永 遠 の 恋 〈3〉
「鷹宮紫織は亡くなった」 その事実が、真っ直ぐに彼女の心に飛び込んでくる。 彼はそれ以上は何も告げなかった。 彼の瞳には哀惜の色がまとい、現実ではない場所を見つめていた。 一体、何を思い、何を感じているのか・・・彼女にはわからない。 「・・・君には関係のない事だがな・・・」 最後に彼女の方をじっと見つめ、彼は背を向ける。 知らされた事実に、胸がドクドクと鼓動を立て始める。 彼に対して、何かを言わなければと、口を開いてみるが、逼塞されたような思いで一杯になり、声が出て来ない。 彼女にはただ、遠くなる彼の背を見つめている事しかできなかった。 それから半年、マヤは舞台には立たなかった。 演劇界では、公演の見通しがつかない紅天女について、議論が起きていた。 内容は北島マヤでは力不足だ。姫川亜弓で公演を行うべきだというものであり、その議論は日がたつにつれて白熱の色をみせた。 演劇協会側でも、もうこれ以上紅天女について見てみぬフリをする訳にはいかず、何かの結論を出さなければならなかった。 しかし、当の本人であるマヤの耳にこの事実は入れられていなかった。 彼女は稽古場を飛び出したあの日から一度も稽古には行かなかった。 今は芝居の事も、紅天女の事も忘れたようにただ、毎日をぼんやりと過ごす日々・・・。 時には街をぶらついてみたり、公園を散歩したりという逍遥とした時間を過ごした。 今日も、朝から漫然と公園の中にいた。 ここは速水と最後にあった場所。 懊悩とし、哀しさを吐き出したような彼の瞳が浮かぶ。 そして、彼の婚約者が亡くなったと聞いた時の全身を貫かれたような衝撃がまるで、昨日の事のように鮮やかに思い出せる。 自分はあの時、心のどこかで、彼女の死を喜んでいた。彼が結婚しなかった事を嬉しいと思った。 人の死を前にそんな事を思う自分が嫌だった。例え、一瞬でもそんな風に思う自分が恐ろしく思えた。 もう、何も信じられない。彼の事も、自分の事も・・・。 この世には何一つ真実なんてない気がした。 今まで演劇の世界で生きてきた彼女にとって世界はどこまでも真っ白で、希望に満ちていた。 しかし、彼に裏切られ、彼の婚約者の死を知り、白い世界は黒いインクで埋め尽くされた。 公園内には子供たちの無垢な笑い声が響く。 まだ、恐れも傷つく事も、汚れる事も知らない純真な彼らが、彼女にとっては非現実な生き物のように思えた。 空を見上げれば、清清しい程の蒼がどこまでも広がり、穏やかな風が頬を掠める。 しかし、自分の立っている場所はそれらとは全く別の世界にある気がした。 心に抜けないナイフが刺さり、ナイフは深く喰いこみ彼女の心をバラバラにし、裂こうとする。 両肩を抱き、唇をかみ締め、押し寄せる痛みに耐える。 そして、自分に言い聞かせた。 あの人の事は忘れようと・・・。 速水は仕事に忙殺される相変わらずの日常の中にいた。 ただ一つ変わった事といえば、紅天女に対して、北島マヤに対して、何のリアクションも起こさなくなった事だ。 以前の彼なら、きっと、誰よりも真っ先に彼女の元に駆けつけ、窮地を救うべく策謀を巡らせるだろう。 しかし、紫織に対して、外せない十字架を背負ってしまった彼には赦されなかった。 彼を結ぶ鎖は身動き一つするのも、呼吸一つするのもできない程に、より強く彼を縛り付ける。 日一日と、紫織の事を愛せなかった罪の意識は大きくなり、彼を追い詰める。 毎夜、彼の夢の中には二人の女が現れた。 一人は彼が心から恋焦がれた少女、もう一人は寂寥とした微笑を湛えた女性。 彼女たちは崖の上に立ち、一斉に手を伸ばす、そして、彼はいつも迷うのだ。 どちらの、手を掴むべきか、どちらを助けるべきか・・・。 しかし、いつも結末は同じだった。どちらの手をとっても、どちらか一方は崖の下へ目掛けて彼の目の前で飛び降りた。 そして、そこで目が覚める。 額には無数の冷や汗を滴らせ、酷く魘されていたのか、ベットの上のシ−ツは乱れていた。 時には、叫び声を上げる事もあり、家の者を心配させていた。 「真澄様、本当にこのままでいいのですか?」 聖の声に我に返るようにハッとする。ここは、速水が所有する別荘だった。 精神的な疲れを感じて、彼は2、3日程の休暇をとっていた。 「・・・何の事だ?」 窓の外を見つめながら、彼が答える。聖が何を言いたいのかはわかっていた。 だから、彼の方を見る事ができない。 「月影千草が紅天女の上演権について、譲歩したそうです」 冷静な聖の声が胸に響く。