Les Miserables
AUTHOR Hikari




 遅い初恋だったけど真剣だった。夢中で恋い焦がれて、そしてその人と結婚することが出来た。結婚して3年がたつけど、恋心は衰えることを知らない。
 そんな状況は普通、「幸せ」なのかもしれない。
 …ただ、その最愛の夫が愛しているのが別の女でさえなければ。

「今日は6時に迎えに来ます。用意をしておいてください」
 夫が妻に言うのに他人行儀な言葉遣いに冷たい声。そんな風に言われるたびに私の心は傷つくのに、それでもそんな口調でも、話をしたいと思う自分がいる。
「今日は映画祭ですわね?」
 本当は一番触れたくない話題だけど、真澄様とお話できるならとこの話題を口にしてしまう。
「そうです。授賞式とパーティーです」
 その授賞式で受賞するのはあの女なのだ。北島マヤ。紅天女で一躍有名になった彼女はこの3年間舞台に映画にテレビにと引っ張りだこだ。今日は今年の日本映画の各部門の授賞式であの女が主演女優賞をとることとあの女が出演した映画が最優秀作品賞をとることが決まっていた。
 あの女が栄冠に輝くパーティーに出席して祝う振りをする。本当は唾を吐きかけてナイフを刺してやりたいぐらいなのに。真澄様を奪ったにくい女。それでも私は今晩も笑顔をはりつけてパーティーに出席する。真澄様といたいがためだけに。真澄様はほとんど家にもお帰りにならないけれど、少なくとも公の場では尊重する、という約束だけは未だに守ってくださる。たとえ、本当は真澄様は私なんかとは行きたくないのだ、ということが分かっていてさえも…私は真澄様と一緒に出かけられるチャンスを逃したくない。

 パーティー会場には7時前に着いた。授賞式の主催側に携わっているため、ただの参加者よりも早く会場に行っていなくてはならない。
 会場に着いたときから、真澄様の視線は隣にいる私ではなく、別の人間を探していた。
 会場で打ち合わせをしながらも、人が入ってくると素早く視線をめぐらせてチェックしている。
 誰を探しているのかは勿論分かっている。
 あの女は、7時過ぎに入ってきた。今回の映画で監督を務めた姫川監督と、その家族の歌子さん、亜弓さんと一緒だ。薄い紫のドレスを着て、髪に紫のバラを編みこんでいる。あの女と真澄様にとって紫のバラがどんな意味を持っているのか知ってしまっているだけに腹が立つ。それに、あんな平凡そうに見える女なのに、ドレスアップしているとそれなりに女優らしく見えるのにも腹が立つ。
 あの女の姿を確認すると真澄様の口元に微笑が浮かんだ。
 あの女も、視線を感じたかのように、ふっと振りかえると真澄様を見た。その口元にも一瞬微笑が浮かび、それから私を見て慌てて目をそらした。
 そう、一応自分がしているのが、目をそらすようなことだという自覚はあるわけね。
 結婚直前になって真澄様に婚約解消を切り出されたときには目の前が真っ暗になる思いだった。それはあの女のせいだった。だからその頃から、あの女が真澄様に手を出しているのを知ってはいた。だけど、どうしても真澄様と結婚したくておじい様に泣きついた。おじい様は真澄様と話をしてくださった。おじい様と真澄様の間でどんな話がされたのか、具体的なことは知らない。でもそれで真澄様は結婚する気になってくださった。いくら私だって、おじい様との話合いで、真澄様が急に私のことを好きになってくださったのだとは思わない。多分、何らかのお仕事の取引があったのだと思う。でも、そういう実家がついているということ、それだって私の一部だもの。生まれや育ちがその人の本質と関係ない、みたいなことを言う人もいるけど、環境だってその人を作る。生まれや育ちや家柄や、そういうものだってその人の一部なのよ。
 真澄様が必要としているのは、私というよりも私の実家とのつながりなのだと思う。それでも良かった。もしかしたらそういうつながりこそが長い目でみたら強いのかもしれないもの。女優とのつきあいなんてほんの気の迷い。我慢して毅然と振舞っていれば、きっといずれ遊び飽きて私のところに戻ってきてくださるはすだわ。
 そう思って3年が経つ。


