暑 い 日
「暑い・・・」 そう呟き、速水真澄は窓の外を見つめた。 ここ大都芸能ビル最上階にある彼のオフィスは茹だる様な暑さに包まれていた。 それというのも、空調メンテナンスの為、今日一日は冷房が使えないというとんでもない事態が起きてしまったからだ。 窓を全開にしてみるが、都会の風は涼しいとは言えない。 しかし、暑い、暑いとも言ってはいられない。彼は日頃冷血漢の鬼社長で通っているのだ。 このぐらいの暑さで業務に支障をきたすようでは社長などしてはいられないのだ。 長年鍛え抜かれた理性で汗一つ見せず、彼は社員の前では涼しい顔をしながら、仕事をこなしていた。 彼の身近に仕える秘書課ではそんな彼についてあれこれと囁かれていた。 「暑いわねぇぇ、本当に・・・。何とかならないのかしら、この暑さ」 秘書課の一人の言葉に、皆が一斉に頷く。 「しかし、社長はこんな時でもいつもとは変わらない様子だったわよ」 速水の元へ資料を届けた者が口にする。 「社長には暑さなんて関係ないって事ね。さすがというか・・・。ある意味人間離れしているわ」 「知ってる?社長は本当は人造人間か何からしいわよ?」 その言葉に誰もが納得してしまう。それ程、彼の仕事は完璧だった。 増して今日のようなこんな状況下でも彼の仕事のペ−スは崩れる事はない。 社員の殆どがいつもの業務の半分をするのもやっとだと言うのに・・・。 「さっきの会議でなんか、社長以外は皆、ス−ツの上着を脱いで顔中に汗をかいていたけど、 社長は上着を着たままでもいつもと変わらなかったわ。とても皆、社長の前では暑いなんて言えなかったようよ」 秘書課中は改めて自分たちの社長が凄いという事を実感していた。 「しかし、あの社長の人間らしい所って見た事ないわ。だから、私、いつも社長に会うと何だか緊張しちゃって」 入社半年になる橘の言葉に一同が頷く。 「本当、社長って、いつも隙がなくて、表情一つ変えない。やっぱり人造人間って噂本当なのかしら?」 橘と同期の田村が口にする。 「あなたたちまだ、北島マヤといる社長を見た事がないのね」 彼女たちよりも一年先輩の杉田は得意気に口にした。 「えっ?北島マヤって?今年大都に入った高校生の女の子ですか?」 以外そうに橘は杉田を見た。 「えぇ。そう。彼女の前では社長も人間に戻っちゃうみたいよ」 そう口にし、杉田は先日速水に一日ついていた時の事を話し始めた。 その日速水は北島マヤ主演の「天の輝き」を視察しに行っていた。 「杉田さん、プロデュ−サ−の岩本さんを探してきてくれないかしら」 スタジオに入ると、水城がそう口にする。 「えっ、あっ、はい」 杉田は言われた通りに岩本を探しに速水から離れる事になった。 運良く、岩本を見つける事はすぐにでき、水城と速水の元へ戻ろうとした瞬間、彼女は見てはならないものを見てしまったのである。 「もう!本当に嫌な人!!!」 あろう事に北島マヤが速水に向かってそんな事を言っていたのである。 速水真澄に対してそんな事を口にするなんて、なんて怖いもの知らずなのか。 当然、速水は気分を害して小生意気な女優をしかるだろうと思ったが・・・次の瞬間、聞こえてきたのはナント!彼の笑い声であった。 「ははははは。相変わらず威勢がいいなちびちゃん」 そう口にした速水の表情は気分を害する所か、とても楽しそうだった。 生き生きとした表情を浮かべ、北島マヤに対して、一言、二言と嫌味を口にする。 北島マヤは素直に反応し、また大きく悪態をつくのだが、速水はそれを楽しんでいるようだった。 「あら、杉田さん、岩本プロデュ−サ−はどこにいるかわかったかしら?」 呆然と立ち尽くす杉田に水城の涼し気な声がかかる。 「えっ・・・あっ、はい。スタッフル−ムにいらっしゃるようです」 戸惑いを浮かべたまま水城に口にすると、水城がクスリと笑う。 「そう。私は岩本さんの所に行ってくるから、社長をお願いするわ」 「えっ、お願いすると言われても・・・」 視線を速水の方にやると、彼は可笑しそうに笑っていた。 まるで別人のような彼にどうしたらいいのかわからない。 「次の予定のお時間まで好きにさせてあげて」 速水の邪魔をしないようにと言うように水城は視線で釘を刺した。 「はい。了解しました」 杉田は水城に言われた通りにする為、速水の視界に入らない場所で待機している事にした。 そして、耳だけはそっと速水の方に向ける。 