「やぁ、チビちゃん」
からかい口調で真澄が声をかける。

ゲッ!速水真澄・・・。

通りを歩いていたら、偶然彼に会ってしまった。
「・・・どうも」
引きつった笑みを浮かべる。
「はははははは」
マヤの表情を見て、可笑しそうに笑い出す。
「君は本当に面白い子だね」
真澄の笑いに不機嫌そうに彼を見る。
「何がですか?」
「俺を見る君の視線だよ。まるで、害虫でも見るような顔だ。まぁ、君にそこまで想ってもらえて
嬉しいよ」
真澄の言葉にさらに苛立ちが募る。
「・・・急いでいるんで、失礼します」
そう言い、彼を無視して、歩き出す。
「・・・危ない!」
次の瞬間、彼に腕を掴まれ、抱き寄せられる。
力強い腕に大きく脈をうつ。
「よく見ろ。轢かれる所だったぞ」
車が通り過ぎるのを見つめながら、真澄が口にする。
「・・・君は本当、そそっかしいな」
苦笑交じりに彼女を見つめる。
その瞳が優しく見えた。

ヤダ。速水さんに対してそんな事想うなんて・・・。

「・・・失礼します」
彼の腕から離れると逃げるように彼の元から離れる。
真澄はそんな彼女の背中を寂しそうに見つめていた。

どこまでも、行っても俺は彼女と交わる事はないのかもな・・・。





何?この感情は?
速水さんの顔を見たら、急に胸が苦しくなって・・・。
締め付けられるような気持ちになって・・・。
こんな気持ちになるなんて・・・どうしたの?

「・・・マヤ?」
「えっ」
呼び止められ、振り向くと、麗が心配そうに彼女を見つめていた。
「何かあったのか?」
「・・・ううん。何もない」
首を横に振り、答える。
「・・・そうか。ならいいんだけど。そういえば、学校の芝居に出るんだってな」
麗に言われ、マヤは嬉しそうに笑う。
「うん。演劇部の芝居に客員って形で出るようになったの」
「きっと、見に行くから、頑張れよ」
そう言い、マヤの頭を撫でる。
「・・・ありがとう」





「北島マヤさん?」
芝居が終わり、控え室を出ると、見知らぬ男に呼び止められる。
「えっ・・・そうですけど」
マヤの顔を興味深く見つめる。
男は20代後半といった所で、中々のハンサムだった。
見つめられ、思わず、胸がときめいてしまう。
「実は僕演出家で、役者を探しているんです。よかったら、僕の芝居に出てみませんか?」
男は優しそうな笑みを浮かべた。
「えっ、芝居!」
芝居の二文字にマヤの表情が喜びに変わる。
「脚本はこれでです。今週の日曜日にオ−ディションがあります。興味があれば是非来てみて下さい」
そう言い、マヤにオ−ディション会場の地図と脚本を渡す。
「あっ、そうだ。僕、佐々上と言います」
思い出したように名刺を彼女に渡す。
名刺には”演出家 佐々上俊一”と書かれていた。
「オ−ディションに来た時はこの名刺を見せて下さい」
礼儀正しい彼にマヤは好印象を持った。
「はい。是非伺わせてもらいます」


マヤが貰った脚本の内容は多重人格の少女と彼女を支えながら、
恋に落ちていく精神科医との話をテ−マにしながら、家族とは何か?真実の愛とは何か?を問う現代劇だった。
マヤにとってこの手の芝居は初めてだった。
まだ高校生の彼女には重いテ−マだと思えたが、彼女の本能がこの芝居を求めていた。







「・・・ちびちゃん」
真澄がオ−ディションに来たマヤを驚いたように見つめる。
審査員席にいる真澄を見つめ、マヤも同じように驚く。
「彼女は僕が呼んだんですよ」
真澄の隣に座る佐々上が真澄に耳打ちするように呟く。
「それじゃあ、北島さん。渡されたセリフを口にして下さい」
マヤは真澄の存在に怯む事なく、役になりきった。

「はい。ご苦労様でした」
そう言われ、マヤの顔に戻る。
「失礼します」
マヤは審査員室を後にした。
その後を追うように真澄が席を立つ。
「僕に構わず、審査を続けて下さい」
真澄の行動に周りの審査員が唖然とする中、彼はその場を後にした。




