――― 同居物語 6 ―――
「映画が観たいです」
というマヤの一言から、速水は彼女と一緒に映画を観る事になった。 社を途中で抜け出し、待ち合わせの場所で彼女を待つ事、5分。 制服姿の彼女が嬉しそうに駆けて来る。 速水は一瞬、自分が女子高生と援助交際をしている族(やから)のように思えた。 いや、間違いなく、世間の目はそう見るかもしれない。 ス−ツ姿の彼と、制服姿の彼女・・・。 どう見ても釣り合いがとれない。 もう少し、若い格好がしたかったなぁぁと、心の中で呟く。 まぁ、そうは言ってもしかたない。 平日に映画が観たいという彼女の希望を叶えなければならないのだから。 「お待たせしました」 明るい笑顔を向ける。 「・・・行こうか。そろそろ始まる」 彼女と一緒に街を歩く。 歩きながら、今日学校であった事などを彼女が話し始める。 速水はそれを瞳を細めて聞いていた。 「で、お嬢様は何が見たいんだ?」 目的の映画館の前に立ち止り、隣の彼女に聞く。 「えぇ−っと」 マヤは上映中の映画を見つめた。 「あっ!コレ!これ観たいです」 そう彼女が指し示したのは、真澄が苦手とする恋愛物だった。 しかも、彼は試写で一度目にしている。 この間見た時は、さして、面白い映画だとは思えなかった。 「・・・駄目ですか・・・」 映画の看板の前で、考えるように眉を寄せている彼を見る。 「・・・いや、駄目という訳じゃないが・・・」 渋るように呟く。 「速水さん、約束破る気ですか?」 約束というのはこの間、真澄が”いい子に留守番していたらおみやげ買ってくるぞ”という言葉に起因する。 真澄は、うっかりと、彼女へのおみやげをどこかに忘れてきてしまったのだ。 そこで、代わりというか、埋め合わせにマヤの言う事をきくという条件を出してしまった。 「・・・俺は一度した約束は必ず、守る男だ!」 マヤの言葉に心外だと言わんばかりに、抗議する。 「・・・じゃあ、この映画で決まりですね。あっ、丁度始まる時間ですよ」 マヤは日頃から彼にからかわれている分、今日はめい一杯振り回してやろうと、思っていた。 今日だけは、彼に我がままをいっぱい言うつもりだ。 それに、何と言っても、先日の”抱き枕”の仕返しがしたかったのだ。 真澄は小さく、ため息をつくと二人分のチケットを買って諦めたように映画館に入った。 映画は身分違いの恋に翻弄される男女の話だった。 半分まで、過ぎて速水に眠気が襲う。 ここで寝てしまってはかっこがつかないと、必死に眠気と格闘する。 そして、ふと、隣の彼女を見つめた。 スクリ−ン意外何も見えていないようだった。 その表情に思わず、微笑を浮かべる。 マヤは場面、場面事に感情を込めるようにくるくると表情を変えていた。 ちびちゃんを見ている方が面白いなぁぁ・・・。 真澄は映画ではなく、彼女を見る事にした。 暗闇とは言え、遠慮なく、好きなように見つめている事ができるのもそうそうないものである。 横顔を見つめながら、思う。 出会った頃よりも、大人っぽくなり、綺麗になったと。 少しずつであるが、彼女も少女から大人の女性への階段を歩んでいるようだった。 ”高校生と言っても、女である事に変わりはないわ” 理香子の言葉が浮かぶ。 何だか、胸の奥がざわめき出す。 一体、自分は何を考えているんだと、軽く頭を振った。 「映画面白かったですねぇぇ」 映画館を出ると、満足したようにマヤが口にする。 「えっ・・あぁ」 気のない返事をする。 「速水さん、ちゃんと見てました?」 真澄の反応に疑うように見る。 「・・・見てたよ」 君をね・・・。 「で、次はどこに行く?まだ、夕食には少し早いみたいだが」 時計を見ると、5時を回る前だった。 「う・・ん!ケ−キ食べたい!」 マヤは前々から行きたかったケ−キショップがあったのだ。 「私、美味しいケ−キ屋さん、知っているんです」 そう言い、速水の手を取り、歩く。 