「もう少し所属事務所の女優を褒めるって事を知らないんですか?」 冗談交じりの声で北島マヤが告げる。 速水はクスリと笑い、優しい瞳で彼女を見つめた。 「これでも十分褒めているつもりだがな」 速水の言葉に北島マヤはまたムスッとしたように彼を見た。 「君こそ、もう少しこの俺に愛想を振り向いたらどうだ?これでも俺は大都芸能の社長なんだぞ?」 態と真面目腐った表情で速水が告げると、怒っていた北島マヤが急に笑い出した。 その瞬間、速水が瞳を細めて彼女を見つめているのがわかる。 その表情は何か神々しいものでも見るようなものだった。 そんな速水を目にした途端、杉田は自分の胸がドキドキと鼓動を早めた事に気づく。 思わず、彼から視線を外してしまう。こんな気持ち秘書課に配属されてから初めてだ。 いつもは仏頂面の彼に威圧感しか感じた事がないのに。 「社長は本当はお優しい方なのよ」 いつか水城が口にした言葉を思い出す。あれは入社して半年目の事だった。 最初はモデルのような社長に仕える事ができて楽しいと思えた仕事だったが、速水に会う度に極度の緊張感を覚え、 胃潰瘍の一歩手前までいってしまい、本気で秘書を続けるか悩んでいた。 「もっと、肩の力を抜いてご覧なさい。社長はそんなに完璧な仕事を求めている訳ではない。完璧に近い、ベストを求めているのよ。 一つや二つの失敗ぐらい許して下さる寛大な方よ」 緊張感の連続したある日、杉田は重要書類をシュレッタ−に掛けてしまうという大失態をしてしまったのだった。 当然、これではもう秘書課にはいられないと思い、辞表を書いた。 「ですが、私は取り返しのつかない事をしてしまいました。私のミスの為に社長には大変なご迷惑をかけたのは事実です」 杉田が犯したミスを埋める為、速水は三日間の出張に出る事になった。 その出張に杉田もついてくと告げたが、速水は冷たい表情を浮かべたまま「君は来る必要はない」とハッキリと口にした。 杉田には”邪魔だ”とその言葉が聞こえた。 「今日、社長が出張からお戻りになったら、直接辞表を提出します」 その言葉通りに杉田は速水が戻ると、辞表を彼の前に出した。 速水は片眉をあげ、達筆な字で書かれた”辞職願い”の四文字を見つめる。 「この度は本当に申し訳ございませんでした。私の不注意で社長を始め、会社には多大なご迷惑をおかけしてしまい、 もう、何とお詫びの言葉を述べたらいいのか・・・」 後半はもう涙声だった。ただでさえ、杉田は速水が怖かった。どんなふうに叱られるのか、どんな冷たい言葉を浴びさせられるのか、 日頃怒鳴り散らされている社員たちを見ている彼女は裁判官の前で死刑判決を言い渡される囚人のような心地だった。 速水は何も言わず、杉田に視線を向けると、一瞬、表情を緩めた。 それは杉田が入社してから初めて見るものだ。 「・・・そんなに俺が怖いか?」 速水の口から出たのは思わぬ言葉だった。 「えっ?」 戸惑ったように速水の顔を見る。 「杉田君、今回の事は確かに大きなミスだったが、おかげで更にいい条件で向こう側と再契約をする事ができたよ。それも君のおかげだ。 君が連日遅くまで残業して、日本から俺をサポ−トしてくれたからだ。全ては水城君から聞いている」 いつもと変わらぬ仏頂面だったが、声には穏やかさが含まれていた。 「君がミスを真摯に受けとめ、誰よりも大きく責任を感じていた事は知っている。俺はそういう人間は好きだ。 そういう一生懸命なヤツは傍においておきたい」 速水の言葉に杉田は大きく瞳を見開いた。まさか、そんな言葉が彼の口から聞けるなんて夢にも思わなかった事だ。 「だから、この辞表は取り消して貰いたい。俺の下でこれからも仕事をしてくれないか?」 その言葉に杉田は涙を浮かべ、頷いた。 相変わらず、速水は仏頂面を浮かべた怖い社長だったが、不思議と今までのような緊張感を感じる事はなくなっていた。 「あら、社長様に私だって十分に愛想よくしているつもりですよ」 ふと回想に耽っていた杉田に北島マヤの声が届く。 北島マヤは引きつった笑みを顔全面に広げていた。そんな顔をされては速水でなくても、笑ってしまう。 「えっ!」 マヤはどこからか聞こえてきた女の笑い声に驚いたように声をあげた。 それは速水も同じで、一体どこからこんな笑い声が聞こえてくるのかと、後ろを振り返る。 「・・・杉田君!」 