「降りるんだな。この芝居は」
マヤの耳にそんな言葉が入る。
「・・・速水さん?」
控え室で審査結果を待っていると、真澄が彼女の目の前に現れた。
「君はこの芝居には向いていない。降りるんだ」
厳しい視線を彼女に向ける。
「なっ・・・いきなりなんですか!」
真澄の言葉に一気に不愉快な気持ちにさせられる。
控え室にいるマヤと同じように結果を待つ人たちは彼女の叫び声に驚いたように彼女の方を見つめた。
「こっちに来たまえ」
周りの視線を感じ、彼女の腕を掴む。
「放して下さい!」
尚も声を荒げる。
「いいから、こっちに来なさい!」
マヤにつられて、つい真澄も声を荒げる。
その迫力にマヤは驚いたように真澄を見つめ、力なく、彼に言われるまま、その場を後にした。




「一体、何なんですか!」
誰もいない部屋に連れてこられ、ようよくマヤが声を出す。
「君には危険すぎる」
マヤを真っ直ぐに見つめる。
「危険?どういう事です」
「君は役になりきってしまうからだ。この役は多重人格で、しかも、家族に対する問題を抱えている」
「そんなの台本を読んだ時からわかっています」
「・・・いいのか?君はまだお母さんを亡くしたばかりだぞ?君に絶えられるのか?」
真澄の言葉にマヤの表情が凍りつく。
「・・・きっと、この役を演じれば、思い出したくない余計な事まで思い出すかもしれない・・・」
真澄の言葉に何の反応もなく、ただ、ただ、呆然とする。
「この芝居は多重人格の少女の精神の移り変わりを重点にしている。下手すれば、足を捕われ、溺れてしまうかもしれない・・・。
君のようなタイプの役者には危険なんだ」
華奢な彼女の両肩を掴み見つめる。
「・・・だったら、私を落とせばいいでしょ。それだけで済むはずです」
真澄が彼女に降りるように態々言いにきたのは彼女のオ−ディションを目にしたからだった。
彼女の演技は荒削りながらその技量は目を見張るものがあった。
このままいけば、間違いなくこの役は彼女に決まってしまう事は明らかだった。
「私はただ、結果を待つだけです」
「合格したら・・・どうする?」
「・・・もちろん。引き受けます。私はこの役が欲しくて来たんですから」
挑戦的な瞳で真澄を見つめる。
「・・・意地っ張りめ」
マヤに聞こえないように小さく呟く。
「何か言いました?」
「いや。そうか。わかった。君の意志は変わらないと言うんだな」
「はい」
一歩も譲らないというように真澄を見る。
「勝手にしろ!俺はどうなってもしらないからな」
苛立ったように口にし、部屋を出ていく。






「やはり、北島マヤで決まりでしょう」
審査員たちが口をそろえてそう言う。
「いや、私は北島を使うのは反対です」
真澄の言葉に全員が驚く。
「北島のように役になりきってしまう役者には向かない。この役を演じるには冷静な目が必要だ。
それに、彼女はこの役を演じられる程成熟しきっていない」
「それでも、僕は彼女を使ってみたいですね」
真澄に対抗するように佐々上が口にする。
「成熟しきっていないからこそ、演出家としては魅力を感じる。今日の彼女の演技はまだ荒削りだが、僕の心を捉えた。
それは皆さんも感じたでしょ?」
佐々上の声に真澄を除いた審査員一同が頷く。
「速水さん、それでもまだ反対ですか?」
佐々上の言葉に言葉を失う。






「北島さん、引き受けてくれますか?」
佐々上がマヤに結果を報告しに行く。
「えっ!じゃあ、受かったんですか?」
嬉しそうにマヤが笑顔を浮かべる。
「稽古は三日後からです。宜しくお願いします」
彼女の前に手を差し出す。
「はい。こちらこそ、お願いします」
佐々上の手を握り、緊張したような表情で答える。







「この台本に目を通して頂けませんか?」
アクタ−ズスク−ルの月影を尋ね、重い表情で真澄が口にする。
「珍しいわね、あなたが私に芝居の台本を見せるなんて」
そう言いながら、パラパラと目を通す。
真澄は月影が台本を見ているのを静かに見つめていた。
「難しい芝居ね。これは下手をすると役者も芝居に喰われてしまう」
月影の言葉に益々真澄の表情が重くなる。
「北島マヤが今度この芝居に出ます、役は二重人格の少女です」
真澄の言葉に今度は月影が顔色を変える。
「あなたなら彼女を止める事ができる」
「・・・そうね。マヤにはまだ早すぎるかも・・・」
思案するように窓の外を見つめる。
「でも、私はあの子の飛躍を見てみたい」
月影が告げた言葉に真澄は耳を疑った。
「あなたは何を言っているのかわかっているんですか!彼女にこの役は重すぎます」
声を荒げ、月影を見つめる。
月影が冷静な真澄が取り乱すのに驚いたように瞳を見開いた。
「・・・マヤがもし、この役を演じて潰れたのなら・・・そこまでの役者です。それでは紅天女など到底演じられません」
「・・・月影さん・・・あなたって人は・・・。わかりました。止める気はないという事ですね。失礼します」
真澄はそう言い、ソファ−から立ち上がった。
「真澄さん、あなたにとって、マヤは邪魔な存在なんじゃない?なぜそんなに必死になるの?」
部屋から出て行きかけた真澄に告げる。
「・・・今度の芝居は大都が全面的に資金を出しています。
役者に何かあって上演ができないなんて事になったら、大きな損害を受けるので・・・。ただ、それだけです」
「・・・そう。一つ忠告をしてあげるわ。この芝居を成功させたいのなら、マヤを無償の愛で包んでやれる。そんな協力者が必要よ」
月影の忠告を聞くと、何も言わず、真澄は部屋を出て行った。

