―――  同居物語 7 ――― 

「・・・帰ろう・・・」
唇を離すと、真澄が静かに告げた。
マヤはコクリと頷く。
二人は雨の中を寄り添うようにしてマンションまでの道を歩いた。


「ほら、タオル」
部屋に着くと、真澄がバスタオルを彼女に渡す。
「えっ?」
少し驚いたように彼を見る。
「びしょ、びしょだぞ」
クスリと笑う。
「・・・それを言ったら、速水さんもじゃないですか?あぁ。濡れたままお部屋に入って、掃除するの大変なんですよ」
マヤの変に冷静な言葉に、真澄は可笑しくなって笑い出した。
「はははは。ちびちゃん。君は本当に面白い子だ」
お腹を抱え、苦しそうに彼女を見る。
マヤはいつもの真澄の笑い声に条件反射のように脹れっ面を浮かべ、何か悪態をついてみようと口を開くが、
彼の笑顔に負けてつい、笑みが浮かんでしまった。
「こっちへおいで、拭いてあげる」
ふと、優しい視線で真澄が言う。
「えっ・・・あっ・・はい」
マヤはその瞳に導かれるように真澄の側に立った。
彼の大きな手がバスタオル越しに伝わる。
ぐっしょりと濡れた彼女の髪や、肩をタオルで拭う。
彼女を気遣うような丁寧な指の動きに心が癒されていく。
「・・・速水さんの手って、安心できますね」
ポツリとマヤが呟く。
「えっ?そうか?」
意外そうに彼が答える。
「大きくて、温かくて・・・全てを包んでくれる」
マヤの言葉に胸の中が温かくなる。
「さぁ、お嬢様、これで終わりだ。お風呂に入っておいで」
彼女をバスタオルで包むように肩にタオルをかける。
「・・・速水さんは?速水さんもびしょびしょですよ?」
目の前の彼を見つめる。
「・・・こういう時はレディ−ファ−ストだ。でも、長風呂はやめてくれよ」
おどけるように笑みを浮かべる。
「あれ?速水さん、私の事女扱いしてくれるんですか?いつも、子供、子供って言っているのに」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、彼を見る。
一瞬、マヤの口から出た”女”という言葉に胸が熱くなる。
「何だ?君だぞ?子供扱いはするなって言っているのは?まぁ、俺にしてはどっちでも構わないがな」
胸の中に沸き上がる想いを抑え、笑みを返す。
「さぁ、とにかく早く入っておいで」
真澄の言葉にマヤは”は−い”と返事をし、バスル−ムに消えて行った。
残った彼は寝室に行き、濡れた服のまま、ぼんやりとベットの上に座った。

唇に触れ、彼女の柔らかい唇の感触を思い出す。
雨の中で彼女を見つけた時は、胸が止まりそうだった。
以前よりも、強く、強く、彼女に惹かれている事に気づかされる。
一緒に生活をしてみて、彼女と過ごす時間が増えて、より、彼女の存在は愛しいものとなった。
ここまで、真剣に一人の女を愛せる男だとは、真澄は思ってもみなかった。

「出会ってしまったら、もう、離れる事ができない・・・。それは、理性で考えるよりも、感情が求めるのよ」
いつだったか、理香子が口にしていた言葉が浮かぶ。
「女なら、一度はそんな恋に出会って見たいわ」
理香子と初めて出会った時、彼女はそう告げ、儚く笑った。
そして、彼女も自分もよく似ている事に気づいた。
世間から見れば、何でも手に入る地位にいるが、心は満たされない。
いくら、金があっても、名声があっても、地位があっても、虚しいだけ。
心が何かに渇望をしている。
遠い昔に無くした心のあるピ−スを埋める為に、いくら手を伸ばしてもそれは埋まる事はなかった。
だから、理香子の言葉が胸に響いた。
それは、彼も心の底では求めていたものだから。

「・・・出会ってしまったら、離れる事ができない・・・か」
きつく瞳を閉じ、あの頃手に入らなかったものが、今すぐ側にある事に気づいた。




「・・・速水さん・・・」
バスタブに冷え切った体を沈めながら、マヤはぼんやりと、天井を仰いだ。
唇にそっと触れる。
あの時は何も考えられなかった。
自分の中の知らない感情が胸を熱くさせ、締め付けた。

