−好き−第二話「雨の日」
その日は雨が降っていた。
急に振り出してきた雨に、図書館の前で彼女は途方に暮れたように佇んでいた。
黒いシャツに足の長さを強調するジ−パンが良く映えていた。
肩までかかる長さの髪を彼女はゆっくりとかき上げていた。
なぜか、僕は彼女から視線が離せなかった。
そして、不意に彼女と視線が合う。
「あの、もしよかったら」
話しかけるなら、今しかない。
そう思い、思い切って傘を差し出した。
「えっ」
驚いたように彼女の大きな瞳が見開かれる。
「駅まで入っていきませんか?」
自分の人生の中でこんなに勇気があったことはないと思う。
戸惑う彼女の横に立ち、僕は傘を広げた。
「怪しいものじゃ、ありませんよ」
クスリと笑い彼女を見る。
彼女も軽く笑みを浮かべた。
「・・・えぇと、じゃあ、お願いします」
大学から駅までのおよそ10分の道のり、今となっては何を話したかはよく覚えていないが、
とても楽しかったということは記憶に残っていた。
話してみれば、彼女は同じ学部の同じ学年だった。
「優希だなんて、男みたいな名前でしょ」
とクスクス笑っていた。
「僕は、浅野 翔(かける)」
別れ際に互いに名前を名乗って握手をした。
白くて柔らかい彼女の手に、内心ドキリとしていた。
それから、三年経ち、優希と僕は友達以上恋人未満という関係だった。
僕の中に彼女を好きという気持ちは当然の事ながら、あるが、彼女はわからない。
時々、とても寂しそうに何かを見ていた。
それが何なのか、僕にはわからなかった。
だから、僕は彼女と出会ってから三年経っても、何も言えなかった。
「・・・もうすぐで、卒業だね」
仲のいい連中7人ぐらいで飲んでいる時、隣の席に座っていた優希が口にした。
その表情はやっぱり寂しそうだ。
「浅野はもう、就職決めた?」
カクテルを口にしながら、彼女が言う。
「あぁ。まぁ、内定は貰ったけど」
身を切るような就職活動の結果だった。
「そう」
「優希も決まったんだろ?」
三杯目のビ−ルを口にし、彼女を見る。
「うん。まあね」
歯切れの悪そうに答える。
今日の彼女はなぜか元気がなかった。
「・・・何かあったのか?」
「聞いてよ!浅野くん、優希たっら、また国際学概論落としたのよ」
優希との会話の間にすっかり酔いが回った裕美子が入ってくる。
「えっ」
何と答えていいかわからなかった。
「それで、今日、とうとう、一瀬に呼び出されたのよ」
裕美子の言葉に皆は耳を傾け、笑った。
よっぽど一瀬と相性が悪いんだなぁとかなどと言って、その場はそれはただの笑い話に終わった。しかし、優希は笑っていなかった。
前々から、一瀬に対して優希が何か特別な感情を持っている事は何となくだが、知っていた。
「・・・帰る。用思い出したから」
一言、そう言い、優希は飲み代の3千円分をテ−ブルの上に置いた。
「えっ」
皆が驚く。
「じゃあ、また」
一言、そう口にして、優希は椅子から立ち上がった。
「あっ、俺も用がある」
本当はそんなものはなかった。
なぜか、今は優希を一人にさせたくなかった。
飲み代を置き、慌てて、優希を追いかけた。
◇◇◇◇◇◇
「優希!」
店を出て、雑踏の中を二、三歩歩き出した時、後ろから声がかかった。
「・・・浅野。どうしたの?」
振り向くと、浅野がいた。
「一緒に帰ろう。俺も用を思い出した」
軽く笑顔を浮かべる。彼の笑顔が好きだった。
普段はムッつりとしているのに、笑うと浅野は別人のように優しい表情になる。
いつだったか、“ずっと笑っている方がいいんじゃない”などと言ったら“バカ”と軽く言われ、頭をこづかれた。
「・・・うん」
二人で駅に向かって雑踏の中を歩いた。
浅野は私が元気がない時、いつも気を遣ってくれる。
どうして、彼にはわかってしまうんだろう。
私が落ち込んでいる事。
昔から、ポ−カ−フェイスは得意だったのに、浅野には効かないらしい。
一緒に歩いて、とりとめのない会話をしているだけなのに、涙が流れそうになる。
「・・・何があった?」
立ち止まり、核心に触れるように浅野が口にした。
心の中を見透かすような鋭い瞳で私を見ていた。
「・・・浅野・・・」
どうしたらいいのかわからず、涙がいっぱいになった。
もう止める事ができなかった。
抑えようと思えば、思う程、気持ちは止まらない。