「真澄さん・・・あなたにとっても、この芝居は山場になりそうね」
閉められた扉を見つめながら、月影はそんな事を口にした。









『あなたは誰なの?』
芝居の中のマヤが口にする。
『私は医者だ。君の話を聞く為にあらわれた』
相手役が答える。
『私を消すつもりなのか!そうはさせない!』
もう一人の人格に変わり、ナイフを手にする。

「違う!」
そこで佐々上の声が飛ぶ。
マヤは厳しい表情を浮かべる佐々上に驚いたような表情を浮かべた。
「君はここで綾子から別の人格である千香に変わるんだ。今の演技では綾子のままだった。
綾子がただ激情しただけだ」
「・・・すみません。もう一度お願いします」

それから、何度もその場面を演じるがマヤは綾子から別の人格にはなりなかった。

「・・・もう、いい」
苛立ったように佐々上が言う。
その言葉にビクっとする。
「北島君、君はまだこの役を掴んでいない。暫く稽古から外れてもらう」




「さっきはきつい事を言ってすまなかった」
稽古が終わり、マヤが一人、別室でぼんやりとしていると、佐々上が現れた。
「いえ、当然の事ですから」
「明日、僕に付き合ってくれるか?君に会わせたい人がいるんだ」
静かな表情で佐々上が言う。
「えっ、はい」
「じゃあ、9時に迎えに行く」
そう言いい、佐々上はマヤを置いて、部屋を出た。




「まだ役を掴んでいないようだな」
部屋を出ると、佐々上に真澄が話し掛ける。
「・・・速水・・・」
佐々上と真澄は同じ大学で学んだ仲だった。
「彼女は必ず、役を掴むよ。俺が掴ませてみせる!」
鋭い瞳で真澄を睨む。
「なぜ、北島にこだわる」
「おまえこそ、なぜ彼女をこの芝居から引かせようとする?」
佐々上の言葉に言葉を詰まらせる。
「興業主として、心配なだけだ。幕をひらけないままに終わったら、痛い目にあうのは俺だからな」
「・・・それだけかな」
「何?」
真澄の問いに何も言わず、佐々上は歩き出した。


「・・・速水さん?」
マヤが控え室を出ると真澄がいた。
「気をつけるんだな。この芝居の演出家は一癖も二癖もあるやつだ」
「えっ・・・佐々上さんの事?」
マヤがそう言った時、もう、真澄は彼女に背を向けて、歩いていた。
「・・・変なの」
遠くなる背中に小さく呟く。





「ここは・・・」
佐々上に連れてこられた所は刑務所の奥にある病院のような所だった。
一見、ただの病院のように見えたが、所々に険しい顔をした看守が立っていた。
それだけで、マヤは不安になる。
そして、マヤが連れて来られた場所は一番警備が厳しい所だった。
「田島順子に面会に来た」
看守にそう告げると、待合室に通される。
そこは白一色が占めていた。
「あの、佐々上さん・・・一体、誰に会わせる気ですか?」
「田島順子。年齢24歳。100人以上もの人格を抱える多重人格患者だ」
「100人!!」
「あぁ・・・。そして、彼女は去年、自分の夫を殺害した」
その言葉にマヤの顔が凍りつく。
「・・・そして、彼女も命を絶とうとした・・・」
マヤの中に強い衝撃が走る。

「あら、佐々上さん、来て下さったの」
待合室に女性が入ってくる。
とても、夫を殺害したようには見えず、彼女は穏やかそうな笑みを浮かべた。
「あぁ。君に会いたいって人がいてね。彼女は北島マヤ。今度やる僕の芝居に出てくれるんだ」
佐々上は打ち解けた表情で話し始める。
「・・・そう。女優さんなの。宜しくね。私は田中順子よ」
優しそうな笑みをマヤに向ける。
「・・・宜しくお願いします」