 相変わらずパーティーって苦手だなあ。いつになっても自分が場違いみたいな気がする。
 今日は姫川監督がエスコートしてくれた。
 亜弓さんやお母さんの歌子さんとも仲良くしてもらってるけど、今回はお父さんまで含めてで、いい感じ。私、家族がいないせいか、こういう雰囲気弱いのよね。あこがれちゃう。
「なんかこういうの、いいわね。同い歳だけどマヤさんて妹みたい」
 亜弓さんが楽しそうに話し掛けてくる。
「うん。ほんと亜弓さんが同い歳って信じられないよね。いろんなこと知ってるし、お姉さんみたい。…亜弓さんみたいなお姉さん、欲しかったなあ」
 思ったことを言っただけなんだけど亜弓さんが赤くなった。
「へ、変なこと言うのね。あなたが妹だったらからかっていじめて、うんとおもちゃにしてやるから」
 ふと視線を感じた。
 あの人だ。
 その方向に目をやるとやっぱりそうだった。速水さんが私の大好きな優しい表情を浮かべてこっちを見ていた。速水さんと付き合い出して3年がたつけど、いまだにこういうちょっとした視線だけでどきどきしてしまう。思わず笑顔を返そうとした瞬間、隣に立つきれいな人に気がついた。紫織さんだ。速水さんの…奥さんだ。
 速水さんに思いを打ち明けて、信じられないことに想いが通じたのは、3年前のこと。それからすぐに速水さんは結婚してしまって、私には手の届かない人になってしまった…はずなのに、どうしても離れられなくて、速水さんと付き合ってる。
 これは、不倫なんだ。速水さんにはちゃんと奥さんがいるんだ。紫織さんの姿を見るたびにそう思い知らされる。速水さんは公式の場には必ず紫織さんと来る。こういう場面で見ると速水さんと紫織さんは本当にお似合いだ。
 私は公の場所には速水さんとは来られない。速水さんと私が付き合っていることは隠してはいたけど3年も経てばもう結構回りの人は知っていて、プライベートな集まりでは速水さんも私をエスコートしてくれるけど、決して私達の関係は人に祝福されるような関係ではないのだ。少しでも速水さんといるような気持ちになりたくて、一人でパーティーに来るときはなにか紫のものを身につけるようにしている。だけど、それは本人と一緒なのとは違う。
 速水さんは私のことを愛していると言ってくれる。その気持ちを疑うわけではない。だけど、将来のことなんてわからない。こんな、何のとりえもない私をこの先も好きでいてくれるなんて、そんな可能性は小さい気がする。きっと、いつか速水さんの気持ちも変わってしまうのかもしれない。今だって、あんな素敵な奥さんがいるのに私なんかのことを好きだって言ってくれるのが信じられないほどなんだもの。
 でも、速水さんの気持ちが変わってしまったら、私はどうしたらいいんだろう…。それを思うと恐い。
 せめて、女優として、商品としての価値だけでも認めていてもらえればいいんだけど。そう思って一層演劇には打ちこんでいるけど、不安な気持ちは消えることがない。
 こんな思いで過ごして、3年が経つ。


 結婚してから私は芸能関係に詳しくなった。何かのときに少しでも真澄様の役に立ちたくて。大都芸能の社長夫人としてふさわしいところを見せたくて。真澄様に必要と思っていただきたくて。 
 だから、会うのは初めてだったけどピエール・プレジール監督もすぐに見分けることができた。
 プレジール監督はフランスの巨匠で、来年監督生活30周年を迎える。
 学生時代は大して興味がなかった語学も勉強するようになっていたのでこういうときに役に立つ。
 特にフランス人はフランス語で話しかけられると喜ぶから。
「おお、キレイなフランス語をお話しになりますね」
 監督はにこやかにそう言ってくださった。
「美しく語学の才にも恵まれた奥様とは、ご主人もお幸せですね」
 如才ない監督の言葉に真澄様は無表情に「ありがとうございます」と答えた。
 その場にいたのは真澄様と私の他、秘書の水城さんと人気女優の亜弓さん。それからあの女。
 あの女には『奥様』の言葉すらもわからない様子なのが残念だけど、それでもこの場にいる全員がフランス語が分かるだけに居心地の悪い思いをしているみたいだ。いい気味、と思う。所詮、演技しか能のない女優なのよ。
「あなたはフランス語は分からないですか?英語にしましょうか?」
 監督があの女に英語で話し掛けた。
 でも英語すらもわからないらしい。真っ赤になっている。
「えーと私、フランス語ぜんぜん分からないんです、ごめんなさい」
 もう監督が英語に切り替えているのにしどろもどろにフランス語が分からないという間抜け振りに、思わず失笑しかけた。
「えーと、フランスで知ってるのは、パリとかバスチーユとかジャン・バルジャンとか、あっ、レ・ミゼラブルってフランス語ですよね!」
 ぱっと、まるで大発見をしたかのように叫んだあの女のセリフに、思わず真澄様も水城さんも亜弓さんも吹き出していた。
 真澄様が笑いながら監督に説明する。
「彼女は先日、レ・ミゼラブルの舞台でコゼットを演じたんですよ」
 その真澄様の言葉に、だけど監督は目を輝かせた。
「おお、レ・ミゼラブル!実は来年、レ・ミゼラブルを撮ろうと思っています」
 撮る、というのは30周年記念映画作品だろう。
「どんなコゼットを演じたんですか?」
 監督の言葉を真澄様は少しかえて伝えた。
「どんなコゼットか見てみたいとおっしゃってるよ」
 嫌な予感がした。
「…ちょっと演じてみたらどうだ?」
「ジャン・バルジャンが迎えに来る前の登場のシーンなんてどう?」
 亜弓さんまで言葉を添える。
 そして、嫌な予感はあたった。
 あの女が、コゼットを演じはじめたのだ。
 監督の表情が変わったのが分かった。