浅野は泣きじゃくる私をそっと抱きしめてくれた。
◇◇◇◇◇◇
「どうしたの?」
ぼんやりとしていると、女の声がかかった。
「えっ」
隣を向くと、温子が少し苛立ったように俺を見ていた。
「さっきから、上の空。私の話なんて聞いてないみたい」
ここは、温子と会う時によく使うBARだった。
BGMに流れるジャズは落ち着いた気持ちで酒を飲ませてくれる。
「・・・別に」
目の前のグラスを見つめる。
「その言葉はもう聞き飽きたわ」
そう言い、彼女は席を立った。
俺は止めもせず、彼女が店から出て行くのを見つめた。
今日は一人でいたかった。
昼間、あの学生にあってから、胸の中にもやもやとしたものが浮かんでいた。
それが何なのかわからない。
理由を求めるように、目の前のグラスを一気に空け、二杯目を頼んだ。
◇◇◇◇◇◇
「私ね。今日、一瀬先生に呼ばれたの」
泣いたままの優希を一人にする事はできず、結局は彼女のアパ−トにあがり込んでしまった。
いつ来ても、優希の部屋は綺麗に片付いている。
小さなテ−ブルを挟んで、優希と向かい合う。
その瞳には涙の痕がくっきりと残っていた。
「それでね。先生に言ったの」
彼女の声に感情が篭る。
いくら待っても優希はその先の言葉を口にしなかった。
ただ、悲しそうにコ−ヒ−カップを見つめていた。
「・・・ごめんね。何か、私、浅野に甘えているね」
無理に作った笑顔が痛々しく見えた。
「遠慮するな。友達だろ」
自分で口にした言葉が胸に刺さる。
“友達”
決して、優希は僕を男として見てくれなかった。
いつまでたっても、“友達”
別に不満はない。
一緒に下らない話をして、映画を見たり、飲みにいったり、それはそれで楽しかった。
ただ、この先ずっとこのままなのだと思うと少し悲しい。
いつか優希に恋人ができた時、自分が冷静でいられるのか自信がない。
かと言って“好き”だとも言えなかった。
今まで築いてきたものが崩れ去ってしまうような、そんな気がする。
「・・・浅野。ありがとう」
涙交じりに告げた彼女が胸に切ない想い落とす。
気づくと、手が彼女の頬に伸びていた。
驚いたような優希の瞳と視線が重なる。
一体、何をしようとしいるのだろうか。
自分でも、わからない。
ただ、このままにはしたくなかった。
◇◇◇◇◇◇
「橘 優希です。掲示板に張り出されていたので、来ました」
大きな瞳は俺を真っ直ぐに見つめていた。
「あぁ。実は君を呼んだのは」
口にしながら、A4サイズの封筒の中を漁る。
「この事なんですが」
彼女の答案を見つけ、差し出す。
彼女は少し、驚いたようにそれを見つめ、軽く笑みを浮かべた。
「やる気のない学生だって思いますか?」
「・・いえ。何か理由がある気がしまして。調べてみれば、君は毎期私の講義を取っていますが、
その度に出される答案は白紙。是非、白紙の答案の訳聞きたいと思いましてね」
彼女は少し緊張しているように見えた。
そう言えば、こうして教師と学生という関係で彼女と話した事はなかった気がする。
この四年間、ずっと講義を取ってくれていたのに、気づかなかったのも何だか間抜けな話だ。
「・・・理由ですか」
小さな声で呟く。
「良かったら、話して頂けませんか?」
「・・・先生はどう思いますか?」
一途な瞳に何だか胸の奥がざわめく気がした。
学生相手に何を考えているんだ。
「・・・そうですね。私の授業が詰まらないという抗議ですかね」
クスリと軽く笑う。
「いえ!そんな事はありません!」
強く彼女が否定する。
その勢いに思わず飲まれそうになった。
「先生の講義はとってもわかり易くて好きです」
「それはありがとう。では、一体どうして?」
俺の言葉に彼女が俯く。
沈黙が流れる。
「・・・ただ、先生に・・・」
ゆっくりと、口を開く。
その声は今にも消えてしまいそうな程小さかった。
「・・・先生に会いたかったから・・・」
真っ直ぐな彼女の瞳が俺を捕らえる。
胸の奥で何かが目を覚ます。
忘れていた感情・・・。
随分前に自分の中から追い出した気持ち・・・。
そんなようなものが一瞬、胸を締め付けた。
「・・・すみません。失礼します」
彼女は俺の言葉を待たずに、研究室を出て行った。
To be continued
2002.2.26.
Cat