「・・・好・き・・・」
そう呟いた瞬間、胸の中に波紋が広がる。
いつの間にか、彼を好きになっていた。
大嫌いな存在だったのに・・・。
憎んでいたはずなのに・・・。
力強い彼の抱擁に、涙が溢れてくる。
両肩を抱きしめ、マヤは心を落ち着かせるように泣いていた。





「・・・今夜は来ないの?」
いつものbarで早々と帰ろうとする速水に理香子が告げる。
「あぁ。もう、君の所には行かない。君とは仕事上だけの関係に戻りたいんだ」
彼の言葉に意外そうに瞳を見開く。
「あのお嬢さんに泣きつかれたのかしら?」
紅いル−ジュを引いた唇が形の良い笑みを作る。
「・・・気づいたんだよ。自分が逃げていた事に・・・」
苦笑を浮かべ、目の前のグラスを空ける。
「覚えているか?俺と初めて出会った時の事を・・・」
速水の言葉に理香子は遠い目をした。
まだ、学生だった頃。
初めて出会った彼は寂し気な瞳をしていた。
全てに冷めきった瞳の中に時折悲しそうな光を見た気がした。
そして、そんな彼を見ていると、まるで鏡の中の自分を見ている気になった。
出会った時から気づいていた。
同じだと・・・。
自分も彼も同じ種類の人間であると・・・。
「・・さぁ、そんな昔の事、覚えていないわ・・・」
黒光するテ−ブルを見つめる。
テ−ブルの中に昔と変わらぬ寂しげな瞳を見つける。
「・・・俺は初めて君に出会った時、まるで鏡の中を見ているような気がしたよ」
彼の一言に、驚いたように視線を向ける。
「・・・君は俺にあまりにも似すぎている。だから、寂しさがわかった。だから、君の側は居心地が良かった」
彼がこんな事を口にしたのは初めてだった。
「だから、俺はまた君と再会して、君に逃げ込んだんだ」
彼の言葉に苦笑を浮かべる。
「でも、俺は一番泣かせたくない人を泣かせてしまった・・・。やっと出会った、探し求めていた相手なのに・・・」
そこには昔の彼とは違う瞳があった。
「・・・あなたと再会した時、変わったと思ったわ。もう、あなたは私と同じ人間じゃない」
そこまで、口にして、席を立つ。
「・・・キスして・・・」
振り向き、彼に告げる。
「えっ」
小さく彼が呟いた瞬間、彼女の唇が重なる。
今まで交わしたキスとは違う一瞬触れ合うだけの行為。
「・・・さよなら・・・」
そう告げ、理香子はbarを後にした。




「・・・速水さん。今日は早いんですね」
真澄が部屋に戻ると、嬉しそうにマヤが玄関まで出迎える。
「早い?そうか?」
時計を見つめると、午前0時になろうとしていた。
「・・・だって、速水さん、この所、朝だったでしょ?帰ってきたの」
マヤの瞳が一瞬、寂しそうなものに変わる。
今まで、そんな瞳を彼女にさせてきた事に罪悪感が募った。
「・・・すまなかった・・・。もう、あんなに遅くは帰らない・・・」
心のからの言葉を口にする。
「・・・君に寂しい想いはさせないと誓うよ・・・」
速水の言葉に胸が熱くなる。
「・・いえっ、そんな。気を遣ってもらわなくても・・・」
何だか、照れくさくて、彼から視線を外す。
「夜食食べます?少しですけど、用意してあるんですよ」
赤く火照りそうになった頬を隠すように、マヤはリビングに向かって歩き出そうとした。
その瞬間、フワッとした温もりを背中に感じる。
彼女の胸の前には逞しい腕が巻かれていた。
「えっ」
戸惑ったように声をあげる。