それがどういう意味をなしているかはわかっていた。 だが、彼には手を差し伸べる事ができない。 「・・・俺には関係のない事だ・・・」 無理矢理、彼女を自分から遠ざける。 もう、何もかも忘れてしまいたかった。 彼女の煌く魂を目にした瞬間、彼は天空から地面に落とされたごとく、恋に落ち、熱い炎の中に飛び込んだ。 その炎は彼の全身を焼きつくすように、激しく燃え盛りいつまでも消える事はない。 今、こうしていても、彼女に会いたい想いで胸は締め付けられ、身が砕けてしまいそうだった。 しかし、もう、その恋は終わりにしなければならない。ここで、彼女の事を忘れなければならない。 一生外せない十字架が、彼の一生に一度の生涯の恋を諦めさせようとする。 罪悪感が彼に囁きかける。 おまえは人殺しだ・・・彼女を愛せなかったおまえが、幸せになる事は赦されないと。 「・・・紫織様の事が、あなにの心を頑なに閉ざすのですか?」 その言葉に、彼は何も言わず、唇をかみ締めた。窓の外には蒼い海が広がる。 一層の事、このまま何も考えず、海の中にこの身を沈める事がてぎたら、どんなに楽なのだろうか・・・。 「あの方が亡くなったのはあなたのせいではないはずです。彼女は病でこの世を去ったのです。それが人の命運というものでしょう。 そのことまで、あなたが背負う必要はないはずです」 珍しく聖が感情的になっている気がした。真摯な聖の声がまるで、彼に手を差し伸べるように救いの手を出す。 しかし、彼には、その手を取る事は赦されない。鷹宮紫織を愛せなかった罪は一生償っても、贖罪には値にしないものだ。 「・・・今日は随分と、おせっかいだな。聖」 窓ガラスに映る聖の姿を見つける。彼の瞳は何かを訴えているようだった。 「紫織さんは俺や周りの者には病気の事は内緒にしていた。なぜだか、その理由はわかるか?」 苛立ちを抑えるように胸の前で組んだ腕を強く握り、苦衷とした想いを吐き出すように、表情を歪める。 聖には真澄の背しかみえなかったが、彼が今どんな表情をしているか、わかる気がした。 「・・・彼女は俺との式が中止になるのを恐れたんだ・・・。それ程、俺との結婚に夢を見ていた・・・。俺が彼女を愛していないと知りながらな」 普段の彼とは別人のように桎梏とした想いを口にする。 「・・あなたは一生、紫織様の死を背負うつもりなのですか?それで、本当にいいのですか?」 聖の言葉に苛立ちが募る。 「おまえに何がわかるんだ!!!」 振り向き、怒りをぶつけるように声を張り上げる。 聖は少しも真澄から目を逸らす事なく、見つめていた。 「あなたは自分から逃げているだけです」 その言葉に心の中を裸にされた気がした。 聖が言っている事は正しかった。それは、わかる。だが、彼には自分自身を赦す事はできなかった。 「・・・用件がそれだけなら、一人にしてくれないか?」 疲れきった声で告げ、彼は再び窓の外を見つめた。 「北島。本当にもう舞台には立たないつもりなのか?」 マヤは黒沼に呼び出され、キッド・スタジオを訪れていた。 その日は誰もスタジオにはおらず、マヤと黒沼の二人だけとなった。 「・・・はい・・・」 何の躊躇いもなく答える。 もはや彼女の中に芝居に対する情熱は消えていた。 「今、演劇協会では紅天女の上演権をどうするか話し合われている。このままいけば、間違いなく上演権は姫川亜弓の元に行くだろう。 おまえは本当にそれでいいのか?」 初めて知らされた事実に、眉をあげる。 胸の中に言葉にならない痛みが広がる。 「・・・今日、月影千草が全ての決定を演劇協会に任せると、譲歩したよ。きっと、明日には結果がでるだろう」 月影の名前に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 「おまえは知らないと思うけどな。月影さんはこの半年、おまえを守るため、上演権を姫川亜弓に移譲する事には反対し続けたんだ。 北島。おまえのしている事は月影さんを裏切る事にもなるんだぞ?その辺を考えた上で、もう舞台には立たないと言っているのか?」 黒沼の言葉がズシリと胸に響く。 月影への裏切り・・・。それは思ってもみなかった事だ。 「・・・どうしても、あの人の事が浮かんでしまうんです・・・」 小さな声で呟く。 「舞台に立とうとすると、紅天女を演じようとすると・・・あの人の事が・・・」 想いが溢れる。 「忘れたいのに・・・忘れられない・・・。