First Anniversary of the Committee of Asian Theaters
AUTHOR Hikari



今日はツイてる。
 その日、年始の挨拶回りで日舞のある家元の家を尋ねた真澄は、玄関先で押し問答する人影を見てそう思った。
「どうか、どうかお願いします。私、どうしても日舞を習いたいんです」
「ここは習いたいといって突然習いに来られるようなところではないんですよ。しかるべき方の紹介でもないことには」
「紹介してもらえるような知り合いはないんです。でも、どうしても教えていただきたくて…。2ヶ月だけでいいんです。どうか教えてください」
「ですからそう言われても…」
 重ねて断りの言葉を述べようとした内弟子のセリフをその場に現れた真澄が遮った。
「おやおやチビちゃん、奇遇だな。どうしたんだ?」
 その声に内弟子とマヤが真澄を見た。内弟子がマヤと真澄を見比べる。
「速水社長。この方とお知り合いなんですか?」
「ええ。…チビちゃん、日舞習いたいのか?」
「はい」
 マヤは短く答えた後、ためらった。
 おそらく、真澄に頼めば紹介してくれるかもしれないという気持ちと、真澄に頼むぐらいなら埒のあかない押し問答をしている方がマシという気持ちとの間で揺れ動いているのだろう。
 真澄はそれを知りつつ、助け船を出さずに待った。
 2ヶ月後に発表される芸術祭で賞を取れば紅天女への道が開ける。それを見据えて和服での立ち居振舞いや表現力を磨きたいと日舞を習おうと思い立ったのであろうマヤが、真澄に頼むぐらいなら習えない方がマシ、という決断を下すとは思えなかったからだ。
 読みは当たり、やがてマヤがおずおずと口を開いた。
「あのう、速水さん…。速水さんはそのう、ここの先生とお知り合いなんですか…?」
「ああ。オンディーヌでもお世話になってるしな」
「あの…もしご迷惑でなければ…先生に紹介していただけないでしょうか?」
 ためらいがちに、それでも真澄に紹介を依頼したマヤのセリフに真澄の顔がほころんだ。
「そうだな。紹介してもいいが、交換条件だぞ」
 真澄を見上げるマヤに真澄は言葉を継いだ。
「明日の夜一晩、おれに付き合うなら紹介してやろう」
 口にしてから「一晩付き合う」などといって誤解されなかったかと要らぬ心配をし、慌てて「いや、明日の晩、パーティーがあるんだが、それに一緒に出席してくれないか」と言おうとしたのだが、マヤは真澄がそんな説明を加える前に頷いた。
「はい。わかりました」
(やれやれ、この子は「一晩おれに付き合え」なんて言われて何も勘ぐらないのかね)
 真澄は複雑な心境だった。
(それともまさか、そういう意味でもいいと思ったとか…?)
 自分の心に浮かんだ妄想を慌てて打ち消す。
「よし、おいで。紹介してあげよう」