「・・・君が好きだ・・・」

背中越しに彼の声が聞えた。
彼の言葉が全身に伝わる。
頭の中が真っ白になった。





「はぁぁ・・・」
小さくため息をつく。
「四十八回目ね」
マヤの意識を戻すように、誰かの声がした。
「えっ?」
声のした方を見ると、美恵子がいた。
「朝から、ずっとため息ついているわよ。何かあったの?」
何かあったという言葉に昨夜の速水の言葉が浮かび、顔中が真っ赤になる。
「・・・な、何もないよ」
あまりにもわかり易いマヤの反応に美恵子はクスリと笑みを浮かべた。
「マヤちゃんって、本当に舞台の上と全然違うわよね。女優さんだなんて、信じられないぐらい嘘つくの下手よ」
可笑しそうに美恵子が言う。
「・・・そうかなぁぁ・・・」
俯き、小さく呟く。
「まぁ、そこがマヤちゃんの面白い所だけどね。で、何があったの?」
興味深々というようにマヤを見る。
「・・・え・・と、その・・・」
今にも消えてしまいそうな小さな声で呟く。
「・・・ちょっと、聞きたいんだけど・・・」
マヤは昨夜から考えていた事をこの際誰かに相談してみようと思った。
「・・・あのね・・・」

キンコ−ン・カンコ−ン

マヤが本題を告げようとした瞬間、チャイムの音がなり、教室に先生が現れた。
当然ながら、マヤの話はそこで終わってしまった。
残念そうに美恵子は席に戻って行った。
マヤの頭の中は再び、昨夜の速水の言葉でいっぱいになっていた。





「何かあったな!」
学校帰りに地下劇場に行くと、麗が顔を見た瞬間に言う。
さすが、マヤと一緒に生活していただけの事はある。
麗の第一声にマヤは取り繕う事もできずに、素直に頷いてしまった。
「・・・どうしてわかったの?」
不思議そうに麗を見る。
マヤの言葉に得意気に笑みを浮かべる。
「あたしはあんたと一緒に住んでいたんだよ。それに、あんた程わかり易いヤツもいないからね」
美恵子といい、麗といい自分はそんなにわかり易い人間なのかと、しみじみと思う。
この事を、速水に言ったら、間違いなく彼はお腹を抱えて笑うのだろうな、なんて事まで思ってしまう。
「・・・で、あんたの今の悩みは何だい?紫の薔薇の人と何かあったのか?」
心配そうに麗が聞く。
「・・・うん。その・・・。ちょっと、聞きたいんだけど・・・」
美恵子に言えなかった言葉を口にする。
「・・・もしも、もしもだけど・・・」
いざ口にしようと思うと、声が小さくなってくる。
「・・・もしも何だ?」
マヤの言葉を急かすように麗が口を開く。
「・・・麗なら・・・」
そこまで口にして、彼女を見る。
「私なら?」
「・・・麗なら・・・好きだって・・・言われたら、どう取る?」
もじもじと自信がなさそうに呟き、俯く。
「えっ?」
途中の言葉が小さすぎて聞き取れない。
「・・だから・・・好きって・・・」
思い切ってさっきよりも大きな声で告げる。
その言葉を聞いて、麗はマヤが何で悩んでいるか気づいた。
「なるほど。紫の薔薇の人に好きだって言われたのか」
麗の言葉に一気に頬が真っ赤に染まる。
「・・・で、あんたはどう受け止めたんだ?」
麗の言葉に今朝の彼を思い出す。
彼は何事もなかったように相変わらずマヤをからかっていた。
マヤは一晩中眠れなかったというのに・・・。
「・・きっと・・・家族のように好きなのかな・・と、思って・・・だって!あの人!何も変わらないんだもん!!」
そこまで口にして、速水の態度に腹が立ってきた。
「私なんて意識しっぱなしで、目があっただけでドキドキしていたのに、
その様子を見て『トイレにでも行きたいのか?』なんてサラッと言うのよ!」
マヤの話を聞きながら、益々紫の薔薇の人の正体が老人だとは思えなくなるが、今は聞かない事にした。
「・・・なるほど。それは確かに家族として好きって言う気持ちなのかもな」
麗の言葉に何だかガッカリとする。
「・・・そうだよね。やっぱり・・・。私なんて、いつもあの人からは子供としてしか見てもらえない」
マヤの瞳が切ないものに変わる。
「・・・もっと、早く生まれたかったな。あの人と釣り合いがとれるぐらいに・・・」
寂しそうに微笑む。
「・・・そんなに彼の事が好きなのか?」
そう聞かれて、マヤは考えるように舞台を見つめた。
「・・・多分。好きなのかも。でもよくわからないの。
ただ胸の中が苦しくて、訳のわからない気持ちがいっぱになって・・・。
昨日もあの人の言葉を聞いた時、心臓が止まってしまうかと思った。
凄い勢いで体中が脈を打って、あの人の顔を見ただけで、死んでしまうかと思った」
マヤの言葉に真っ直ぐな気持ちが伝わってくる。
「・・・羨ましいな・・・」
ポツリと麗が呟く。
「・・えっ?」
驚いたように隣の彼女を見る。
「誰かをそこまで想える事だよ。そんなに激しい想いを私はまだ知らないな・・・。
その気持ちは役者としてきっとマヤのブラスになるはずだ」
「・・・麗・・・」
何と言っていいかわからなくなる。
「・・・そんなに好きなら、きっといつか想いは伝わるはずだよ。応援しているよ」
優しく微笑むと、麗は稽古に戻って行った。





