ある日のアテネ座
AUTHOR Hikari




「やあ、どうです、稽古は順調ですか」
アテネ座のホールでミーティング中、入ってきた人影を見て居合わせた関係者の間に緊張が走った。
速水真澄が部下を引き連れて入ってきたのだった。
「はっ、恐れ入ります」
アテネ座の支配人が直立不動で答える。
視線をめぐらせた真澄の表情がわずかに緩んだ。
「青木君、真夏の夜の夢のライサンダ−も良かったよ。今回はどうだ?順調か?」
「はい、やりがいのある話でみんな張りきってます」
「そうか、それは良かった。楽しみにしてるよ、頑張ってくれたまえ」
真澄がアテネ座の支配人と話し始めると、真澄に付き従っていた男の一人が麗に近づいてきた。
「青木さんておっしゃるんですか。度胸がいいんですね。尊敬しちゃいました。あの速水社長に臆さず話ができるなんて。あ、私は社長秘書の高見と申します」
「話って、だって挨拶交わしただけじゃないですか」
「いやあそれがなかなか出来ないことですよ。何せ鬼社長ですからねー。私なんか今でも社長に話しかけられるとこちこちになってしまいますよ」
「…そうなんですか?確かに話し方はきついところはあるし、仕事は厳しいみたいですけど、でも別に恐い人っていう感じじゃないですよね?…笑い上戸だし」
高見がまじまじと麗を見つめる。
「えーと、あの、今お話になっているのはあの速水社長のことですよね?」
「ええ」
「…私は入社して5年、秘書室付きになって2年経ちますけど、社長の笑うところなんて見たことないですよ」
今度は麗がまじまじと相手の顔を見詰める番だった。
「…え?」
「いや、そりゃ営業スマイルは見ますよ。でもそういうときでも目は笑ってないし。声立てて笑うのとか聞いたことないですし」
驚いて麗は自分の記憶を探った。本当に同じ人物のことを話しているのだろうか?自分は確かにあの速水真澄が楽しそうに、あるいは面白そうに、あるいは優し気に笑うところを何度も見ている。
「今週は会長の用事で水城さんが時間を取られていて、私が社長のお供していることが多いんですけど胃が痛い毎日ですよ。たまには笑うような方だったらいいんですがね」
あきらめたようにこぼす高見に麗はいたずら心を起こした。
大都芸能の社員、それも社長の一番身近なところにいる秘書に対して、部外者がその社長の意外な一面を見せて驚かせるのも悪くないな、と。
「…賭けますか?」
え、と高見が怪訝そうな顔をする。
「速水社長が笑い上戸になるかどうかですよ」
「…へえ。面白そうですね。どんな風に?」
「速水社長が近々またここに来られる予定は?」
「えーと、金曜の夕方に劇場には一度立ち寄ると思いますが」
「分かりました。じゃあその時にホールに来ていただければ速水社長が笑い上戸になれるかどうか、判断してもらうとしましょう。私が負けたら招待券を、高見さんが負けたら初日に花輪を、というところでどうです」
「いいですが、笑い上戸かどうかの判定って難しいでしょう。何が基準ですか」
「いいですよ、高見さんのご判断に任せます。あなたが見て笑い上戸だと思えたら、ということで結構です」
「ほう、それはずいぶん自信がおありのようですね。賭けましょう」
そのとき、真澄の厳しい声がした。
「おい、高見!何してるんだ、行くぞ!」
「失礼しましたっ」
高見は慌てて真澄を追いながら、では金曜日に、と麗に囁いて出て行った。
(やれやれ、この社長が笑い上戸だって?笑い茸食わせたって無理に決まってら)
と思いながら。

「マヤ,マヤ、あんた今度の金曜って暇かい?」
アパートに戻った麗は尋ねた。
「うん?うん、来週顔合わせがあるまでは特に何にもないよ」
「じゃあさ、悪いんだけどアテネ座の方の準備手伝ってくれないかな?金曜の午後でいいんだけど、ちょっとその日人手が足りなくて」
「うん、いいよ」