それから三人は一時間程他愛もない話をしていた。
マヤも段々、田中順子に慣れ、打ち解けたような笑顔を浮かべていた。

「ちょっと、トイレ」
そう言い、佐々上が席を立つ。
「いってらっしゃい」
順子はクスリと笑い彼にそう言った。

「・・・へぇ−。そうなの、多重人格のお話をやるの」
佐々上がいなくなると、マヤの言葉に相槌を打つように順子が答える。
「そうなんです。それで、まだ、私掴めなくて・・・。自分の中に違う人格があるってのがよくわからなくて・・・」
そう言い、マヤがフッと順子の顔を見た時、さっきとは違う雰囲気になっているような気がした。
「はははははははは」
突然、笑い出す。
マヤはビクッとして、彼女を見た。
そこにはまるで違う瞳をした女がいた。
「そんなに知りたかったら、人を殺してみな。きっと、耐え切れなくて、あんたの中の闇の部分が出てくるよ」
「・・・順子・・・さん?」
「順子はもういないよ」
マヤをきつく正面から睨む。
「知ってるかい?人を刺す時の感触を・・・。柔らかくて、鈍いあの感覚を・・・。そして、流れる赤い血・・・」
ゾッとするような冷たい瞳でマヤを見る。
マヤは何も言えず、その瞳を食い入るように見つめていた。
「・・・あたしはアイツを殺したてんだ。憎いアイツを・・・」
狂気に浮かされたように言う。
「アイツはあたしの順子を奪ったんだよ・・・だから、殺してやった・・・。アイツが順子を抱きしめようと、腕を伸ばした時に隠し持っていた
ナイフでね。アイツは信じられないものでも見るようにあたしを見ていたよ」
マヤは恐ろしさで全身が震えていた。
助けを求めようと、声にしようと思っても声が出ない。

「・・・そこまでだ」
佐々上が部屋に入ってくる。
「北島君、行こう」
佐々上に支えられ、マヤはようやくその場から立ち上がった。


その日からマヤの中で何かが変わり始めていた。





「そうだ!狂気の瞳だ!!」
マヤの演技に佐々上の熱が入る。
マヤは別人のような冷たい表情を浮かべ、自分を救おうとしている精神科医にナイフを向ける。
稽古を見に来ていた真澄はその表情に愕然とした。
恐れていた事が、彼女に起こり始めている。
そんな焦りで胸がいっぱいになった。


私は千香・・・。綾子の悲しみを背負うもう一人の人格・・・。
綾子のためなら、何だってできる。
人を殺す事だって・・・。

鏡をじっと見つめ、自分に言い聞かせる。
もうそこには北島マヤの人格はなかった。

コンコン・・・。
控え室を軽く叩く音がする。
マヤは何の反応もせず、鏡を見つめ続けていた。

「マヤ、いないのか?」
扉を開けると、突然、誰かに切りかかられる。
寸前の所で、避け、ナイフを手にした彼女を見つめる。
「・・・マヤ、一体、どうしたんだ!」
真澄の言葉に何の反応も示さず、襲いかかってくる。
真澄は咄嗟に、ナイフの刃の部分を掴んだ。
赤い血がポタポタと床に落ちる。
それを見て、マヤはハッとしたようにナイフを捨て、意識を失った。




憎いあの男を殺すのよ・・・。
私から母さんを奪ったあの男を・・・。
母を殺したあの男を・・・。

速水真澄を・・・。


マヤは魘されながら、幾度もその声を聞いていた。


「・・・マヤ・・・」
病室で眠る彼女を不安そうに見つめる。
真澄にナイフを向けたマヤはまるで別人だった。
狂気が宿る瞳はゾッとさせられるものがあった。

”・・・この芝居を成功させたいのなら、マヤを無償の愛で包んでやれる。そんな協力者が必要よ”
月影の言葉が脳裏に過ぎる。

「・・・無償の愛・・・か・・・。俺にできるだろうか」



「・・・速水・・・さん?」
目を覚ますと、真澄の姿が目に入る。
その瞬間、憎しみが何倍にもなって溢れ出す。
「どうして、あなたがここに!出て行って下さい!!」
マヤの瞳は母親を亡くした頃のものだった。

やはり、あの芝居で・・・思い出したのか・・・。

彼女の母親が亡くなって、もう二年が経っていた。
その間彼女は母の死から立ち直り、真澄にそかな瞳を向ける事もなかった。

「あなたの顔なんて見たくも・・・」
そう口にしようとした瞬間、強く真澄に抱きしめられる。
「・・・よかった。君に戻って・・・」
真澄の体温がマヤの中の憎しみを溶かすように包み込む。
マヤは動けなくなったように、抱きしめられるままにされていた。
そして、真澄の腕の中でまた意識を失った。



私は・・・一体・・・誰なの?
あの人は誰なの?
私を優しく包み込んでくれる・・・あの人は?