「社長。マヤちゃんが来ていますが」
水城の言葉に真澄は書類を見つめる視線を時計に移した。
気づけば、もう7時になろうとしている。
今夜は彼女と一緒に芝居を観に行く約束をしていた。
「あぁ。通してくれ」
インタ−ホン越しに真澄が答える。
「かしこまりました」
水城がそう告げた一分後、制服姿のマヤが社長室に現れた。

「すまんな。ちびちゃん。今支度をするから」
そう言い、ペンを置き、上着を掴んだ。
「速水さん、急いで下さい!私、このお芝居ちゃんと観たいんですから」
急かせるようにマヤが口にする。
しかし、本当は速水といつものように接していないと顔中が赤くなってしまいそうだったのだ。
「はいはい。お嬢様。今終わりましたよ」
上着を着ると、彼女の側に行く。
「さて、行こうか」
優しい笑みを浮かべる。
それだけで、もう、鼓動が止まってしまいそうになる。
「・・・行きますよ」
彼を見ないように急ぎ足で社長室を出る。
真澄は苦笑をもらし、マヤの後を追いかけるように歩いた。


「・・・あら、真澄さん・・・」
エレベ−タ−から、下りて、エントランスに出ると、理香子と出くわす。
彼女に会ったのは一週間ぶりになる。
一瞬、理香子と速水の間に特別な空気が漂う。
それを直に感じて、マヤの胸は締め付けられた。
ワインレッドのス−ツがよく似合っていた。
子供のマヤにはいくら背伸びをしても彼女には届かない。
速水の隣に立つのはやはり理香子のような大人の女性が相応しい。
映画の中の恋人たちのように二人の姿はしっくりとくる。
片や、自分はどうだろ?
制服姿の自分はとても彼とは違いすぎる。
いや、制服を脱いでも、彼とは全然釣り合わない。
こんな時程、自分はどして、後、5年早く、後10年早く生まれていないのだろうと思う。
「あなたは紅天女候補の女優さんね」
理香子に話掛けられてハッとする。
「えっ・・・。あっ、はい」
マヤよりも10cm以上背の高い彼女を見上げる。
綺麗な人だな・・・。と、素直に思える。
「悪いが時間がないんだ。川村さん。例の書類なら、水城君に渡しておいてもらえるか?」
ビジネスライクで真澄が言う。
「えぇ。速水社長。わかりました」
軽く頭を下げて、理香子は歩き出した。



劇場には何とか開演時間前に着く事ができたが、マヤはその夜の芝居が全然頭の中に入って来なかった。
どうしても、理香子の事を考えてしまう。
集中しようとすれば、する程、余計な事が浮かぶ。
理香子と一緒にいる速水の姿が頭から離れないのだ。
真澄はそんな彼女の様子に何となく気づいていた。
時折、チラリと隣の彼女を見てみると、その瞳は芝居ではなく、違うものを見ているようだった。

一体どうしたのだろう・・・。

いつもの彼女と違う事に心配になる。
彼女が芝居に入り込めないなんて余程の事がある。
そして、ついには大きな黒い瞳から涙の雫が一粒零れたのを真澄は見逃さなかった。
芝居は涙を流すような場面ではない。