金曜、予定通りアテネ座を訪れた真澄に付き従っている高見はどうなるのだろうと思っていた。
実際のところ真澄の笑い声を耳にすることがあるとは思わなかったのだが…秘書室のおしゃべりでその話題を出したところ、水城が意味ありげに「それは青木さんの勝ちだと思うわよ…まだ日帝劇場の練習も始まってないはずだし」と言ったのが気になっていた。第一秘書として誰よりも真澄の傍にいる時間が長く、しかも観察眼の鋭さで定評のある水城がそういうのである。
しかし、なぜ日帝劇場の練習が真澄の機嫌に関係あるのだ?
「よし、用事は済んだ。あとは水城君がホールの視察を薦めていたな。ちょっと覗いて行こう。すぐ出ないとこの後の会合に間に合わんが」
真澄がいらいらとつぶやいた。この日も朝から晩まで予定が詰まっており、真澄はかなり不機嫌モードになっていた。高見のみならず、この日同行していた製作部長すらも話しかけるのをためらうほど。
だが。
ホール後方の扉を開けて中に踏み込んだ真澄の表情が突然和らいだのを見て、高見は飛び上がるほど驚いた。
ふふっ、とかって見たこともないような笑顔を浮かべ、舞台袖の方に近づいて行く。
高見は何事が起こったのかと慌てて後を追った。
舞台袖では麗と、それから一人の少女が大道具をいじっている最中だった。
麗が近づいてくる高見に気づき、顔を上げると目で笑った。(見ててごらん)と言うように。
「あちゃあ、なんか傾いちゃった」
少女が素っ頓狂な声をあげる。
どうやら大道具の作成がうまくいかないらしい。
「ははは、君はずいぶん器用だな。それを傾くように作るのはまっすぐ作るより数倍難しいと思うがね」
真澄が少女の傍で足を止めると話し掛けた。
(社長が笑った!)
唖然として高見も立ち止まる。
少女が顔を上げた。
「あっ、速水さん…」
(おや、北島マヤじゃないか)
高見は意外に思う。北島マヤといえば、一度は大都芸能に所属しておきながらスキャンダルを起こし芸能界を追放されたはずだ。まあ実はあの事件は陰謀だったらしいということは自然と人の口から口へと伝わっており、世間で言われるのとは違った事情だったらしいというのは業界では常識になっているが、それにしても大都との関係は切れているはずだ。
「二人の王女のオーディションは落ちたのか?アテネ座の大道具係に就職するつもりか」
「おあいにくさま、オーディションは受かりましたっ!この前そう言ったでしょ?速水さん記憶力悪いんじゃないですか。あたし、あなたの妨害になんか負けないんだから!ここは今日たまたま手伝っているだけですっ」
まるで喧嘩腰のマヤの口調に、速水真澄にこんな口を利くとは、と高見はひやひやするが真澄は別段気を悪くした風でもない。
「それはおめでとう。確かにきみを大道具係に雇うところはないだろうな。釘一本打つのにずいぶん苦労しているみたいじゃないか」
くつくつと笑いながら真澄が言う。
「あなたには関係ないでしょ!」
むすっとしながら曲がって打った釘を懸命に引き抜こうとするがなかなか抜けない。
「どれ、貸してみろ」
真澄はかがみこむとすばやくマヤの手からくぎ抜きを奪いとり、簡単に釘を引きぬいた。
そのまま近くに転がっていたかなづちに手を伸ばし、曲がった釘をまっすぐにすると鮮やかな手つきで木材を打ちつける。
「きみを見ているとどんなとんでもなく難しい作業なのかと思ったが」
からかうようにマヤに話しかける。
「…速水さん、社長失業したら大道具係に転職するつもりですか」
負け惜しみのようにマヤが言うと真澄はついに大笑いし始めた。
「あっはっはっはっは。それはいい。日帝劇場で大道具係を募集していたら声をかけてくれ」
「きっとオーディションありますよ」
「ははは、じゃあこれが第一次審査だ」
真澄はそう言いながら機嫌良さそうに手早く大工仕事を進めて行く。その間もマヤをからかいながら笑いを絶やさない。
高見に負けず劣らず唖然としていた製作部長が、社長、そろそろお時間が、と声をかけたのはずいぶんたってからだった。
「ああ、そんな時間か」