狂気と正気が絡み合い、彼女を混乱させる。

そして、母親の苦しそうな表情が浮かびあがる。

「・・・母さん」
「マヤ、私をよくも捨てたわね。許さないよ!」
そう言い、強く彼女の首を締める。
「うっ・・・苦しい・・・」
呼吸ができなくなり、必死でもがくが尚も母親の手は彼女の首を締め付けた。




「・・・か・・あ・・・さん・・・」
苦しそうに魘されながら、マヤが幾度も呟く。
「・・・マヤ」
丸一日意識を戻さない彼女に胸が潰れそうな思いになる。
「しっかりしろ!」
力強く彼女の手を握り、悪夢から呼び起こそうとする。
「・・う・・・ん・・・」
彼女の声が痛々しく響く。
「マヤ!マヤ!マヤ!」
狂ったように彼女の名を呼び続ける。




マヤ・・・マヤ・・・マヤ・・・。
  マヤ・・・マヤ・・・マヤ・・・。

誰?私を呼ぶのは・・・誰なの?

浅い意識の部分で彼女を呼ぶ声がする。
その声に胸が温かくなる。
気づくと、彼女は暗闇の中で涙を流していた。

「泣き虫だな。おチビちゃんは」
優しい声とともに、ハンカチを差し出される。
顔は見えないが、その声に懐かしさを感じる。
「俺が君の涙を全て受け止めてやる」
次の瞬間、抱きしめられる。
「君の悲しみも、苦しみも俺が受け止める。だから、目を覚ましてくれ・・・。俺の大事なマヤ」
その言葉に顔を見上げると、辛そうな表情を浮かべた真澄が視界に入った。

「・・・速水・・さん・・・」
そう口にした瞬間、眩しい程の光が彼女の周りを包み込んだ。




「・・・マヤ?」
目を開け、ぼんやりと天井を見つめている彼女に声をかける。
マヤは聞き覚えのある声をすると、ゆっくりと真澄の方を向いた。
その瞳は真澄を憎むものでもなく、穏やかだった。
「・・・速水さん・・・」
やっと、彼女が帰って来た事を知ると、真澄は嬉しそうに微笑んだ。
「・・・君を待っていたよ」






「駄目だ!君はこんな目にまであって、まだあの芝居を続けると言うのか!」
病室に真澄の声が響き渡る。
すっかり回復し退院を明日に控えたマヤは芝居を降りる気はないと真澄を悩ませていた。
「・・・どうしても、やりたいんです。今度こそ、主人公の気持ちが掴めた気がします。今度は役になりきったりはしません。
ちゃんと、距離をとります。だから」
懇願するように真澄を見つめる。
純粋な瞳に見つめられて、真澄はこれ以上言えなかった。
「・・・わかった。その代わり、精神科医の診察を週に3回は受けるんだ。それから、もう二度と、田島順子に会いに行くな。いいな」
「はい」
真澄の言葉にマヤは表情を明るくした。
「・・・まったく君には呆れるよ」
真澄はそう言い、病室を後にしようとした。
その瞬間もマヤの瞳に真澄の右手に巻かれた白い包帯が目にとまる。
「・・・あの・・・、まだ痛みますか?」
マヤの戸惑いがちな言葉に歩き出そうとした足を止める。
「・・・いや、もう大分いいよ。もうすぐで抜糸だしな」
「・・・本当にすみませんでした。いくら意識がなかったとは言え・・・私、速水さんにとんでもない事をして・・・。
それなのに、速水さんずっと私についていてくれて・・・」
薄っすらと涙を浮かべる。
「・・・気にするな。これぐらい大した事ない」
ポンとマヤの頭に触れる。
その瞬間、マヤの胸に何かが宿った。
それはとても暖かくて、切ないものだった。
急に真澄の顔を真っ直ぐに見られなくなる。
「じゃあな。ちびちゃん」
優しい声でそう言い、真澄は病室を後にした。




「お帰り、北島君」
稽古場に行くと、佐々上を始め、スタッフや俳優たちがマヤの帰還を快く出迎えた。
「ご心配おかけしました。もう、大丈夫です」
マヤはしっかりとした表情を浮かべた。