 ああ、本当に私って何にも出来ないんだなあ。
 私の回りにいる人たちが何でも出来すぎてしまうのかもしれない、とは思ってみるものの、やはりこういう場所では気がひける。
 亜弓さんはフランス人のカメラマンと付き合っていることもあってフランス語は見事なものだし、速水さんもフランス語は苦手だよと言いながらもちょっとした会話程度は不自由しない。水城さんにいたっては速水会長の時代には通訳もかねていたそうで、ヨーロッパの言語は大体何でも来いの上最近は趣味で中国語を始めた、なんて言ってる。そして、紫織さん…。大学は英文、フランス語やイタリア語もペラペラらしい。
 こういう人が、速水さんにはふさわしいんだなあ。美人で、大人で、速水さんのお仕事のためになるような実家があって…。その上頭もいいなんて。いいなあ…。
 ぼんやりとしていると、急に監督に話し掛けられた。
 慌てて分からないです、と首を振ったけど、なんかせっかくフランスから来られたお客様にフランスに興味がないみたいな様子でも悪いかと思って必死にフランスの知識をかき集める。あ、この前、レ・ミゼラブルをやった。あれってフランスの話よね。
 でも、変なことを言っちゃったのかな。
 監督が笑いながら何か言った。
「どんなコゼットか見てみたいとおっしゃってるよ」
 速水さんが通訳してくれる。
「…ちょっと演じてみたらどうだ?」
「ジャン・バルジャンが迎えに来る前の登場のシーンなんてどう?」
 亜弓さんの声もした。
 コゼット…?また私、コゼットになれるの…?
 そう思った途端、いつも演技をするとき舞台に立つときに感じるあの不思議な感じに包まれた。この世界と別の世界が二重写しになっているような、自分が自分でなくなっていくあの感覚…。私はうっとりとその感覚に身をゆだねた。
 はっ、と我に返った。
 また、やっちゃった…。
 監督がびっくりしたように私を見ている。それにいつのまにか回りに人が集まっていた。
 またなんかパーティーの雰囲気を壊すようなこと、しちゃったんだ…。
「すみません…」
 なんとか口の中でつぶやくとその場を逃げ出した。いたたまれなかった。


 口惜しかった。腹立たしかった。
 まただ。
 あの女が、ほんの一時演じただけで、回りの人間に電流でも走ったような衝撃があったのが分かった。プレジール監督など驚愕して言葉も出ない。
 あの女は演じるや否やどこかに逃げてしまったけれど。
「…奇跡を、見た…」
 プレジール監督がつぶやく。「フランス語がお上手ですね」等と社交辞令を言っていたときとはまるで表情が違う。
 どうして?どうして、あんな女、演技しか能がないくせに。努力なんかしてないくせに。他に何にもできないくせに。美人でもないくせに。何の後ろ盾もないくせに。とんちんかんなことばっかり言って、気もきかないくせに。
 なのに、いつも人はあの女に引きつけられる。
 フランス語を勉強してフランス語が話せるようになっても、そんなのは何の役にも立たない。悔しい。
 監督が真澄様にあの女のことを尋ね、真澄様がそれに答えている。
 真澄様は傍目にも分かるぐらい、あの女の話になると誇らしげに楽しげに話している。真澄様だけではない。亜弓さんや水城さんも。
 亜弓さんは、紅天女をあの女と競って敗れたのに、悔しくないのだろうか。ライバル、と自ら公言するわりに、あの女が悪く言われたりするとムキになってかばったりする。
 水城さんにしたって、あの女には扱いが違う。社長夫人である私には通り一遍の形式的な丁寧さしか見せないくせに、あの女のことは「マヤちゃん」なんて呼んで、特別扱いをする。
 しかも腹がたつのは、真澄様にしろ亜弓さんにしろ水城さんにしろ、あの女以外にはそんな扱いをしないことだ。本当にあの女だけ特別扱いなのだ。
 それだけではない。亜弓さんのお母様の歌子さんにしろ、人気俳優の桜小路にしろ、評価の高い演出家の黒沼にしろ、ああいう一流といわれる人たちがこぞってあんな女を大切にしている。今日受賞する映画だって、監督は姫川監督だけど、監督のあの女に対する惚れ込みぶりもすごかった。

