていても、言わずにはいられない。 彼の事が好きだ・・・。 初めて、見合いの席で出会ってから、恋に落ちた。 初めて男性に対してそんな気持ちを抱いた。 胸が締め付けられるような気持ちがある事を知った。 身が裂けてしまいそうな想いがある事を知った。 今も、胸が熱い。 こうして、彼の目の前にいるだけで、彼を見つめるだけで・・・。 感情のコントロ−ルが効かなくなる。 醜くく、嫉妬に狂う女になってしまう。 胸の中が熱く滾る。 きつく、締め付けられる。 そして、彼女は意識を失った。 マヤは一日中、部屋の中にいた。 部屋のカ−テンを閉め、壁に寄りかかるように座る。 この一週間、一歩も外に出なかった。 麗がどんなに連れ出そうとしても、行かなかった。 もう、何も信じられない。 芝居も、紅天女も、どうでもいい。 どこが上演権を持とうと関係がない。 ただ、彼に裏切られた事が辛かった。 胸が痛かった。 涙が止まらない。 一生分の涙を流したと思える程泣いたのに、次々と涙が溢れてくる。 「・・・速水さん・・・」 彼の名を口にする。 彼の事を憎むべきなのに、憎めない。 あんな言葉を聞かされても、まだ彼の事が好きだった。 「・・気づかれましたか?」 紫織が目を開けると、真澄の姿があった。 「・・・真澄様・・・」 小さく呟く。 「突然、倒れたんです」 彼の言葉に、ここが病院だという事に気づく。 「・・・そうですか。真澄様にはお手間をかけました」 ベットから起き上がり、彼を見る。 「まだ、横になっていて下さい」 心配するように、紫織を見つめる。 「・・・大丈夫です。これぐらい・・・いつもの事ですから」 彼のオフィスにいた彼女とは別人のように冷静な表情を浮かべる。 その表情には何かただならぬ気配を感じる。 「・・・紫織さん?」 彼女の中にある何かを探るように口にする。 「本当に大丈夫ですから。真澄様、お家まで送って下さいませんか?」 紫織はにっこりと微笑んでみせた。 その日のうちに紫織は退院し、速水に自宅まで送ってもらった。 速水はここ最近の彼女の事を思い浮かべた。 顔色が悪く、段々とやせ細っていくように見える。 その事について、彼女は何も言わなかった。 明らかに、彼女は何かを彼に隠していた。 「・・・真澄様、ありがとう」 玄関まで、彼に送ってもらうと、紫織は儚く笑った。 「いえ。それより、紫織さん、お体を大切になさって下さい」 速水は本当に彼女の事が心配だった。 紫織は暫く、彼の事を見つめた。 「・・・真澄様、私の存在はあなたにとって邪魔ですか?」 思いがけない言葉に真澄は驚いたように彼女を見た。 「何を言うんです!あなたは僕の婚約者なんですよ!邪魔だなんて・・・。あなたは僕にとって大切な人です!」 紫織は彼の言葉を心に刻むように瞳を閉じた。 「・・・だったら、今、私を抱きしめて下さい!」 再び瞳を開け、彼を見つめる。 その視線に真澄は言葉にはできない何かを感じた。 「・・・お願い・・・」 真っ直ぐに彼を見つめる。 真澄は覚悟を決め、彼女をそっと、抱きしめた。 「・・・紫織さん・・・どうしました?何をそんなに不安がるのです。僕はずっと、あなたの側にいます」 腕の中の紫織を落ち着かせるように、耳元で囁く。 「あなたは僕にとって、大切な人だ」 紫織は速水の言葉に耳を傾け、涙を流した。 速水が生きている紫織に会ったのはその日が最後となった。 紫織と挙式を挙げる日は彼女の告別式と変わったのだった。 あまりにも、突然な事に真澄は実感がわかない。 彼女の死に顔はとても穏やかで、安らかだった。 「・・・苦しみから解放されて、彼女も楽になったのでしょう」 告別式前日、速水が一人、棺の中の彼女を見つめていると、誰かの声がした。 「・・・あなたは?」 振り向くと、速水と同じ年ぐらいの男が立っていた。 「私は彼女の主治医をしていたものです」 男は速水の隣に立ち、紫織を見つめた。 「知っていましたか?彼女は白血病だったんです。それも、もう末期の・・・手の施しようがないぐらい病に体を蝕まれてました」 初めて知る事実に真澄は瞳を見開いた。 「あなたに渡して欲しいと、彼女から頼まれた」 男は速水に白い封筒を差し出した。 「彼女は知っていたんですよ。この世から離れる事を・・・」 男は最後の別れをするように、紫織を見つめると、速水をその場に残して歩き出した。 後になったわかった事だが、紫織の病の事は誰にも知られさていなかった。 知っていたのは、本人と、医師だけだ。 それは真澄との挙式が中止される事を恐れての彼女の行動だった。 告別式が終わってから、10日。 真澄は彼女の医師から渡された封筒を開けられずにいた。 彼女に対して後ろめたさが、開封する事を迷わせた。 じっと、白い封筒を見つめ、手にとってみる。 