ちびちゃん・・・。

真澄は声をかけるべきか迷っていた。



「9時か・・・。夕飯まだだったよな。何か食べて行くか?」
劇場を出ると、速水が口を開く。
とてもじゃないが、今は食欲なんてなかった。
さっきから、胸が苦しくて、何も入らない。
真澄と一緒にいる事さえも辛い。
「いえ。私、あんまりお腹空いてなくて・・・。 
速水さん、まだお仕事があるんでしょ?無理に私に付き合わなくていいです」
マヤらしくない言葉に、彼女が何かに悩んでいる事に気づく。
「そうか。わかった」
速水がそう言った瞬間、悲しくなった。
「じゃあ、私、電車で帰りますので・・・」
彼に背を向け、歩き出そうとする。
「・・・待ちなさい」
腕を掴まれる。
「えっ」
「・・・君がお腹空いてなくても、俺は空いているんだ。付き合ってもらうぞ」
強引にマヤの手を掴んで、速水が歩き出す。
マヤは呆気に取られたように彼を見た。
何だか、彼らしくて可笑しくなってくる。
「何だ?」
マヤがクスクスと笑っているのを横目で見る。
「・・・いえ。相変わらず強引なんだな。と、思って」
そう言い、マヤはいつだったか、速水邸で彼と暮らしていた頃の事を思い出した。
母が亡くなったばかりの頃、舞台に立つ事ができなくなった。
それでも、彼は見捨てず、強引に何度も、何度も舞台に立たせようとした。
彼の家を飛び出しても、探し出して、連れ戻された。
あの頃は、とんでもないヤツ!嫌なヤツ!としてその行為を恨めしく思ったが、今は違う。
一緒にいてみてわかった。
それが、彼の優しさだと・・・。
それが不器用な彼のやり方だと・・・。
彼は人の心のわからない人ではなかった。
本当は、とても、とても優しい人なんだと、気づかされた。

「・・・ちびちゃん・・・」

気づくと、彼女の瞳からポロポロと涙が流れていた。
さすがの彼もどうしたらいいのかわからなくなる。
「・・・ごめんなさい・・・。何だか、急に涙が・・・」
立ち止まり困ったように彼女を見る彼に告げる。
「・・・一体、何があったんだ?」
心配そうに彼女の顔を見つめる。
「俺じゃ、君の相談相手にはなれないか?」
膝を曲げ、彼女の顔を覗き込む。
マヤは首を横に振った。
胸がいっぱいで、言葉が出てこないのだ。
「・・・ごめんなさい。何でもないんです。本当に・・・何でも・・・」
嗚咽をあげながら、何とか口にする。
「・・・マヤ・・・」



Trrrrr・・・。Trrrr・・・。

午後10時。秘書室の水城のデスクの上の電話がなる。
「秘書課の水城ですが」
「あぁ。速水だ。実は、急用ができて、今夜は社には戻れない。後の調整を頼む」
水城は一瞬、眉を上げた。
この後はまだ取引先との接待が入っていたのだ。
「・・・先方には何とお伝えすれば宜しいですか?」
水城の言葉に考えるように沈黙が流れる。
「・・・そのまま、急用だと言っておいてくれ。埋め合わせは必ずすると伝えてくれ」
「かしこまりました」
冷たい響きを感じる水城の声に真澄は内心汗をかいた。
「・・・水城君。すまない・・・」
申し訳なさそうに口にする。その声に水城は小さな驚きを感じた。
言い方が少しきつかったかしら・・・。何て事を思う。
「いいえ。社長のスケジュ−ルを調整するのも私の仕事ですから。お気になさらず」
さっきよりも柔らかい声で言う。
真澄はホッとしたように電話を切った。

「・・・あの、会社に戻らなくて、本当に大丈夫だったんですか?」
キッチンに立つ速水にマヤが心配そうに声をかける。
「うん?」
フライパンを持ったまま、彼女を振り返る。
「水城君が何とかしてくれるさ。そうだ。電話、向こうに置いておいてくれるか」
コ−ドレスフォンをマヤに渡す。
「えっ、あっ、はい」
彼から受け取ると、マヤは所定の場所に置いた。