「・・・そういえば、今日だな」
何かを思い出したように真澄は口にした。
「何か言いました?」
水城は不思議そうに真澄を見つめた。
「いや、何でもない。水城くん、この契約に関する資料を持ってきてくれないか」
真澄の言葉を聞くと、水城は資料を探しに社長室を出ていった。
一人になり、真澄はマヤに切りつけられた右手を見つめる。
もう、抜糸され、痛みもなかった。
「・・・今頃は稽古中かな・・・。本当に強い子だ・・・」




『・・・愛してる』
そう言い、綾子を抱きしめる。
『・・・どうして・・・』
綾子の中の狂気が薄れる。
そして、綾子の中のもう一人の人格が苦しみ出す。
『・・・やめて!』
戸惑いと混乱の表情を浮かべ、男の手の中から離れる。
男は愛しそうに瞳を細める。
『君の苦しみも、悲しみも全て、僕が受け止める。だから・・・もう、これ以上、自分を追い詰める事はやめるんだ!』
そのセリフがマヤが見た夢の中の真澄の言葉と重なる。
そして、愛しさが募る。
彼女の目の前にいるのは、真澄だった。

私、速水さんの事を・・・。

その瞬間、マヤの心の底に眠っていた気持ちに気がつく。

「よし!そこまでだ。いい演技だった」
佐々上が声をかける。
マヤはハッとしたように我に返った。



マヤは稽古が終わった後、いてもたってもいられなくなり、大都芸能の前に来ていた。
しかし、ビルの中に入る勇気はなく、ただ、社長室のある階を見つめていた。

速水さん・・・。

「あら、マヤちゃん」
そんな彼女に水城が声をかける。
「・・・水城さん」
「入院していたと聞いたけど・・・。もう大丈夫?」
「えぇ・・・大丈夫です」
「そう。あの時、真澄様、あなたの意識が戻るまでずっとつききっりだったのよ」
「えっ」
水城の言葉に驚いたように口にする。
「そのツケが回って、今、真澄様は休む暇はないみたい」
可笑しそうにクスリと笑う。
「・・・私、速水さんにご迷惑を・・・」
恐縮したようにマヤが言う。
「あら、いいのよ。気にしないで・・・。真澄様はあなたの笑顔が見られればそれぐらいどって事ないわ。さぁ、真澄様に会いに来たんでしょ?」
水城の言葉の意味を考えているうちに、大都芸能の中に連れていかれる。
「・・・えっ、あの・・・」
「真澄様、あなたの元気な顔を見ればお喜びになるわ。申し訳ないと思うなら、会っていくべきよ」
水城に促されるまま、マヤは社長室まで連れて来られた。

コンコン・・・。
遠慮気味にノックする音がした。
「どうぞ」
書類に目を通したまま声をかける。
ゆっくりとドアを開け、おずおずとマヤが入ってきた。
その姿を横目で見つめ、真澄は驚いたように書類を置いた。
「やぁ、君か・・・。こんな時間に珍しいな」
時計を見つめると、もう午後 10時を過ぎていた。
「・・・すみません。お仕事中邪魔でしたね」
そう言い、社長室から出て行こうとする。
「・・・待ちたまえ」
真澄に呼び止められ、足を止める。
「もう遅い。俺が送っていくよ。丁度、仕事もキリのいい所まで終わったしな」
上着を手にし、インタ−ホンを押す。
「水城君、帰るから車を表に回しといてくれ」
そう言い終わると、ブリ−フケ−スを手にマヤと一緒に社長室を出る。

「あの、私のせいで、速水さんが忙しくなっちゃったて聞きました」
エレベ−タ−ホ−ルでエレベ−タ−を待っていると、チラリと真澄の横顔を見ながらマヤが口にする。
「えっ・・・」
真澄は驚いたようにマヤを見た。
「君が俺の心配をしてくれるなんて・・・珍しいな」
クスリと笑う。
「だって、私のせいで速水さんが忙しいだなんて・・・申し訳なくて・・・」
「・・・大丈夫だよ。忙しいのは慣れているから」
優しい表情を浮かべる。
その表情にマヤの胸がドキリとする。
「・・・え、エレベーター遅いですね」
戸惑いを隠すように、上ずった声で口にする。
「うん?もう来たぞ」
マヤの言葉を裏切るようにエレベ−ターの扉が開く。
「あっ・・・」
マヤは恥ずかしそうに頬を赤らめた。
真澄はそんな彼女を愛しそうに見つめた。




