嘘つき−真澄−



「またそんな面白い顔をして」
彼に向かっていつもの不機嫌な表情を浮かべると、呆れたような声と、綻びた瞳が彼女を見つめた。
別に好きでこんな表情をしている訳ではない。
ただ、また彼にカラカワレルと思うと身構えてしまい、それが顔に出てしまうだけなのだ。
それが、余計に彼の興味を引き立ててカラカワレル事に繋がっているとは、彼女は夢にも思わない。
「今度は喜劇にでも出るつもりか?」
ムスッとした彼女の顔をじっと見つめ、含み笑いとともに、彼が告げるが、その途端、彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
それは彼にとっても思いもよらない展開だったので、さすがにアタフタとしてしまう。
「・・・ちびちゃん?」
俯き、黙ったままの彼女に彼は落ち着かない心地になる。
いつもとは違う反応を見せる彼女が、今日は何だかより、小さく見えた。

「・・・嘘つき・・」

涙を拭い、掠れる声で彼女が告げる。
その言葉の持つ効力に彼の胸は一瞬、チクリと痛んだが、しかし、なぜ”嘘つき”なのかがわからない。
今日、彼女と交わした会話を反芻しながら、何がいけなかったのかを考えるが、いくら考えても彼女に泣かれる言われはない。
「・・・ちびちゃん、お願いだから、俺にもわかるように話してくれないか?」
尚も泣き続ける彼女に、彼は降参だと言わんばかりに告げた。
その瞬間、彼女はキッと瞳を開き、俯いていた顔を上げる。
両者の瞳は戸惑いの色を浮かべ交錯する。
そして、彼女の薔薇色の唇がゆっくりと開く。

「北島さん、出番です」

しかし、その声に彼女のか細い声は掻き消され、彼は結局彼女が何を口にしたのか聞き取れなかった。
自分の出番を知ると、彼女はそれ以上彼には何も告げず、スタジオの隅からセットに向かって走り始めていた。

「社長、そろそろ重役会の時間です」
彼女に向かって伸びた手が宙を掠めると、秘書の杉田がそう告げた。
「・・あぁ・・・わかった」
撮影が終わるまで待っていたかったが、芸能社の社長をしている彼に時間は許さなかった。
まさに後ろ髪が惹かれるような想いで、彼は撮影スタジオを出たのだった。


社に向かう車上でも、彼は彼女の流した涙の理由と、言葉の意味を考えていた。
秘書が事務的に告げるこの後の予定など、もう彼の知った事ではない。
今は、彼女だ。彼女だけしか頭にはない。
これから始まる重役会で取り上げられる案件についての書類をざっと目だけは捉えているが、
それは視覚的に字が入るのであって、頭の中には全くと言っていい程、何も入らなかった。



「今期の経常収支ですが・・・」

重役会は大都グル−プ全体の幹部が集まり、グル−プ全体についての経営方針について話し合われる場だった。
当然、グル−プ総裁である速水英介も今日の会議には出席していた。
会議は大都グル−プの中心的事業である大都運輸の47階で行われた。西新宿の高層ビル街の一角にある大都運輸からは
都庁・新宿の街並みはおろか、東京都内がまるで航空写真のように一望する事ができる。
英介は会議の内容よりも、この景色の方に興味があるようで、時折、窓の外を見つめながら、ふと真向かいに座っている真澄の様子が気になった。
彼は別の事に意識を取られているようで、どこか上の空というありさまだ。

「では、次に株主総会についてですが」
型通りの報告を進行役の渡井常務が口にすると、英介は待ったをかけた。
今日初めて口を開いた英介に真澄を除いた全員が、一瞬、ギョッとしたように視線をやる。
「株主総会の前に、大都芸能代表取締役速水真澄の進退について今日の重役会の案件に一つ加えてもらいたい」
英介の口から出た自分の名にさすがに彼はハッとし、意識を彼女から現実へと戻した。
「私の進退?つまり、総帥は私が代表取締役を務める器ではないと言いたいのですか?」
彼は真っ直ぐに血の繋がらない父親を見つめた。その瞳は氷のような冷たさと鋭さを持っていた。
「そうではない。ただ、今後大都グル−プがより発展する為には大きな改革をする必要があると言っているのだ。
速水取締役にはもっと、大都グル−プの中心的部分の役職についてもらいたい。その為の進退だ」
突然の総帥の言葉に誰もが、頭の中が白くなる。
「待って下さい!私はまだ大都芸能でやるべき事があります!!」
デスクをドンっと叩き、思わず、真澄は椅子から立ち上がる。
「やりたい事?それは紅天女の事かね?」
英介は重圧するような視線を真澄に向けた。
その日の重役会はこの二人の対立によって幕が閉められた。
速水真澄の進退については一週間後の重役会で再び話し合われる事になった。