しかし、何だか、信じられない・・・。

速水がこうして彼女の為に仕事をキャンセルして、キッチンに立っているなんて。
不思議なものでも見るかのように、エンプロン姿の彼を見る。
包丁で野菜を切る音が妙にリズミカルに聞え、彼の鼻歌まで聞えてくるではないか。

「ちびちゃん、冷蔵庫から、卵とってくれるか?」
ポカ−ンとしている彼女に真澄が声を掛ける。
「あっ、はい」
ハッとし、彼注文の品を差し出す。

調理開始から一時間と少し。
テ−ブルの上には速水が作ったオムライスとハンバ−グにサラダが乗っていた。
全てマヤがリクエストしたものである。
マヤが作るよりも、かなり美味しそうに見えた。

「おっと、そうだ。ス−プもあったんだ」
そう言い、ス−プの入ったカップをテ−ブルの上に置く。
マヤは呆然とテ−ブルの前に座っていた。
「うん?食べないのか?全部君の注文通りに作ったつもりだが」
中々、箸をつけようとしない彼女に言う。
「えっ、いえ」
彼に言われて、慌てて、スプ−ンを掴み、オムライスを一口口にする。
「・・・どうだ?」
少し、不安そうに速水が聞く。
「・・・美味しい・・・」
驚いたように言葉にする。
まさか、速水が料理が上手だったなんて、意外すぎて、卒倒してしまいそうだ。
いや、その前に彼自身がキッチンに立つなんて、実際にこの目で見なければ信じられない。
「良かった。君の口に合って」
安心したように告げると、彼の作った物を美味しそうに食べるマヤを優しい瞳で見つめた。
「・・・速水さんにこんな特技があったなんて、知りませんでした」
「学生時代は自炊していたからな。それに何となく作り出すと結構面白くて。
でも、人に作ったのは君が初めてだぞ」
少し照れくさそうにマヤを見る。
「速水さんの奥さんになる人が羨ましいです。私なんて不器用で、こんなに美味しいものは作れないです」
「うん?だったら、俺の奥さんにでもなるか?」
何となく口にした彼の言葉に、マヤの脈が上がる。
「・・・えっ・・・」
思わず、彼を見つめる。
優しい瞳と重なる。
「・・・はははは。冗談だよ。そんな困った顔するな。こんなおじさんとは、君とは釣り合いがとれないか?」
可笑しそうに彼が笑う。
「・・・おじさんだなんて・・・私、速水さんの事、そんな風には思ってません!確かに、11歳も年が違うけど・・・」
笑い飛ばそうとした彼に、マヤが真剣な眼差しを向ける。
「・・・ちびちゃん・・・」
彼女の瞳に胸の奥が熱くなる。
「・・・私こそ、あなたとは釣り合いがとれなくて・・・。
時々思うんです。どうしてもっと、早く生まれて来なかったんだろう。
どうして、私は速水さんと同じ年じゃないんだろうって・・・。
せめて、あなたに子供だとは思われない年齢になりたい」
彼女の言葉に胸が締め付けられる。
抑えていた気持ちが溢れそうになる。
「・・・速水さんと釣り合いが取れるようになりたい・・・。あの人のように・・・」
マヤは理香子の姿を思い浮かべた。
堪らず、真澄は自分の席を立ち、背中から彼女を抱きしめた。
「・・・どうして、そんな事気にする。俺は今のままの君が好きだ・・・」
彼の声が耳元にかかる。
「真っ直ぐで、素直で、純粋で、からかうとすぐに膨れて、俺に悪態をつく君が好きなんだ」
彼の温もりと、言葉に鼓動が早くなる。
「・・・君を子供扱いするのは、俺が・・・歯止めがきかなくなってしまうから・・・。
そう思い込まないと、無理矢理にでも、君を・・・奪ってしまいそうだから」
真澄の言葉に瞳を見開く。
「・・・速水さん・・それって・・・」
振り向き、彼を見つめる。
「・・・君は俺にとってただ一人の女性だよ。俺の愛する人だ・・・」
額に彼が口付ける。
「・・・速水さん・・・」
彼の言葉に嬉しさがこみ上げてくる。
そして、彼と自分が同じ想いだという事に気づいた。

「・・・私も・・・あなたが好き・・・」
そう告げた彼女の言葉に今度は速水が瞳を見開く番だった。

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