「今日から稽古に復帰したみたいだが・・・大丈夫か?」
助手席に座るマヤに運転しながら真澄が聞く。
「はい。ちゃんと、役と距離をとるようにしています」
ハンドルを握る真澄の手がマヤの目に入る。
まだ右手には包帯が巻かれたままだった。
ズキリと胸が痛む。
「・・・何だ。まだ気にしているのか?」
マヤの表情を読み取るように口にする。
「速水さんを傷つけた事は消えませんから・・・」
「俺は何とも思っていない。こんなのただのかすり傷だ。俺が君にした事に比べれば・・・」
母親の名を呼び、病室で魘されていた彼女を思い出す。
「・・・速水さん・・・」
「俺は許されない。一生の傷を君につけてしまった。今回の事も元を正せば、俺があんな事をしなければ、
君は母親の死に対して苦しめられる事はなかった・・・役に溺れる事もなかったはずだ。俺が君に消えない傷をつけたせいだ」
そう告げた横顔は苦しそうに歪んでいた。
マヤは何て言葉をかけたらいいかわからず、窓の外を見つめた。
「・・・どこか、遠くに連れて行ってくれませんか?」
長い沈黙を破るようにマヤが口にする。
「えっ」
「・・・このまま帰りたくありません」

このままあなたと離れたくない・・・。

「・・・マヤ・・・」
思いつめたような彼女の表情に真澄は何も言わず、真夜中の高速を走らせた。





「わぁ、星が綺麗・・・」
真澄に連れて来られた別荘からは星空がよく見えた。
「海岸が近くにあるんだ。歩いてみないか?」
真澄の言葉にマヤは嬉しそうに頷いた。


暗くなった海岸を月が照らしていた。
波の音が心地よく響く。
マヤは真澄の後を追いかけるように砂浜を歩いていた。

「・・・速水さん、待って・・・」
どんどん先に進む真澄に声をかける。
「遅いぞ。ちびちゃん」
からかったように真澄が言う。
「速水さんの足が長すぎるんです」
膨れたようにマヤが言う。
真澄は可笑しそうに笑い声をあげた。
「おいで」
そう言いマヤに手を差し出す。
マヤは嬉しそうに差し出された手を握った。
二人はしっかりと手を握り合い、砂浜を歩いた。
結ばれた所から互いの暖かさが伝わい、穏やかな気持ちになる。

「ここがいい」
そう言い、マヤはお気に入りの場所を見つけると、立ち止まり、砂浜の上に座り込んだ。
真澄もその隣に座り込む。
「・・・夜の海って、真っ暗で・・・少し、怖い・・・何もかも飲み込んでしまいそうで」
海を見つめながら、マヤが口にする。
その表情がいつもの彼女よりも大人びて見えて、真澄の心をくすぐる。
「ちびちゃん、君はいくつになった?」
「えっ・・・18です」
「18か・・・そろそろ高校卒業か?」
「はい。あと少しで卒業します」
「時間の流れというものは早いなぁぁ・・・。君と出会ったのが随分昔のように思える」
懐かしむように瞳を細め、マヤを見つめる。
「速水さんとはいろいろありましたよね」
おどけたように言い、笑う。
「・・・そうだな。君にいつも大嫌いって言われていたっけ。今もそれは変わらんがね」
苦笑を浮かべる。
「・・・私、速水さんと出会えて良かったと思ってます。だから、母の事そんなに責めないで下さい。
あなたがどんなに苦しんできたか・・・私、やっとわかった気がします」
「・・・マヤ・・・」
「役に溺れ、自分がわからなくなった時、夢を見たんです。あなたに力強く抱きしめ、名前を呼ばれ、
私、やっと、戻ってこれたんです。、あなたが側にいてくれたから・・・戻ってこれた・・・。あなたが私を受け止めてくれたから・・・」
涙交じりに言い、自分が傷つけた真澄の手に触れる。
「・・・あなたが・・・好きです」
マヤの口から自然とその言葉が漏れる。
その瞬間、真澄の胸の鼓動が大きく脈を打つ。
時間が止まったように真澄はマヤの瞳を見いいった。
何かを口にしようとしても、熱い想いがこみ上げ、言葉にならなかった。
言葉の代わりに静かに唇を重ねる。
月明かりの下、二つの影が重なっていた。
唇を離した後、二人は何も告げず、ただ、波の音に耳を傾けていた。



「君はこの部屋を使うといい」
別荘に戻ると真澄がマヤを客室に案内する。
「パジャマはこれ」
そう言い、マヤには大きめの真澄のパジャマを渡す。
「シャワ−はそこにあるから。自由に使いなさい。じゃあ、おやすみ」
優しくマヤの髪を撫で、そう告げると、真澄は部屋を出た。

部屋に一人残り、物足りなさを感じる。

速水さん・・・私の事、どう思っているんだろう?