私、どうしたらいいのかわからなくて・・・」 救いを求めるように黒沼を見つめる。 「・・・あの人って・・・速水真澄の事か?」 無言で頷き、涙を流す。 「・・・どうして、忘れようとする?あいつの事を好きなら、好きなままでいいじゃないか?紅天女だってあいつの事を想って演じたのだろう?」 否定するように首を左右に振る。 「駄目なんです。それじゃあ・・・。北島マヤが強くですぎて・・・、私、役の仮面が被れなくなるんです。ずっと、つまらなくて、何の取り得もない北島マヤのままなんです!」 聖が帰った後、速水は別荘の外を歩いた。 考え事をしたい時はいつも、浜辺に立ち、海を見つめる。 波の音に耳をすませ、彼方に見える地平線を眺めると、なぜか心が静む気がした。 手には紫織が彼に宛てた最初で最後の手紙を持っていた。 彼女が亡くなってから、半年以上開封する事ができなかった。 今こそ封を切るべきなのかもしれない・・・。 そう自分に言い聞かせ、とうとう彼は封に手をかけた。 『真澄様へ あなたがこれを読んでいるという事は私はもう、この世にはいないのですね。 まずはあなたに病の事を隠したまま逝く事をお詫び致します。 どうしても私はあなたに告げる事ができませんでした。 きっと、誠実なあなたの事ですから、私の死に責任を感じている事かと思い、この手紙を書く事にしました。 私はあなたと出会えて幸せでした。 あなたから、恋する気持ちを学び、苦しさを知りました。 あなたと過ごした時間は私の生涯の中で一番人間らしい時間を過ごせた気がします。 だから、私の事に責任を感じないで下さい。 あなたが誰を愛していたかは知っています。 それを覚悟の上で私はあなたと一緒になろうとしました。 でも、それは間違っていました。 段々、あなたが私の前で笑わなくなって、私は初めて気づきました。あなたを苦しめていた事に、私の想いが空回りしていた事に。 私はあなたを解放するべきなのでしょうね。 真澄様、あなたの想うままに生きて下さい。 幸せになる事を考えて下さい。あなたの求める人を放さないで下さい。 それが私の望む事です。 今まで、私と一緒にいて下さってありがとう。心から感謝しています。 あなたの事が好きでした。 鷹宮紫織』 涙が止まらなかった。 何度も、何度もその文面を目にし、込み上げてくる熱い想いに唇をかみ締めた。 何の飾り気もない、真っ直ぐな文面に、彼女の気持ちが痛い程伝わってくる。 初めて彼女の心と触れ合えた気がする。 そして、彼女の死が心の底から悲しいものだと思えた。 空を見上げると、晦冥とした夜空に星星が浮かびあがっていた。 いつか、マヤと見た空を思い出した。 彼女の嫣然とした無邪気な表情と、最後に出会った時の沈鬱とした表情が浮かぶ。 いつの間に、彼女にあんな表情をさせるようにしてしまったのだろうか・・・。 一番、傷つけてはいけない彼にとっては神聖な存在だったのに・・・。 彼がこの世で唯一愛した人なのに・・・。 自らの利益を守る為、彼は彼女の胸を尖鋭とした刃物でつきたてたのだ。 手の平を見ると、彼女の血で濡れている気がした。 「・・・くそっ!俺は・・・何て事をしてしまったんだ・・・」 本当にあがわなければならない罪は、紫織に対してではなく、マヤに対してだった事に、彼は初めて気がついた。 気づいたら、マヤはアパ−ト近くの公園にいた。 キッド・スタジオからどうここまで辿りついたのか、記憶がない。 空を見上げると、暗闇の中、煌々と輝く月が見えた。 一体いつ、夜になったのだろうか・・・。そんな事さえも気づかなかった。 ブランコに腰かけ、前後に揺らしてみる。 風に髪がなびき、月が近くに見えた。 「子供はもう、家に帰る時間じゃないのか?」 突然、誰かに話かけられる。 横を向くと、長身の男が立っていた。 強く揺れていたブランコの動きが力を失ったように、勢いを弱める。 「もう、夜中だぞ?君はこんな所で何をしているんだ?」 男はそっと彼女に近づき、隣のブランコに腰かけた。 彼女は何も言わず、俯いたまま、所在なさげにブランコを揺らす。 キ−という金属音が森閑とした公園内に広がっていた。 「俺とは口もききたくないという訳か・・・。まぁ、それも当然だな。俺は君に嘘をついたんだから」 彼の声はとても穏やかで、静かだった。 「だったら、そのままでいい。俺の話を最後まで聞いて欲しい」 彼女は頷く訳でもなく、彼から顔を逸らしたように足元を見つめたままだった。 彼はそれを彼女の返事だととらえ、再び口を開いた。 