このまま永遠にしまっておくか・・・それとも今日こそは開けるべきか・・・。 Trrr・・・Trrrr・・・。 思い切って開封しようと、封に手をかけた瞬間、上着のポケットに入れておいた携帯が鳴る。 「はい」 「黒沼だ。あんたに話がある」 いつものおでん屋に行くと、先に黒沼が来ていた。 「よぉ。若だんな」 いつもの調子で黒沼が声をかける。 「どうも」 速水は黒沼の隣に座ると、酒を頼んだ。 「・・・婚約者の事は残念だったな。心からお悔やみを言わせてもらうよ」 黒沼の言葉に速水は酒の注がれたグラスを見つめた。 最後に紫織と会った時の事を思い出す。 「・・・彼女はね。知っていたんですよ。僕が愛していない事を。彼女との婚約が仕事上の延長にすぎない事を・・・」 苦笑を浮かべる。 「僕は最後まで、彼女の気持ちに気づいてやれなかった。形だけの婚約者だった」 黒沼はこんな速水を見たのは初めてだった。 「珍しいな・・・。あんたがそんな事を口にするなんて」 「・・・僕だって、人間ですから。それで、用件は?」 一気にグラスの中の酒を飲み干すと、黒沼を見る。 「・・・北島の事だ・・・」 その言葉にドキッとする。 彼女の事を思わない日はなかった。 好きだと言われた夜から、一月以上が経っていた。 「彼女が何か?」 「・・・実は、芝居ができないんだ」 「えっ!?」 黒沼の言葉に眉を潜める。 「・・・どういう事ですか?」 訳がわからないというように、黒沼を見る。 「言葉通りだ。今、北島は芝居する事ができない。明日稽古場まで来てくれれば、俺の言っている事がわかるはずだ」 本公演へ向けての稽古が始まってから、二週間近く・・・。 マヤは阿古夜になれなかった。 厳密に言えば、芝居ができないのだ。 セリフを口にしても、動作を作っても、それはただそのままの事をしているだけ。 感情がついていかない。 役者の仮面が被れないのだ。 それでも、黒沼は何とか、彼女に芝居を続けてさせていた。 「できません!先生!」 ついに、マヤがねをあげる。 もう、これ以上、稽古を続ける事は彼女にとって辛かった。 阿古夜になれない事は誰よりも一番わかっていたから。 「続けるんだ。北島」 有無も言わせずに、黒沼が静かに口にする。 「先生、私には阿古夜にはなれない・・・。気持ちがわからなくなってしまったんです」 瞳に涙が浮かぶ。 「おまえは役者だろ?それでも演じ続けるんだ」 黒沼は一歩も引かなかった。 「できません!!!」 体中から声を張り上げ、とうとう、マヤは芝居から逃げるようにスタジオを出た。 「マヤちゃん!」 桜小路は慌てて、彼女を追おうとした。 「追うな。おまえは一真を続けるんだ」 桜小路の肩を掴む。 「・・・先生・・でも・・・」 納得のいかないように見る。 「いいから。続けるんだ」 黒沼は確信していた。 今飛び出していったマヤを速水が追いかけている事に。 彼は誰にも気づかれない場所から今日の稽古を見ていたのだ。 「逃げ出すのか?」 公園のベンチに座り、ぼんやりと地面を見つめていると、声がした。 「えっ?」 声のした方を向くと、速水の姿があった。 彼への想いに胸が軋む。 「今日、君の稽古を見せてもらったよ。まるで、できそこないの紅天女だな。 試演で君が見せたのとは全くの別物だ」 鋭く彼女を見つめる。 「だから、何ですか?あなたには関係がないでしょ!私がどんな紅天女を演じようと」 彼の言葉は正しかった。 それはマヤにもわかっている。 「多いに関係があるね。俺は紅天女をずっと、この手で上演させたいと思ってきたんだ。 やっと、演じる役者が決まったというのに、あんな芝居をされてはな・・・。はっきり言って、君には失望させられたよ」 速水の言葉が胸をえぐる。 これ以上、傷つく事はないと思っていたのに、さらに深い傷を心に負う。 悔しくて、哀しくて、涙が溢れる。 「私の事はほっといて下さい!あなたに言われなくても、わかっています。今の私が最低の演技しかできない事を・・・。 阿古夜に全くなれていない事を・・・」 彼女の声が涙に濡れる。 「・・・もう、私をこれ以上、傷つけないで下さい!!!」 怒りをぶつけるように、全身から叫ぶ。 「・・・お願い、私に構わないで・・・これ以上、私を追い詰めないで・・・」 彼女が痛々しい・・・。 思わず手が伸びそうになる。 「紫織さんとお幸せに・・・」 彼女のその一言に、彼は伸ばしそうになった手を止めた。 マヤはまだ知らなかった。 紫織が他界した事を・・・。 彼が結婚しなかった事を・・・。 「・・・さよなら・・・」 そう口にし、マヤはベンチから立ち上がった。 「待ちたまえ」 彼の前から走り去ろうとする彼女の背に言葉をかける。 「彼女は・・鷹宮紫織は亡くなったよ・・・」 つづく 2002.4.14. Cat |