映画館から歩く事、30分。”Amants”と書かれたケ−キ屋に着く。 その建物は御伽話にでも出てきそうな外装で、店内は女子高生で賑わっていた。 「・・・ここに入るのか?」 少し驚いたようにマヤを見る。 「・・・ここに入るんです」 真澄が抗議の言葉を探そとし始めた時、マヤが店内に入って行く。 「はぁぁ。仕方がないか」 小さく呟き、真澄もマヤの後を追った。 「君は普段、こういう所に来るのか?」 ようやく、注文のケ−キと紅茶がテ−ブルに並べられた頃、真澄が口を開く。 マヤはケ−キを食べる手を止め、真澄を見つめた。 「・・・いいえ。初めて来たんです」 「初めて?それなのに、この場所を知っていたじゃないか?」 真澄は紅茶を一口飲むと、意外そうにマヤを見た。 「・・・えぇ。学校の友達に教えて貰ったんです。ここのケ−キ屋さんがとっても美味しいって。それに・・・」 ”Amantsのケ−キを好きな人と食べると両思いになれるんだって” 学校で聞いた噂話を思い出す。 マヤはハッとしたように口を閉じた。 「それに何だ?」 真澄の言葉に首を左右に振る。 「何でもありません!それより、速水さんのレアチ−ズケ−キ、一口味見してもいいですか?」 「えっ、あぁ。どうぞ。お嬢様」 そう言い、速水はマヤの方に皿を差し出した。 マヤはフォ−クで一口分、取り、口に運ぶ。 「美味しい!!速水さんも味見してみます?」 そう言い、マヤの頼んだ苺のミルフィ−ユを差し出す。 「・・・そうだな。貰おうか」 考えるように見つめ、速水もマヤと同じように、ケ−キにフォ−クを入れる。 「ほぉぉ。確かにここのケ−キは中々なものだな」 感心したように呟く。 「でしょ!」 マヤは嬉しそうに微笑んだ。 「わ−、もう、外は真っ暗ですねぇ」 ”Amants”から出ると、すっかりと陽は沈んでいた。 「7時ちょっと、すぎか・・・」 時計を見つめ、速水が呟く。 速水の横顔を見つめ、マヤは思い出したように笑った。 「何だ?」 問うように見つめる。 「いえ、その、速水さんが女子高生と混ざって行列に加わっていたの思い出しちゃって」 「全く、あんな行列は二度とごめんだ。ケ−キを食べるのに30分以上は待たされたぞ」 うんざりしたようにため息をつく。 「速水さん、知ってました?女の子たちが皆、あなたの事を見ていたって」 マヤの言葉にへっという表情を浮かべる。 「・・・そんなに、違和感があったか?まだ、若いんだけどなぁぁ・・・」 苦笑を浮かべる。 「・・・違和感っていうよりも、皆、速水さんに憧れてるっていう視線でしたよ。 やっぱり、速水さんって、カッコイイんですね。近くにいすぎて、わからなかった」 「何だ?それは?君も変な事を言うな。俺は俺だ。別にカッコイイとかは関係なかろう」 マヤの言葉にさっぱりわからないという視線を向ける。 「・・・自覚が全くないんですねぇぇ。まぁ、そういう所が・・・」 カッコイイんですけどね。 「うん?」 「何でもありません。さぁ、行きましょう」 マヤは嬉しそうに微笑み、歩き出した。 「・・・やれやれ、お姫様はまだ、俺を連れまわすつもりか」 彼女の後を追うように歩き出す。 「今日一日つきあってくれるっていう約束ですからね」 マヤはクスリと笑い、速水を見た。 「昨日は随分かわいい人と一緒にいたみたいね」 待ち合わせのbarに理香子が現れる。 「えっ?」 真澄は少し、驚いたように彼女を見た。 紫色のイブニングドレスを着た彼女は相変わらず、綺麗だと思えた。 珍しく腰まである長い髪を下ろしている。 「・・・あなたがケ−キ屋さんから出てくるの見て、思わず我が目を疑ったわ」 真澄の隣に座り、可笑しそうに笑い出す。 「・・・俺だって、ケ−キ屋ぐらい行く」 「フフフ。彼女が行く所なら、どこでも行くんでしょ。随分と惚れたものね。