 真澄の口利きを得てしまえば日舞のレッスンの話は簡単にまとまった。


 真澄が翌日の晩のパーティーに付き合ってくれ、と言うとマヤは意外そうな顔をした。
「どうしてです?つまり、そういうのって紫織さんと行くものじゃないんですか?」
「まあ政財界の関係者のパーティーだったらそうなんだが、今回のはどちらかというと芸能関係者が多い集まりだからね」
 それにしても大都芸能の社長である。芸能関係者を同行したければよりどりみどりのはずだ。それも真澄の側から交換条件などと持ち出さなくても、頼んででも一緒に行きたいと思っている女優や歌手は数え切れない。
「えーと、でもあたしだって別に芸能関係者に知り合いとかいないし…別にあたしを連れて行っても役に立たないと思いますけど…」
 マヤの言葉に真澄はため息をついた。
「何を言ってるんだ。君は今話題の人なんだぞ。忘れられた荒野は評判高かったからな。アカデミー賞でも候補に上ってることだし。君には自覚が欠け過ぎじゃないか。大体、メリットがなければおれが君を誘うはずがないだろう」
 実際のところ真澄がマヤを連れて行きたいのはアカデミー賞のためである。紅天女のかかったこの賞を真澄はなんとしてもマヤに取らせてやりたかった。しかし、そのダントツの実力で受賞の可能性は高いものの、やはり何ら後ろ盾を持たないマヤは、賞という力関係が大きくものをいう場面ではどうしても不利になってしまう。特に大沢事務所がメンツもあって、なりふり構わずイサドラ!と円城寺まどかの賞獲得に向けて動いているとなってはなおさらだった。
 もちろん真澄は立場上マヤのために表立って動くことはできなかったが、大都芸能は今回演劇部門では大きな賞にノミネートされてはいないこともあり、大都芸能がマヤと良好な関係を築きたいと思っている、ということを見せておくのは大きな意義があることであった。
 どうやってマヤを連れ出そうかと考えていた真澄にとっては今日の邂逅は渡りに船だったわけだ。
「まあ君がどうしてもイヤだというなら仕方ないが。その代わり日舞のレッスンはあきらめるんだな」
 真澄の心にもない脅しに、しかしマヤは素早く反応した。
「いいえ!いやなんかじゃないです!ぜひお供させてください!」
 マヤの返事に真澄は笑みをこぼしながらも、その笑みはどちらかといえば苦笑に近かったかもしれない。
 真澄は普段自分が俗にいう「もてる」ことにさほど関心はなかったが、それはある意味、もてるのが当然、という状況だったための無関心であった。それだけに、マヤのように自分とパーティーに、という誘いには魅力を感じず日舞のレッスンのために同行を承諾する、という状況はなかなか納得しがたいものがある。
「言ったようにこれは交換条件なんだからな。おれの指示には従ってもらうぞ。第1に、明日は3時までに会社の方に来てくれ。君の支度は社の方で出来るようにしておく。第2に、パーティーでは普段よりおれに愛想よくすること。苦虫を噛み潰したような顔でパーティーに出られちゃかなわん。…いいな?」
「はい。わかりました」
「よし、商談成立だな」


 翌日、約束通り大都芸能を訪れ、準備をしたマヤを連れて水城は社長室を開けた。
「真澄様、そろそろお時間ですわ。マヤちゃんも準備できてますわよ」 
 真澄もすでに準備を済ませていた。普段パーティーはぎりぎりになってからしぶしぶ準備を始め仏頂面で出て行くのを知っている水城には、そんなことからもいかに真澄がマヤを伴ってのパーティーを楽しみにしているかが分かり笑みがこぼれる。
 しかし、マヤから目が離せないらしい真澄の様子に、(こんな調子でパーティーに行って大丈夫かしら)という心配をしたのも事実であった。


 パーティーでの二人の回りには常に人だかりができた。
 北島マヤ。
 その秋の演劇部門の一番の話題はなんといってもやはり『忘れられた荒野』であった。
 鬼才黒沼の5年ぶりの舞台ということでの評判も高かったが、やはりなんといってもその主演女優として難しい役柄を見事にこなしたマヤへの評価が高い。
 それにTVや映画といった、知名度を上げる媒体にほとんど出たことがないために一般の知名度ではまだまだであったが、伝説となっている演劇大会に始まり、紅天女候補、姫川亜弓との関係、アカデミー助演女優賞の最年少受賞等、実はマヤは業界では有名な存在であった。しかもマヤ自身は弱小劇団に半所属というような極めて不安定な立場でもあり、もともと華やかな場や自分の売りこみは苦手、また大都時代のトラブルもあってあまり表舞台に出たことがない(北島マヤの名前を知らない関係者はいなくとも、素のマヤを見分けられない人間は多かった)。
 それやこれやでマヤがこのようなパーティーに出ていると興味を持つ人間が次から次へと集まってくる。
(さすがマヤだな)
 真澄は誇らしい気分を抑えきれない。
 しかし、二人の回りに集まってくる人々は必ずしもマヤだけを目当てに集まってくる人ばかりではなかった。
 真澄自身は普段通りに振舞っているつもりだったのだろう…しかし、普段の真澄とは別人のようであるのは誰の目にも明らかだった.。
 普段の真澄は、切れ者との評判高く、やり手で有能そのものである。だが、反面とっつきにくく、笑顔を浮かべているときでさえ冷酷な印象を人に与える。人というのは、「出来る」人間を尊敬はするかもしれないが、冷たい人間の回りに自分から近づこうとはなかなか思わない。しかしその日の真澄は心から笑い、マヤと楽しそうに会話を交わし、人間味のあるところを見せていた。
 実のところ、ビジネスの切れ味という意味でいえば真澄は普段に比べて集中力を欠いていた。マヤの存在に気を取られるあまりとんちんかんな返答をしたり、マヤの方ばかり見ていて人とぶつかったりしたりと、いつになくポカを連発していたのだ。
 水城の心配はその意味では的中したと言える。
 だが、人の心とは不思議なものだ。普段ほころびがないだけに、たまに見せたそういう様子が却って回りの人間に受けた。
「へえっ、あの速水真澄があんな顔をするんだねえ」
「ははは、真澄君もそんな失敗をするんだな」
「おいおい、あの鬼社長が女優にやりこめられてあたふたしてるぞ」
などというざわめきがそこここで聞かれ、人々がそんな真澄の回りにもよってきていたのだ。