そんな時間も何も、最初っから「すぐ出ないと会合に間に合わない」予定だったじゃないか、と高見は内心思うが、もちろんそんなことを言えるわけがない。
「結局おれが作ったんじゃないか?バイト代が出たらご馳走してもらわないとな」
真澄のセリフに「誰も手伝ってくださいなんて頼んでないじゃないですか」とふくれっつらで答えたマヤが突然、何かを思いついたように表情を変えた。
にこっと速水に笑いかける。
「そうですね、すごく手伝っていただいて…。自販のお茶ぐらいならご馳走しますけど、それじゃ駄目ですか?」
真澄が一瞬驚き、それから実に嬉しそうな顔をした。
「おやおや、君のお誘いとは珍しい…というより初めてだな。これを逃す手はないだろう。喜んでご馳走になるよ」
真澄は時間を気にする製作部長に目をやると、高見に「連絡を入れておけ」と命じてマヤとホール後方のロビーへと歩いていった。
高見としては別についていかなくても良かったのだが、こんな見物を逃す手はない、と二人についていった。ショックを受けすぎて思考力は蒸発しているが、それでもこれを後で秘書室の耳目をさらう話題として提供しようと、様子伺いに余念がない。
「速水さん、何がいいですか?速水さんはコーヒー派なのかな。あ、でもお茶がいいと思いますよ」
マヤの声に、おそらく缶のお茶など普段飲んだこともないであろう真澄がじゃあお茶を頼む、と答える。
はい、どうぞ、とマヤが真澄に缶を渡し、自分の缶も開けると一口飲んで真澄を見上げた。
「どうした?…何か言いたいことがあるなら言ったらどうだ?」
「いいえ、別に。…ただ、一休憩すると、お腹空きますよねー」
「ふーん?」
マヤが言いたいことに想像がついたのか、真澄がにやにやとする。
「えーと、それにあの、お茶って、甘いものとか欲しくなったりしません?」
「ははは、分かった分かった。何がいいんだ?ここもタイヤキがうまいのか?」
「いえ、あのう、出たところに大判焼きが…」
「くくっ、なるほど。…おい、高見!」
急に呼ばれて高見はびっくりして飛んでいった。
「はっ」
真澄は内ボケットから財布を取り出すと高見に渡した。
「出たところで大判焼きを売っているらしい。中にいる連中にも行き渡るように、適当に買ってきてくれ」
「かしこまりました」
高見の返事にかぶせてマヤが歓声をあげる。
「やったあっ!…知ってます?こういうの、えびタイっていうんですよ」
「大判焼きが鯛かい?安上がりな女優で助かるよ」
高見が大判焼きを手に戻ってくると真澄はそれをマヤに渡して腰を上げた。
「じゃあそろそろ退散するか。ちびちゃん、本番中に崩れてこないように作ってくれよ」
まだ笑いを残しながらマヤに言う。
マヤは大判焼きを手にして嬉しそうに笑い、真澄のセリフにむすっとした顔をし、それから表情を決めかねた様子で返事をした。
「あの、手伝ってくださって、大判焼きもありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして。じゃあな」
そう言ってマヤを見た真澄の表情に高見はまたびっくりする。鬼といわれる真澄とは信じがたいほどに優しげな表情で、柔らかい微笑を浮かべているではないか!
驚きすぎて空白になった頭で、ちょうど出てきた麗と視線を交わす。
麗が高見を見て笑いかけてきた。(ね、言ったとおりだろ)と。
「私の完敗のようです…豪勢な花輪を贈りますよ」
高見はそう小声でいうと真澄を追って小走りになった。
「社長、缶を」
追い付いた高見は空き缶を捨てようと片手を差し出した。
だが真澄はいいんだ、と答えて車に乗り込んだ。空き缶を大事そうに手にしたまま。

−終−



【Catの一言】
きゃゃゃ!!Hikariさん素敵なお話です♪♪♪もう、顔の筋肉緩みっぱなしで読ませて頂きました♪♪
こういうほのぼのとした速水さんとマヤちゃん大好きです♪♪♪次回作もほのぼの系期待しております(←図々しくリクエスト 笑)


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