少し、妬けるわ」 長い髪を右手でかきあげ、彼を見る。 「・・・俺に話があると聞いたが」 グラスの中の酒を口にする。 「・・・忘れ物よ」 バックの中から、小さな包みを出す。 真澄はその包みに見覚えがあった。 「・・・君の所に紛れていたのか」 それは、速水がマヤの為に買ったおみやげだった。 「・・・まるで、紫の薔薇ね。特別に作らせたの?」 カクテルを見つめながら呟く。 「あぁ。まあな」 「・・・真実か。あなたの中の真実は一体とごにあるのかしら?」 探るように真澄を見る。 「・・・何の事だ?」 誤魔化すように笑う。 「その宝石に込められた言葉よ。あなたの事だから、知っていると思うけど」 クスリと笑みを浮かべる。 「あのお嬢さんにあげるのかしら?」 真澄はその問いには答えず、グラスの中に揺れるブランデ−を見つめていた。 「ただいま」 深夜1時。速水が帰宅する。 少し飲みすぎたのか、フラッとした。 「・・・いかんな・・・」 呟き、リビングに向かって歩く。 ソファにマヤの姿があった。 彼女はすっかりと夢の世界に入っているようだ。 「・・また、こんな所で眠って・・・」 暫く、彼女を見つめる。 無防備な寝顔に胸が時めく。 「・・・風邪ひいても知らんぞ」 彼女の頬に触れる。 「・・・速水さん・・・」 小さく彼女が口を動かす。 「えっ」 驚いたように彼女を見つめるが、眠ったままだ。 どうやら寝言のようだった。 「・・・速水さんの・・・いじわる・・・」 マヤの寝言にクスリと笑みを浮かべる。 「・・・一体、何の夢を見ているんだ?」 耳元で囁く。 その瞬間、彼女の瞳が開いた。 「・・やっぱり、起きていたんだな」 「・・・あなたが帰って来るまで、眠れなくて・・・」 「ちびちゃん、君は意外に寂しがりやなんだな」 速水の言葉になぜか頬が赤くなる。 「この部屋が広すぎるんです!!」 ムキになるように彼を見る。 「はははは。確かに、広すぎるかもな」 彼女の隣に座り、可笑しそうに笑い出す。 その瞬間、甘い女物の香水の匂いがした。 彼が誰といたかがわかる。 「・・・ここは広すぎます・・・広いから一人でいるのが寂しくて、あなたが側にいないのがいつの間にか、寂しく思うようになって・・・」 胸の中がチクリと痛む。 彼女の瞳を見つめ、真澄は笑うのをやめた。 「・・・私、変なんです。ここで、あなたと暮らし始めてから、ずっと、ずっと、変なんです」 胸の中の葛藤を訴えるように言葉にする。 「・・・ちびちゃん・・・」 苦しそうに眉を寄せる彼女に胸の奥が切なくなる。 「・・何言っているんだろう。私・・・。ごめんなさい。もう、寝ます」 彼から視線を外し、立ち上がる。 その瞬間、腕を掴まれる。 驚き振り向いた途端に、引き寄せられた。 あっという間に彼に抱きしめられる。 「・・・放して下さい・・・」 彼の瞳がいつもと違う。 とても熱い瞳で彼女を見つめている。 体中が震えそうになる。 「・・・速水さん、痛いです!放して下さい」 彼の腕にさらに力が入る。 「・・・速水さ・・・んっ!」 彼の唇が彼女の唇を塞ぐ。 とても、熱い想いが体中から込み上げてくる。 全てを奪いつくすような、荒々しいキスに、彼女の体から力が抜けていく。 彼の中の男の部分を初めて目にしたようで、マヤは怖かった。 怖くて、怖くて、涙が溢れてくる。 「・・・なぜ、泣く?」 唇を離し、彼女の瞳をじっと見つめる。 「・・・放して・・・」 彼の問いには答えず、涙に濡れた声で呟く。 真澄は力なく、彼女を解放した。 彼の腕が解き放たれると、マヤは彼の顔も見ずに、自分の部屋に駆け込んだ。 「・・はぁぁ。俺は何をしているんだ・・・」 マヤの怯えたような瞳に罪悪感が募る。 「・・・酔っていたとはいえ・・・俺はそこまで、自制心のない男だったのか・・・」 彼女に贈るはずだった宝石箱を見つめる。 その中には彼女の誕生石である紫水晶が儚く輝いていた。 ”まるで、紫の薔薇ね” 理香子の言葉が浮かぶ。 「・・・紫の薔薇か・・・」 固く瞳を閉じる。 俺はやはり、影でいるべきだったんだ・・・。 彼女に告げたのは間違いだったんだ。 自分の犯したミスに彼は一晩中、自分を責めていた。 その夜、マヤは一晩中ベットの中で泣いていた。 まるで、感情を持余したように、涙が流れる。 自分でも、その涙が何なのかわからない。 ただ、胸が痛かった。痛くて、痛くて、今にも張り裂けてしまいそうだった。 その日を境に速水とマヤはすれ違ったような生活を送った。 朝、マヤが起きても、もう、速水の姿はなく、出社してしまったようだった。 そして、夜は彼女が眠った時間に必ず帰ってくる。 前は一緒に過ごしていた週末も、彼は仕事をするようになった。 部屋に一人でいる事がマヤは増えた。 最初はその方がいいと思っていたが、一月もそのような生活が続くと、堪らなく寂しい。 まるで、自分の存在を彼に無視されているようで、嫌だった。 自分が何のためにここにいるのかわからない。 こんな生活に一体何の意味があるのか・・・。 それでも、出て行く事はできなかった。 少しでも、彼に会いたいから・・・。彼の顔を見たいと望む自分がいるから・・・。 だから、出て行く事はできなかった。 「どうしたの?最近のあなた自棄になっているように見えるわ」 ベットの中で理香子が口にする。 「・・・あの子と何かあったのかしら」 理香子が口にした途端、言葉を塞ぐように唇を奪う。 彼らしくない乱暴なキスの仕方に、力が抜ける。 「・・ずるい人・・・そうやって、誤魔化して・・・」 詰るように彼を見る。 彼は何も言わず、何かを忘れるように再び彼女の中に入った。 速水は忘れたかった。 彼女にどうしようもなく恋をしている自分を。 抑えられない程、溢れている気持ちを。 そして、彼女が恐れるように彼を見た視線を。 脳裏にすっかりと焼きついている。 あれは、彼を完全に恐れていた瞳だった。 そんな瞳で見つめられる事が何よりも辛い。 この先、一体彼女とどう接していけばいいのかわらない。 今、彼女に会ってしまったら、次はキスだけで済むのか・・・。 彼女と自分だけしかいない部屋に帰るにはかなりの理性が必要だった。 「マヤ?どうしたんだ?」 すっかり元気のない彼女に麗が心配そうに声をかける。 「えっ」 ハッとしたように麗を見る。 「・・・別に何でもないよ」 いつもの笑顔を浮かべるが、麗には無理にマヤが笑っているように見えた。 「紫の薔薇の人はあんたに良くしてくれるのかい?」 麗の口から出た”紫の薔薇の人”という言葉に胸が痛む。 「・・・もちろん。とっても、楽しいわ。毎日が楽しくて楽しくて仕方がないぐらい」 マヤの瞳に薄っすらと涙が浮かぶ。 麗はそっとマヤを抱き寄せた。 「本当に、あんたは舞台を降りると芝居が下手だな」 麗の言葉が胸にしみる。 「・・・あたしには少しぐらい本当の事話してくれてもいいんじゃない?あたしはマヤの事、妹だと思っているんだ」 抑えていた寂しさが涙になり溢れ出す。 「・・・麗・・・私・・・私・・・」 マヤは麗の胸で苦しい想いを解放するように泣き続けた。 「・・・おかえりなさい・・・」 午前4時。真澄が帰宅すると、声がかかる。 彼を待っていたようにマヤが立っていた。 「・・・起きていたのか・・・」 久しぶりに目にした彼女に脈が少し速くなる。 「・・・あなたを待っていました・・・」 真っ直ぐに彼を見つめる。 その瞳に胸が熱くなる。 「・・・私、今日でここを出て行きます。速水さんにはお世話になったから、最後の挨拶がしたくって」 彼女の言葉に呼吸が止まりそうになる。 彼女がここを出て行く・・・。 その事実に胸が締め付けられる。 「・・・速水さんお忙しいみたいですし、それに、速水さんの恋人にも悪いから・・・。 