「俺には好きな人がいる。彼女と出会ってから7年以上、俺はずっと胸の内にその想いを抱いていた。 しかし、俺は彼女に気持ちは告げず、見合いをした。諦めたかったからだ。これ以上、彼女の事を好きになるのが、怖かった。 彼女の事になると、自分でもわからないぐらい冷静ではいられなくなった。俺はそんな自分が嫌だった。 この俺がたかが、恋や愛になんてものに溺れるなんて認めたくなかった。それに・・・いくら想っても、彼女は俺の方を振り向いてはくれない。だから・・・」 彼は胸裏に秘めていた想いを包み隠す事なく、吐露する。 「亡くなった紫織さんとの婚約は俺にとっては仕事の一つだった。彼女に対して、好意はあったが、それは恋愛感情と呼ばれるものとは程遠かった。 それでも、紫織さんは俺を好きになってくれた。だから、俺もできるだけ紫織さんの気持ちに応えたかった。しかし、俺は彼女を忘れられなかった。 彼女に会うたびに自分が無駄な努力をしている事に気づいた。一層の事、この気持ちを伝えようかとも思ったが、できなかった。 婚約者のいる俺にはその行為は許されなかったから。伝えても、彼女を困らせてしまうだけだと、知っていたから。だから、この気持ちは一生、俺の胸の中だけに 秘めていようと思っていた。だが、その結果、俺は一番傷つけてはいけない大切な人を、深く傷つけてしまった」 そこまで口にし、彼は再び彼女を見つめた。彼女はブランコを揺らす事を止め、地面に足をつけていた。 どんな表情をしているのか、覗き込もうとしても、長い黒髪が彼女の顔を隠していた。 この先の言葉を告げるべきか迷う。彼女が自分の気持ちを受け止めてくれるか、自信がなかった。 だが、今度こそ言わなければならない・・・。思えば、彼の優柔不断さが紫織を苦しめ、今は目の前の彼女をも苦しめているのだから。 「・・・君が俺に気持ちを伝えてくれた晩、俺は嘘をついた挙句、嘲弄したような態度をとって君を傷つけた。こんな言葉で君に赦してもらえるとは思わない。 だが、謝らせてくれ・・・。本当にすまない・・・。俺は・・・君の事を・・・」「速水さん」 彼は”愛している”という言葉を飲み込み、ようやく口を開いた彼女の存在を確かめるように見つめた。 「・・・もう、いいんです。私、本当に・・・もう、いいんです・・・あれは嘘です。ただの気まぐれです。あなたの事なんて、本当は好きなんかじゃありません。 知っているでしょ?昔から私があなたの事を大嫌いだったって・・・たがら、もう、いいです。謝らないで下さい」 彼女の声が微かに震えている気がした。 今すぐ彼女の顔が見たい、どんな顔をしているか、知りたい。 「・・・わざわざ謝りに来て下さってありがとうございました。私、そろそろ帰ります」 彼女は彼に背を向けるようにして、ブランコから立ち上がり、歩き始める。 「待ってくれ。俺はまだ最後まで君に言いたい事を言っていない」 彼女を追いかけるように、彼もブランコから離れると、腕を掴み、力強く引き寄せた。 彼女の髪が宙に舞い、泣き顔が露になる。 「・・・放して下さい!これ以上、私に何を言うっていうんですか!速水さん、残酷すぎます。私、これ以上冷静にあなたの話しを聞く自信なんてない・んっ・・!」 彼女の言葉を塞ぐように、唇を重ねる。 もう、これ以上冷静でなんていられるはずがなかった。考えるよりも、言葉にするよりも、体が勝手に動く。 心が何百回、何千回も、愛している。愛している。と叫び声をあげる。 彼女を放す事なんて、彼にできるはずはない。 ずっと、求めていたのだ。彼女と一緒になる事を、愛するがままに彼女を抱きしめる事を・・・。 「・・・君が好きなんだ。俺と結婚して欲しい・・・」 唇を離すと、彼は抑える事のできない想いを告げた。 つづく 【後書き】 速水さんにようやく動いて頂きました(笑) 3話予定でしたが、もう2話増やす事にしました。 実はこのお話大幅に書き直しました。最初に書き上げた段階では、速水さんにマヤちゃん襲ってもらうという終わり方だったのですが、 その後が続かないので断念致しました(笑)どうも最近18●ものが書けなくなっております(年かしら 笑) 何だか、段々リクエストからズレているような気もしますが・・・はははは。まぁ、そこは・・・その・・ねぇぇ・・(^^; 駄作にここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。 2002.4.21. Cat |