結局真澄はマヤの好きだという言葉に対して、キスを一つ、それ以外は何もくれなかった。

ベットに横になりながら、真澄の事を思う。




「はぁぁ」
シャワ−を浴び終わり、真澄はベットに横になった。

”あなたが・・・好きです”

ずっと、マヤの言葉が耳から離れない。
彼女が自分に対してそんな感情を抱いていたのは・・・全くの予想外な事だった。

素直に自分の気持ちを口にするべきかどうか、真澄は迷っていた。

コンコン・・・。
真澄が考えを巡らせているとドアを叩く音がした。

マヤ・・・?

「はい」
真澄が返事をすると、マクラを手にし、ぶかぶかのバジャマを身に付けたマヤが現れる。
その姿に胸がきゅんとする。
「あの・・、何だか、寝付けなくて・・・それで、速水さんの側なら安心できるから・・・それで・・・その・・・一緒に寝たくて・・・」
頬を赤くし、恥ずかしそうに口にする。
マヤの突然の提案に真澄の頭の中は一瞬、真っ白になる。
「やっぱり・・駄目ですか?」
甘えるような瞳で真澄を見つめる。
そんな瞳をされて、真澄に断れる訳はなかった。
「俺の左側で眠るなら・・・構わないが」
咳払いをし、無愛想に答える。
マヤはその言葉に嬉しそうに真澄が眠るベットの中に入っていった。

この子には危機感というものがないのだろうか・・・。
これでも俺は男なんだぞ!

心の中でそんな事を思いながら、自分の左側で寝るマヤを見つめる。

「うん?何ですか?」
何の緊張感もなく、マヤが答える。
「いや」
無邪気なマヤに苦笑が毀れる。
「・・・あの、もう少し、速水さんの方によっていいですか?」
「えっ」
真澄が返事をするまでもなく、マヤが真澄の方に寄る。
彼女の体が真澄に触れる。
さすがの真澄も理性が飛びそうになる。
「・・・こうして、速水さんを感じている方が落ち着くんです」
すっかり安心しきったような表情を浮かべる。
「何だか、子供を持ったような気分だな」
戸惑いを隠すように言う。
「じゃあ、速水さんは私のお父さんですか?」
笑顔を浮かべながら言う。
「私、お父さんっていなかったから・・・何だか嬉しい・・・」
甘えたように真澄に抱きつく。
素直に自分に甘えてくる彼女とても何だか、可愛く見えた。
「甘えん坊な娘だな。よしよし。お父さんがついているから、眠りなさい」
おどけたように言い、マヤの髪を優しく撫でる。
マヤは安心したように瞳を閉じた。

「・・・お父さんか・・・」
マヤの寝顔を見つめながら呟く。






「君の舞台、必ず観にいくよ」
別れ際に真澄が口にする。
「無理はするなよ」
軽く頭を撫で、優しくマヤを見つめる。
「あの・・・」
歩き始めようとした真澄に声をかける。
「うん?」
マヤの方を振り向き答える。

私の事、どう思っていますか?

心の中で呟き、真澄を見つめる。
「いえ、その・・・舞台、頑張ります。きっと、速水さんに喜んでもらう演技をします」
「・・・楽しみにしているよ」
そう言うと、真澄はマヤの前を後にした。





「北島の表情がぐっと、よくなったと思わないか?」
佐々上が呟く。
真澄は遠くでマヤの演技を見つめていた。
「あぁ。そうだな」
「・・・本物の恋でも見つけたのかもな」
チラリと真澄の方を見ながら口にする。
「・・さあな」
真澄はそう言い、稽古場を後にした。

マヤ・・・。
君はいつの間にあんな表情をするようになったんだ・・・。

「・・・女優・・・か」
口にし、稽古場の方を見つめる。

決めた・・・。
今度の舞台が終わったら、彼女に両手一杯の紫の薔薇を届けよう。
そして、愛を告白するんだ・・・。

俺が紫の薔薇の人だと知れば驚くかな・・・やっぱり。

真澄はそんな事を考えながら、ゆっくりと、歩き始めた。




THE END


【後書き】
これPCの中整理していたら、出てきました。
一体、いつ書いたのか・・・全く記憶がないです。
前半が”絆”と被っているので、恐らく下書きだったのかな・・・と思うんですけど・・・。
アップするべきかどうか迷いましたが、この作品こそゴミ箱にはちょうどいいかなっと思ってアップしました。
使いまわしですが・・・まぁ。ゴミはリサイクルしないと(笑)


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