いくら私が子供だとは言え、好きな人が誰かと一緒に住むのっていい気がしないでしょ」 彼女の言葉に瞳を見開く。 「・・・恋人?」 「・・・以前、速水さんがレストランに連れて行ってくれた時にあった人です」 彼女が理香子の存在に気づいていた事に頭の中が白くなる。 「今夜もあの人と一緒だったんでしょ?」 見透かすように彼を見つめる。 「・・・速水さんが朝帰ってくるようになったのは、あの人の所に行っているからでしょう?」 拳をギュッと掴み、問うように見つめる。 「夜はあの人と一緒にいるんでしょ?」 彼女の瞳から涙が一粒毀れ落ちる。 その涙にハッとする。 自分が取り返しのつかない事をしていた事に・・・。 彼女を傷つけていた事に・・・。 「・・・邪魔者になるのは嫌なんです。だから・・・」 切ない瞳が彼を射抜く。 「・・・さよなら・・・」 小さく彼女の口から出た言葉に何も考えられなくなる。 彼はじっと見つめていた。 彼の横を通り過ぎて、出て行く彼女を・・・。 パタン・・・。 彼を現実に引き戻すように、ドアの閉まる音がした。 その瞬間、力が抜ける。 壁に寄りかかるようにして座り込む。 ふと、上着のポケットに入れられたままの小さな宝石箱の存在を思い出す。 宝石は変わらぬ輝きを持っていた。 「・・・渡しそびれてしまったな・・・」 ポツリと呟く。 「2月でしたら、誕生石は紫水晶になりますわ」 宝石店の店員がそう告げた。 そして、彼の前に出された紫色の煌きを放つ宝石がまるで、紫の薔薇のように見えた。 「知っています?この宝石に込められた言葉を」 「さあ」 「・・・この宝石は真実を表します」 「真実?」 「えぇ。たった一つの真実をこの宝石は映し出すと言われています」 「・・・真実か・・・」 再び、アメシストを見つめる。 まだ、俺は彼女に本当の事を告げていない。 胸の奥から強い想いが込み上げてくる。 真澄はゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。 外は雨が降っていた。 マヤは傘もささずに、雨の中をただ歩いていた。 本当は彼に恋人の存在を否定してもらいたかった。 違うと言ってもらいたかった。 なのに、彼は黙ったまま彼女を悲しく見つめていた。 「・・・何しているんだろう・・・私・・・」 立ち止まり、雨を見つめる。 もう、彼には会えない・・・。 彼の顔を見る事はできない・・・。 こうなる覚悟はできていたのに、胸が痛い・・・。苦しい・・・。 「・・・マヤ!!!」 声がする。 振り向かなくても、誰の声かわかった。 マヤは逃げ出すように走り出した。 「待ってくれ」 彼の声が引き止めるが、彼女は雨の中一心不乱に走った。 速水も走り出す。 彼の足なら、彼女に追いつく事なんて、あっという間だ。 「待つんだ!」 さっきよりも、近い所で彼の声がする。 もう、すぐ背後に彼がいる。 「・・来ないで下さい!」 彼女がそう告げた瞬間、腕を掴まれる。 「嫌だ!」 一瞬のうちに彼に抱きしめられた。 「・・・放して!放して!放して!あなたなんて大嫌いよ!」 彼の腕の中で精一杯の抵抗をする。 「・・・嫌だ」 彼の腕がより強く華奢な彼女を抱きしめる。 「・・・放して!この冷血漢!!人でなし!!」 思いつく限りの言葉で尚も抵抗する。 「・・・嫌だ・・」 真っ直ぐに彼女を見つめる。 「・・・放さない。君は俺と一緒に帰るんだ」 彼の言葉に瞳を見開く。 「嫌よ!誰があなたの所になんか!」 そう告げた瞬間、唇が重なる。 雨の音だけが聞える。 他には何も考えにれない。 一度目のキスよりも優しいキスに鼓動が止まりそうになる。 そして、ようやく、マヤは気づいた。 彼に対して自分が抱いていた訳のわからない気持ちの正体を・・・。 心の中が悲鳴をあげるように彼の事を”好き”だと告げていた事に・・・。 雨の中、二人の唇は重なったままだった。 |