  それに真澄が連れの女優のために立食の皿を持ってやっている光景など、そうそう見られるものではない。
 立食に慣れている人間は、グラスを皿の上に乗せ、片手でグラスと皿を持つ。こうすることによって、片手はフォークや箸を持つことができ、また名刺交換ぐらいは出来る。
 しかしこれはマヤのような慣れていない人間には難しい。とはいえ皿とグラスを両手で持っては食べられない。そこで慣れない人間はテーブルを離れられないか食べ物を我慢してグラスだけを手にするか、というはめになりがちだが、様々な人々の間を渡り歩く真澄と一緒ではテーブルのそばにずっといるわけにもいかず、といって大食漢のマヤがドリンクだけで我慢できるはずもない。必然的に、マヤにはグラスだけを持たせ、真澄が皿を持ってやっていたのだ。
 そして、誰が見ても明らかに、真澄はそんなふうに世話を焼くことを楽しんでいた。「あれも食べてみたいです」といわれれば取ってやり、「この黒いつぶつぶおいしいですねー」などと言われては面白そうに笑いながら。
 
 真澄が柔らかい気持ちになれば相手にも伝わる。パーティーの席でのわずかなやりとりだというのに、この日いくつかの懸案事項が簡単に解決してしまい、真澄を驚かせた。
 真澄自身は自分の様子が人を引き寄せていることには気づかず、(マヤといると仕事までついてるなあ)などと能天気に思っていたが。

「しかし君は本当によく食べるな」
 食欲旺盛なマヤを見ながら真澄がおかしそうに声をあげた。
「そうですか?おいしいんですもん」
 マヤはあっけらかんとしたものである。
「それにずいぶんご馳走ですよねー。一体何のパーティーなんですか?」
 マヤの質問に真澄は笑い出した。
「なんだ、今ごろそんなこと聞くのか?何のパーティーかも知らずに出席するとはいい度胸だ」
 そう言いながらも説明してやる。
「去年、優れた演劇やいろんな伝統芸能をアジアの様々な国々で相互に演じて、劇場に通う楽しみを増やそう、という考えから各国の劇場関係者を中心にCommittee of Asian Theaters、まあ略してCATと呼んでいるが、そういう団体が出来てね。今日はその一周年の祝賀会というわけだ」
「ふーん…?そういえば外国の人、多いですよね」
 演劇が興行でありビジネスであるということが今一つ判りかねるマヤにはイメージが沸かないのか、幾分あやふやな表情を見せた。
 だが、その様子を見た真澄が
「だからずいぶんいろいろな国の料理が出てるだろ」
とマヤが理解できる方向で話を振ってやると、にこっとして口を開いた。
「ねえ、あれもおいしそうですね」
 近くのテーブルに出された、まだ湯気を上げているえびシューマイに目を奪われたのだ。
 真澄がやれやれ、と呆れたふうを装いながらも取ってやろうとテーブルに近づく。
「一体君の小さい体のどこにそんなに入るんだ?君の内臓は全部胃袋なんじゃないか?」
「失礼ですね、女優は体力仕事なんです。社長室でふんぞりかえっていればいいどっかの社長さんとは運動量が違います」
「何を言ってるんだ。社長業はハードワークなんだぞ。君のロードワーク分ぐらいはおれだって走り回ってるし、君の発声練習分ぐらいは大声はりあげてるさ」
 それを聞いてマヤはくすくすと笑った。
「確かに速水さん、いっつも怒鳴ってますよね」
 他愛のない会話を交わしながら、真澄は紫織を思い浮かべた。紫織であれば、もともと小食でもあり、また普段から贅沢なものを食べつけているためもあり、立食パーティーでおいしいおいしいと言いながらばくばくと食べる等ということは絶対にない。何のパーティーかも知らずに出席するどころかきちんとそれなりの下調べもしてくる。真澄の仕事に言及するときも、真澄を立てる気遣いに満ちたセリフばかりだ。立ち居振舞いといい、何をとっても、紫織は非のうちどころのない令嬢である。
 だが、紫織との会話を、あるいは紫織と一緒に時間を過ごすことを心から楽しいと思ったことはなかった。マヤとであれば何を言われても楽しいのに。
 やがて音楽が始まり、マヤと踊ったときにも真澄は同じように感じた。
 紫織と踊ったことも何度かある。しかし、別に何ら感情は揺さぶられなかった。紫織が自分の一挙手一投足に敏感に反応し、自分に惹かれてくるのをまるで他人事のように観察し、どう言えば彼女がどう反応するのか、を計算して振舞っているだけで。
 それがどうだ。マヤに触れているだけでまるで少年のようにどきどきする。腕の中にいる彼女の華奢な体を意識してやまない。もしこのまま抱きしめたら彼女はどんな表情をするのだろうと思うと、気もそぞろになる。その髪に顔をうずめたくなる。その首筋に唇を寄せてみたくなる。なんとか平静な振りをし続けるにはありったけの自制心を総動員する必要があり、必死に自分を抑えつけようとするあまり、苦しいほどであった。
 それでもマヤに触れられることなどそうそうないと思うと切り上げられず、音楽が終わってしまうのをこれほど惜しいと思ったこともなかった。
 おれもずいぶんこの少女にほれ込んだものだ、と真澄は内心自嘲する。
「おや、新しい種類のケーキが出てきたみたいだぞ。食べるか?」
「はいっ、食べます!2つ取ってくださいね、2つ!」
 マヤの弾んだ声を聞きながら、真澄はこのひとときを心ゆくまで楽しもうと紫織のことを意識から占めだした。比べることが間違っているのだ。紫織はその背後に持っているものを含めてビジネスの一環であり、マヤは彼の長年の想い人なのだから。

