嘘つき−マヤ−



「・・・嘘つき・・・」
そう彼に告げた自分の言葉が信じられなかった。
なぜあの時、そんな事を口にしてしまったのか・・・。ただ、彼の顔を見ていたら、どうにもならない気持ちに勝手に口が動いていた。
あれから考える事は彼の事ばかり。彼の顔がずっとチラツイテいた。
ほんの一週間前までは彼は彼女にとってただの嫌なヤツだった。本当は彼が経営する大都芸能になどいたくはない。
月影の命令で仕方がなく、今は大都にいるだけだった。もしも、自分が紅天女に選ばれたとしたら、絶対に大都でだけでは上演したくないと思っていた。

しかし、彼女は些細な事から知ってしまったのである。
自分に届く紫の薔薇が誰の手から贈られたものか。
今まで、匿名で自分を援助し、励ましてくれた足長おじさんの姿がどんな人物なのかと思い描いていたが、そのどの想像とも彼の姿は一致しなかった。
何と言ったらいいのか・・・。それは彼女にとって信じたくない真実だった。
そう、確かに紫の薔薇の人の正体を知ってしまえば、納得できる事はいろいろとある。
例えば、奇跡の人を演じる為に長野の別荘に行った時、彼女は紫の薔薇の人に抱きついた。
あの感覚は助演女優賞の授賞式で速水に触れたのと同じものだ。
そして、一ツ橋学園の前に止まっていた彼の車中にあった紫の薔薇・・・。タイミングの良い援助の数々・・・。
それらは彼女の事をよく知っている人物でしかできる事ではない。思えば速水はいつも彼女の傍にいた。

「・・・どうして、あなたなの?」
つい数日前に届けられた紫の薔薇を見つめ、呟く。
部屋中に飾られた紫の薔薇に涙が流れてくる。
表面上ではいつも彼女の事をカラカイ、彼女を追い詰め、邪魔ばかりしてきた彼が彼女の唯一の心の拠り所とする紫の薔薇の人だったとは・・・。
それはあまりにも残酷で、十代の多感な年頃を迎えた彼女には耐え切れない事実だった。
誰かに相談しようと思ってもとてもではないが、口にする事はできない。
彼女にとって、速水真澄が紫の薔薇の人だったという事は天と地が引っくり返る程の強い衝撃を持っていた。




「・・・マヤちゃん、どうしたの?」
水城はここ一週間ばかりのマヤの様子が気がかりだった。
仕事をしている時は何も見せないが、演技が終わり、メイクを解いた途端に彼女は無口になる。
日頃の無邪気な彼女と、それは別人のようだ。こちらが話し掛けても上の空で何をどう聞いても答えてはくれない。
水城は小さくため息をつき、違う話題に切り替える事にした。
「そういえば、私、明日から暫く社長の元に戻る事になったの」
水城が口にした”社長”という言葉にサラダをつっついていたマヤの手が止まる。
その時、直感した。やはり今彼女が悩んでいる事は速水真澄と関係がある事なのだろうと。
数日前に速水がスタジオを訪れた時、彼女は全く演技にならなかった。
今まで間近で彼女を目にしてきた者として、それは信じられない光景だった。
まさかとは思っていたが、今の彼女の反応で確信する。
「えっ?じゃあ、私は一人になってしまうの?」
不安気に彼女が口にする。
まるで置いていかないでと言っている幼子のような瞳に見つめられ、水城は何と言ったらのいいのか、一瞬、わからなくなった。
「いいえ。大丈夫よ。私の代わりに杉田さんが明日からつくようになるわ」
今日、速水から掛かってきた電話は用件だけを告げた簡単なものだった。

”明日から君は大都芸能に戻ってもらう。北島マヤには杉田君をつける”

なぜか理由を聞いても彼はそれだけで、何も答えなかった。
何か胸騒ぎがする。こんな事、彼らしくないのだ。今まで水城に理由も言わずに命令をするなんて事、彼はしなかった。
速水の事も気にはなる。しかし、こんな状態のマヤの元を離れる事は、できればしたくない。
「マヤちゃんも何度か杉田さんには会っているでしょ?」
水城にそう言われ、いつも速水の傍についていた杉田の顔を思い浮かべる。
彼女はとてもカンジの良い人物で、マヤは好感を抱く事ができたが、今は水城とは離れたくない。
ここ数ヶ月、水城は献身的にマヤの世話をしてくれ、心を許せる相手になっていたのだ。
”つきかげ”の仲間と会えない彼女にとって水城はマヤの不安な心を埋める人物だった。
「どうしても、速水さんの所に戻らないといけないの?」
水城を引き止めたい一心でそんな言葉が彼女の口から漏れる。
水城は困ったようにマヤを見つめる事しかできなかった。
「・・・ごめんなさい。これは社長からの絶対的な命令なの。でも、いつでも電話して。
できるだけ早くあなたの元に戻れるように社長に言ってみるわ」
マヤは自分から水城を取り上げてしまう速水が恨めしかった。
どうして、自分をこんなに悩ませ、信頼する人物まで奪ってしまうのか・・・。
「・・・そうですか。わかりました」
そう告げ、マヤは再びフォ−クを動かした。