柱の影に隠れていた杉田の姿に速水は眉を上げた。 「あっ、社長、すみません」 速水に見つかった事に気づき、何とか笑いを止めようとするが、一度笑い出すと止まらない笑い上戸の杉田には無理だった。 「やれやれ、どうやら君の笑顔は余程、俺の秘書に受けたようだな」 速水の言葉にマヤは赤くなって俯いていた。 「・・す、すみません・・、笑いが・・・止まらなく・・て」 必死に止めようとするが杉田の笑いは止まらない。その様子に今度は速水が笑い出し、そしてマヤもそんな二人を見て笑っていた。 「えぇ!!社長が笑ったですって???」 杉田の話を聞き終えた橘と田村が同時に声を上げた。 「えぇ、水城さんが来るまでずっと笑っていたわ。まぁ、私も笑っていたけど・・・」 橘と田村は信じられないというように互いを見合った。 「確かに仕事に対しては誰よりも厳しい人だけど、社長って結構人間的なのよ」 そう杉田が口にした瞬間、デスクの上のインタ−ホンがなる。 「杉田君、例のものそろそろ持ってきてくれないか」 速水の落ち着いた声がインタ−ホン越しに響く。 「かしこまりました。すぐに持っていきます」 杉田はインタ−ホンを受けると、ニヤッと橘と田村を見た。 「社長だって人間だって所、見せてあげましょうか?」 「えっ?」 橘と田村はきょとんとした表情を浮かべていた。 「失礼します」 速水に言われた例のものを手に杉田は社長室のドアを開けた。 社長室も秘書課同様蒸し暑かった。 汗一つ流していない速水の姿に杉田の後から入ってきた橘と田村はどこが人間らしいの?”と視線を交わす。 「うん?君たちは?」 顔を上げ、杉田の後に入ってきた橘と田村に速水は視線をやった。 「あっ、その、アイスコ−ヒ−をお持ちしました」 橘は慌てて、速水の前にグラスを置いた。 「K社についての資料をお待ち致しました」 田村は杉田に渡された書類を速水の前に置いた。 「あぁ、そうか。ありがとう」 速水はアイスコ−ヒ−を一口口にし、書類を見つめた。 「社長、失礼します」 大きなビニ−ル袋を持っていた杉田はそう言い、速水の傍にいくと、屈みこみ彼の足元に何かを入れる。 カラン、コロンと彼の足元に置かれた盥(たらい)の中にそれは注ぎ込まれた。 その様子を目にして、橘も田村も言葉がない。 「ありがとう」 助かったというように速水は僅かに表情を綻ばせる。 仏頂面しか見た事のない橘と田村は信じられないものでも見たよう瞳を見開いた。 「そういえば、この後北島マヤ様がいらっしゃる予定ですが、社長、今日は場所を変えて社外でお会いになったらどうです? 幸いにも社長の今日の午後の予定は一つキャンセルになりましたし、お時間も十分あると思いますが」 杉田の提案に、速水は今度こそ大きく表情を緩めた。 「そうだな。こんな暑い所では話しにもならん」 今日初めて速水の口から出た”暑い”という言葉に、やっぱり社長でも暑いと感じていたのかぁぁ、などとどうでもいい事が橘と田村の頭の中浮かんだ。 「青山のル・ポワゾを予約しといてくれ」 そう告げると、速水は氷を入れたばかりの盥から足を抜き、タオルで足を拭くといそいそと靴下、靴を履いて社長室を後にした。 彼が出て行ってから、3秒後、橘と田村はプッと笑い出した。 「やだ。社長ったら」 速水が汗一つ流さなかったカラクリを知ると、急にあの仏頂面が可笑しくなってくる。 「こんな仕掛けがあったんですね。それに、あんなにいそいそと楽し気に出かけていく社長初めて見ました」 田村はまるでこれから恋人とデ−トにでも行くような速水の姿を思い出してさらに、笑い声を上げた。 「ねぇ、社長って、結構わかり易い方でしょ」 クスリと笑みを零し、杉田は速水に頼まれた店へ予約を入れる為、社長室を後にした。 Painted by みつき様 −終わり− 【後書き】 いつもと違う視点で書いてみました。本当はもっとマヤちゃんといちゃいちゃする速水さんを書く予定でしたが・・・。 途中から違う方向に行ってしまいました(笑)まぁ、偶にはこんなのもいいかな・・・なんて(笑) はぁぁ・・・。それにしても暑いですねぇぇ。この暑さに頭の中が溶けそうです(笑) 2002.7.18. Cat 【後書き追加】 みつきさん!!ありがとうございます!!!この盥に足を突っ込んでいる真澄様はナント!みつきさんが描いて下さいました!! いやぁぁ・・・涼し気な真澄様だ(笑) |