「おやおや、これは珍しい組み合わせだな」
 芸術祭の主催者でもある藤美食品の藤美社長が二人に話しかけてきた。こんなことにも真澄としては意外な念を抱く。勿論知り合いでもあり、普段でも顔を合わせれば挨拶は交わすが、真澄が覚えている限り、藤美の方からにこやかに近づいてくる、などということはかってなかったからだ。
「君達は犬猿の仲だって聞いていたんだが、そうでもなさそうだね」
 藤美の言葉に、マヤが即座に反論した。
「とんでもない!私達すっごーく仲悪いです!」
 マヤの間髪を入れない力のこもったセリフに藤美は呆気にとられ、真澄は苦笑する。
「ほう?じゃあどうして今日は一緒に来てるのかね?」
 面白そうに藤美が尋ねた。
「えーと、日舞習いたかったんですけど紹介者がいなくて、仕方なく速水さんにお願いしたんです。そしたら速水さんが今日のパーティーに一緒に出席しろっておっしゃるので交換条件で」
「チビちゃん、そんなに身も蓋もないこと言わなくてもいいだろう。君も少しは社交辞令を覚えたらどうなんだ?」
 真澄がおいおい、という表情で口を挟む。
「だって、速水さんと仲いいなんて思われたくありませんから」
 きっぱりと言い放ったマヤは更に言葉を継いだ。
「それから、その『チビちゃん』ていうの、やめてくださいってば。私にはちゃんと北島マヤっていう名前があります!それに私、156cmあるんですよ。大きくはないかもしれないけど、チビチビって言われるほど小さくもないですっ」
「そういわれても、おれの視線はかなり下に向けないと君を発見できないからなあ」
「それは速水さんが大きいからでしょ!大きければいいってもんじゃないんですからね。う、うどの大木って言葉知ってます?」
 含み笑いしながら二人のやりとりを見守っていた藤美が、ついに声を立てて笑い出した。
「はっはっは。さすが狼少女は恐いもの知らずだな。なかなか速水君に『うどの大木』と言える人間はいないんじゃないか」
 真澄も苦笑いしながら藤美に答えた。
「私は彼女にはやられっぱなしですよ。ところで、犬猿の仲と言われるのは心外ですね。この通り彼女にはひどい言われようですが、一方的に嫌われているだけで、私の方は昔から彼女に…彼女の才能に惚れ込んでますからね」
 ほう、という表情を藤美は見せた。尋ねかけるように真澄の目を見、真澄はそれに対して頷いてみせる。二人の間でははっきりと、大都芸能は北島マヤの芸術祭の受賞を応援する、というメッセージが交わされた。
 が。当のマヤは呑気なものだった。
「ふーん。そういうのが『社交辞令』なんですか」
と。