「おはようございます」
翌日、マヤの部屋の前に明るい声が響いた。
ドアを開けると、淡いブル−のス−ツを着た杉田が立っていた。
「あっ、おはようございます」
戸惑いながらも、挨拶を交わす。
「今日から、北島マヤさんにつく事になりました杉田亮子です」
杉田は礼儀正しく深々と頭を下げ、マヤもそれに習ってつられるように頭を下げた。
「さぁ、行きましょうか。学校までお送りします」
マヤは杉田に促されるようにして、彼女の運転する車に乗った。
学校への道中、杉田は一日の予定を簡潔に伝え、迎えに来る時間を告げると、心配するような視線をマヤに向けた。

”今、マヤちゃん、不安定だから注意してあげてね”

それは引き継ぎの際に水城が口にした言葉だった。
確かに、水城が言った通り、彼女は元気がなく、どこか沈んでいるようだった。
ル−ムミラ−から後部座席に座る彼女をそっと覗いてみるが、窓の外を見つめたまま、幾度となくため息を浮かべていた。
何とか、彼女の悩みを聞きだそうと、口を開けてみるが、上手い言葉がなく、結局学校に着くまで杉田は何も聞き出せなかった。
「学業の方、頑張って下さいね。三時頃にお迎えに上がります」
彼女を励まそうと笑顔を浮かべ、杉田はその場を後にした。



マヤは相変わらず悩みを抱えたままで、同級生たちから声をかけられても、教師に指されても気づかぬ程、ぼんやりとしていた。
じっと座っているという状態は彼女に余計な事を考えさせてしまう。先生の話よりも今は速水の事だけしか頭になかった。
また芝居の事を考えているのだと、周りのものは納得するしかなかった。
しかし、この一週間の彼女の様子に担任である木下は見て見ぬフリなどする訳にもいかず、生徒指導室にマヤを呼び出した。

「この所の君は全く授業を聞いていないというようだ。何かあったのかね?」
木下の言葉にマヤは何も答えず俯いたままだった。
「このままでは、学業の方に影響が出てるんじゃないか。まして君は他人の援助を受けて学校に通っていると聞いている。
その人に申し訳ないと思わないのかね?」
”他人の援助”その言葉は今は何よりも鋭く彼女の胸をえぐる。
この学校にいるのも、今着ている制服も、全ては速水が用意してくれたもの。そう思うと、訳のわからない感情が胸を締め付け、
それは涙となって彼女の頬に流れた。
「・・・すみません・・・すみません・・・」
涙に濡れた声で何度もそう告げる彼女に木下はそれ以上何も言えなくなり、彼女を帰した。
マヤは生徒指導室から出ると、屋上に向かった。昼休みが終わり、始業時間の鐘の音が鳴ると、そこは彼女一人の場所となった。
初夏の風が頬に触れ、心地良かった。
瞳を閉じ、初めて紫の薔薇を貰った日の事を思い出す。
とても嬉しかった。有難かった。演じる事で誰かから花束を貰えるなんて夢にも思わぬ事だった。
そして、何度となく差し出された彼からの援助・・・。彼が神様のように思えた。
しかし、その一方で、劇団”つきかげ”を潰し、紅天女を手に入れようとする彼の姿が浮かぶ。
彼がわからない。なぜ自分を追い詰め、助けるような事をするのか・・・。
彼の本当の心がわからない・・・。彼は彼女にとって味方なのか、それとも敵なのか・・・。
速水の本当の気持ちが知りたい。冷たい仮面の下に埋もれた彼の素顔を知りたい・・・。
瞳を開けると、今にも泣き出してしまいそうな空が視界に入った。
「・・・わからない・・・」
そう呟き、マヤは答えを求めるように空を見つめた。





それから数日経ったある日、スタジオを出ると、マヤは速水に呼び止められた。
突然、現れた彼にどんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
「・・・どうした?まるで幽霊でも見たような顔だな」
いつもの調子で彼が口にする。
「話がある。少し付き合ってくれないか」
そう言われ、マヤは彼の車に乗った。
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