「なぜです?お義父さん、いや、速水総帥」
重役会終了後、真澄は英介に呼び止められた。
重役たちが退室した会議室に義父と息子だけが残る。
「紅天女を大都で上演させるまでは私に大都を任せてくれると思っていましたが」
英介は杖を使い椅子から立ち上がると壁一面に張られた窓ガラスの前に立ち、外を見つめていた。
「わしはここからの眺めが好きだ。自分の欲しいものを全て目にする事ができる」
重苦しい沈黙を破るように英介は口を開いた。
「そして、わしの最も欲しいものは”紅天女”だ。恋焦がれ唯一手に入らなかった紅天女が欲しい。だからおまえに大都芸能を任せる事にした。
おまえは一番信頼できる部下だからだ。しかし、おまえでは紅天女を手にする事ができない」
英介はそう口にすると、振り向き真澄を真正面に見据えた。
「なぜ、そう言いきれるんですか!私はこれまで紅天女を手に入れる為、最善の手段を使ってきました」
納得がいかぬというように真澄の声が荒がる。
「・・・駆け出しの役者に紫の薔薇を贈る事が最善の手段だと言うのか?」
英介の声が静かに広がる。思いもよらぬ言葉に真澄はこれ以上ない程瞳を見開いた。
「おまえも紅天女に魅せられてしまったようだな。だが、その感情は余計なものだ。もしも紅天女があの子に決まった時、
おまえはあの子から紅天女を奪えるか?」
大都と紅天女の間にある因縁を知っている彼女は間違いなく大都で上演する事を断るだろう。
その時は非情な手段に訴えるしかない。しかし、そんな事、英介に問われるまでもなく、彼にできるはずはなかった。
「来週の重役会でおまえの進退が決まったら、アメリカに飛んで貰う。肩書きは大都物産支社長だ」




「・・・社長?」
そう呼び止められ、彼は俯いていた顔を上げた。
秘書の杉田が、彼へのコ−ヒ−を持って佇んでいた。
「あぁ、ありがとう。そこに置いておいてくれ」
杉田は速水の言葉を聞くと、コ−ヒ−を彼のデスクに置いた。
重役会から戻った彼はいつになく深刻な表情を浮かべている。秘書課に配属されてから2年。
こんな速水を見たのは初めてだった。
「・・・社長、どうされたんですか?」
秘書としては余計な言葉だが、そう口にせずにはいられなかった。
速水はその言葉に一瞬、驚いたように杉田を見た。
「あ、いえ。すみません。社長が何だか辛そうに見えたので」
杉田の言葉を聞くと、速水は苦笑するように、少し口の端を上げた。
「何もない。ただ、考え事をしていただけだ。杉田君、君は明日から水城君の代わりに北島マヤについていてくれないか?」
水城は今、北島マヤのマネ−ジャ−をしていた。彼女なら、演劇しか知らない無垢なマヤを守れると思ったからだ。
ようやく大都芸能のものになったマヤにできるだけ良い環境で演技をしてもらいたかった。
しかし、今は水城の力が欲しかった。杉田は水城の次に信頼がおける人物だった。彼女なら、きっと北島マヤを上手くサポ−トしてくれるはずだ。
「えっ・・・、私が水城さんの代わりにですか?」
突然の申し出に杉田は戸惑いを浮かべる。
「あぁ、頼む。君しかいないんだ」
速水からそう言われては断れるはずもなく、不安を抱えながらも杉田は承知する事になった。

「どうされた・・・か」
杉田が社長室を後にすると、彼は窓の外を見つめ、呟いた。
確かに今日の自分は戸惑いを表に出していたかもしれない。理由のわからない彼女の言葉に、突然の異動。
そして、何よりも驚いたのが英介に全てを知られていた事だった。
彼は英介に言われた通り、彼女に紫の薔薇を贈り続け、高校の学費まで支援した。
それは一芸能社の社長として行き過ぎた行為だとわかってはいたが、そうする事しかできなかった。
舞台の上でキラキラと輝く彼女の魂を目にした日から、彼の心は彼女に捕まってしまったのだ。
もうどうする事もできない程、彼女が愛おしい・・・。気づいてしまった気持ちは加速を上げて、日々、大きくなる。
自分でも信じられない程、彼女を愛していた。
英介の言う通り、もしも彼女に紅天女が決まった時、自分は何もできないだろう。彼女を傷つけるような事はしたくない。
それが、彼の本心だ。そして、もしもではなくきっと、彼女が紅天女を手にすると彼はどこか確信めいたものを感じていた。
「・・・アメリカか・・・」
彼が再び日本に戻るのは4年後だった。もうその時にはきっと、紅天女は決まっているはずだ。
英介は一体どんな手で彼女から上演権を奪うのか・・・。もしかしたら、英介に彼女は潰されてしまうかもしれない。
目的の為には手段を選ばない男だ・・・。そんな事になったら、彼はどうしたらいい?彼女を守るにはアメリカという地はあまりにも遠すぎる。
来週の重役会で彼のアメリカ行きが決まるのはもう確実だ。重役の殆どが速水英介に抵抗する事はできないのだから。
「・・・マヤ・・・」
不安な想いとともに、その言葉を口にする。胸が苦しくて、痛くて・・・。無力な自分に泣けてくる。
窓の外に映る街の明かりに彼女の姿が重なった。


それから、三日後、彼はマヤと逢った。




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