 とはいえ、マヤはマヤなりに一生懸命約束を守ろうとしてそのパーティーでは常に真澄の傍らにいた。
 真澄は引き続き藤美と企業買収の話をしていた。
 藤美グループの1つの売却の話が進んでおり、藤美と真澄はこの数ヶ月、熾烈な交渉を続けていたのだ。
「いえ、確かに藤旅観光には興味はありますが。しかしあそこの財務諸表を見る限り、売上の3000万はともかくとして利益が300万しか出ていないでしょう。最低でも600万の利益はでないと割があいませんが変動費が1800万では変動比率が60パーセント、限界利益率は40%だから、売上はあと400万アップですか、それだけの根拠があれば考えますがね」
「それについてはランクアップして差別化を図った商品で対応していくつもりだが、現在マーケティングをしている中でも対象顧客層の47.8パーセントが平均して32700円程度までの増加について肯定的な意見を述べているんだ。これを単純に計算しても売上ベースで500万弱、…おや、これだけで君の言う400万のハードルを越えるじゃないか。」
「え?400万?600万でしょう、600万の利益を出すんですから」
「君、今400万アップって言っただろう。急に発言を翻されても困るなあ」
「お言葉ですが、400万なんて言いませんよ。計算式で逆算すれば一目瞭然じゃないですか」
「いや、言った」
 二人のやりとりが本論である数字から離れ、言った言わないという水掛け論的な色合いをおびはじめてきたときだった。
「売上はあと400万アップですか、って速水さん言いましたよ」
 マヤの突然の声に二人はびっくりしてマヤの顔を見つめた。
 マヤが慌てる。
「あ、すみません、口を挟んで。あの、速水さんそう言ったのでと思ったんですけどあのごめんなさい、黙ってますからお話の続きなさってください」
 しどろもどろに言い訳をしながら後ずさる。
「おいおい、おれが一体何をどう言ったっていうんだ」
『財務諸表』や『限界利益』などマヤの世界にはまったく無縁なはずである。それだけに真澄はマヤが会話を聞いていたことが意外だったので反問しただけであったが、マヤは真澄のいうことを額面通りに取ったらしい。
「何をどうって…こうですよ」
 そしてその瞬間、そこにもう一人の速水真澄が出現した。
「『いえ、確かに藤旅観光には興味はありますが。しかしあそこの財務諸表を見る限り、売上の3000万はともかくとして利益が300万しか出ていないでしょう。最低でも600万の利益はでないと割があいませんが変動費が1800万では変動比率が60パーセント、限界利益率は40%だから、売上はあと400万アップですか、それだけの根拠があれば考えますがね』」
 一言一句正確に、間やアクセントやイントネーションを含めマヤは完全に再現してみせた。しかも動き付きで。マヤの何も持っていない手にタバコどころか立ち上る煙まで見えるような気がするほどに。
 マヤと真澄では、そもそも体の作りからして違う。身長や体重、体型、声…。それにもかかわらず、そこにいたのは誰がみても見間違いなく、真澄であった。
 藤美と真澄は呆気に取られてマヤを見つめた。
「ね?」
 再現し終わったマヤが真澄に無邪気に尋ねる。
 その声に我に返った藤美が、咳払いをすると言葉を発した。
「…あー、それに対して私がなんと言ったか覚えているかな?」
「え、はい」
「それも今みたいに繰り返してみてもらえるかな?」
 すると今度はその場にもう一人の藤美が現れた。
「『それについてはランクアップして差別化を図った商品で対応していくつもりだが、現在マーケティングをしている中でも対象顧客層の47.8パーセントが平均して32700円程度までの増加について肯定的な意見を述べているんだ。これを単純に計算しても売上ベースで500万弱、…おや、これだけで君の言う400万のハードルを越えるじゃないか。』」
 茨城出身の藤美にわずかに残るアクセントや指折り数える仕草までの正確な再現だった。
「…これは…驚いたな…。てっきり真澄君と打ち合わせての隠し芸かと思ったが、私のセリフまで繰り返せるというのはとても事前の準備があったとは思えないし…。きみ、きみは人の会話を何でも覚えられるのかね?」
 400万も600万の意識から飛んでしまったらしい。
「ええ、舞台とか見るのと同じですから」
 一度舞台を見ればそのすべてを丸暗記してしまうマヤにとっては何らかわるところがないのだろう。
「そういえば『イサドラ!』の時も一度見ただけで舞台を覚えられるって言ってたね?…まさかそんなことが本当に出来るとはとても思えなかったが」
 藤美が信じ難いという表情でつぶやくと、真澄がほとんど自慢気に言葉を重ねた。
「本当ですよ。私は彼女が中学生の頃、1度だけ見た『椿姫』の3時間30分を完全に覚えていたのを見たことがありますからね」
「えっ!」
 藤美が息を呑む。
「本当かい?」
「え、はい。だって私女優ですから、当然です」
 マヤにとってその記憶力は意識してあるいは努力して得たものではない。当然に備わっているものだった。それだけに逆にそれがどれほど際立った能力なのかということに対する自覚がなかった。
 その後も藤美は嬉々としてマヤに話しかけ、真澄が話を引き戻そうとすると、
「ああ、今の話は君の条件で手を打とう。いや、こんな驚異を見せ付けられては細かい数字上のことなど大したことじゃないという気がしてきたよ」
とあっさり片付けてしまった。数ヶ月の交渉よりもマヤの隠し芸の方が効き目があったらしい。
 細かい数字、とはいっても買収価格にすれば9桁からの数字である。


「今日は助かったよ、チビちゃん。ありがとう」
 会場を後にして車に乗り込むと真澄はマヤに話しかけた。
 その日のパーティー中に、藤美とのビジネスのみならずCAT関係のプロジェクトを含め真澄はかなりの成果を手に入れていた。また、本人は意識していなかったがこの日真澄の好感度は出席者の間で急上昇していた。
(マヤの受賞に力になろうと思ったのに、おれが助けられたみたいだな)
と真澄は思った。
 もちろん、真澄はマヤの受賞への根回しにも余念はなかった。そもそも彼の目論見通り、真澄がマヤを伴ってこの時期に芸能関係者の多いこのパーティーに出席すること自体からして意味のあることでもあったのだから。
「どうだチビちゃん、みんなが『忘れられた荒野』に興味を持ってるのが実感できたか?」
 真澄が尋ねた。確かにこの秋一番の話題作品ということもあり、パーティーではかなりの人間がマヤに忘れられた荒野の話題を出して話しかけてきていたのだ。
「そうですね。ずいぶんたくさんの方が見てくださって」
 しかしマヤはふと浮かない顔をした。
「どうした?」
「…紫のバラの人」
 マヤはうつむいてつぶやいた。
「え?」
「紫のバラの人、初日しか時間が取れないって聞いてたのに、初日台風になっちゃって。誰よりも一番紫のバラの人に見て欲しかったのに」
「…大丈夫、きっと見に来てたよ」
 真澄の言葉にマヤがすがりつくような視線を向けた。
「本当にそう思います?」
「ああ。その人は君のファンなんだろ。ファンならどんなことをしても君の舞台は見に来るさ」
「そうだと嬉しいんですけど…。あたしには見ていただけたのかどうか分からないし」
 マヤが寂しそうにつぶやいた。
「どうすれば見ていたって分かるんだ?」
「そうですね。…たとえば舞台の感想が書いてあるメッセージカードでも下さらないかなあ。ただ『おめでとう』とか『頑張りましたね』とかじゃなくって、『どこどこのシーンが良かった』とかみたいな。そうすれば分かるのに…」
「ああ、なるほど」 
 マヤのセリフを聞き、真澄は次に花束を贈るときにはメッセージカードには舞台を見たことが分かるような感想を添えてやろう、と心に決めた。
(そうだな…『青いスカーフを握り締めながら人間に目覚めていく場面は感動的でした』…よし、こんなところだろう)
 マヤが「わあっ、紫のバラの人、あたしの舞台見てくださったんだわ!」と歓声を上げる様子を想像して、真澄は口元をほころばせた。

 


【Catの一言】
Hikariさん、一周年記念に素敵なお話ありがとうございました♪まだ紫の薔薇の人が真澄様だって気づいていない頃のマヤちゃんと真澄様の関係がとってもいいです♪
Committee of Asian Theaters=CAT真澄様の口からこの言葉が聞けて幸せでございました(笑)
Hikariさんのお話に出てくる真澄様とマヤちゃんとっても自然なカンジで好きです♪

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