 各部門の表彰が終わった。予定通りあの女は主演女優賞を獲得した。小さなトロフィーを手にしたあの女の回りに人が集まって行く。真澄様もその輪に向かった。そして真澄様が行かれるのであればどこであれ私も付いて行く。
 あの女が真澄様を見上げた。
 それに真澄様が輝くような笑顔で応える。私には絶対に見せてくださらない笑顔で。
「おめでとう、ちびちゃん。よくやったな」
 そのいとおしむような視線、柔らかい声音。
 どうして、どうしてそれらは私のものではないの?真澄様の妻は私なのよ?
 真澄様の言葉に、あの女がぱあっと嬉しそうな笑顔を見せた。
 泥棒猫のくせに、人の夫に手を出しているくせに、なんでそんな笑顔を浮かべることが許されるの…?妻の私が、こんなに苦しい思いをしているのに、どうしてこの女がみんなに祝福されて幸せそうな笑顔を見せているの?ここに集まっている人達のほとんどが、あの女と真澄様の関係を知っているのに、その人達もにこやかに祝福している。なんでこんなルール違反が許されるの?
 突然回りに集まっていた人達が笑い崩れた。あの女がまた何かとんちんかんなことを言ったのだろうが…まるで私をあざ笑っているようだった。
 その瞬間、私の中で今まで我慢していた何かが切れた。
「泥棒猫!」
 思いっきり叫ぶのと同時に、私は手にしていたワイングラスをあの女にたたきつけていた。
 パリーン!
 ワインがあの女のドレスをぬらし、グラスがあの女の頭で砕けた。 
 世界がその動きを止めたようだった。
 ガラスが飛び散り、そしてあの女の頭からは血が流れ出す。
 あの女が呆然と私を見つめる。
 まるで、初めて私の存在に気づいたかのような顔で。
 赤ワインと、頭から滴り落ちる血とで、薄紫のドレスが赤く染まっていく。
 一瞬あたりが静まりかえり、それから急に騒がしくなった。「マヤ!」真澄様があの女に手を伸ばす。こんなときですらも真澄様は私ではなくあの女しか見ていないのだ。「紫織さん、何をするんです!」と言いながら止めてくださるだけでも、真澄様の関心が欲しかったのに。それから自分が誰かに腕を掴まれてどこかに連れていかれるのをぼんやりと感じた。


 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
「泥棒猫!」
 紫織さんがそう叫んだ途端、私の世界が止まったようだった。
 音が消え、動きが止まる。
 そして、何か光るものが振り下ろされて頭にぶつかった。
 パリーン、と音がして、何かきらきら光るものがあたりに飛び散った。
 真っ白になった視界に紫織さんが映った。怒りに蒼白になった顔。ぶつけられる憎悪の激しさにたじろいだ。
 頭に何か変な感じがして、触ろうと手を伸ばした。
「マヤ!駄目だ、触るな!」
 速水さんに手を抑えられた。マヤ、なんて人前で呼んじゃだめじゃないの、速水さん…。 
 ぼんやりと思っていると、あたりの声が遠くなっていく気がした。
 ふっ、と目を落とすと、ドレスが赤く染まっていた。
 何だろう、この赤い色は。このドレス、気に入っているのに。紫のバラに良く合うのに。
 ああ、赤い染みが大きくなっていく。
「水城君、車を!」
 速水さんが私を抱き上げた。なのにそんなに近くにいる速水さんの声が、どこか遠くで聞こえた気がした。

 目を覚ますと病院のベッドだった。
 病院に運ばれたのはなんとなく覚えているんだけど、しばらく気を失ってしまったらしい。
「…大丈夫か?気分はどうだ?」
 優しい、心配そうな声がした。速水さんがついていてくれたんだ。
「…お水が飲みたい」
 そう言うと、速水さんがお水を飲ませてくれた。お水ぐらい自分で飲める。そう言おうと思ったとき、体に力が入らないのに気がついた。それに熱い。腕には点滴の針が刺さっている。
「今、何時?」
「3時だよ…夜中の」
「良かった…。まだ時間あるよね。なんか調子が変なの。…あたし、どうしたのかなあ?」
「ワイングラスの破片で頭を何箇所か切ったんだ。1つ深いのがあって、4針縫った。キズは残らない。今は熱が出てて苦しいだろうけど、朝には少し楽になってるはずだから、一晩我慢してくれ」
「うん。今日は夜の部だけだから、楽屋入りは夕方で大丈夫」
 ほんの少しの間話していただけなのにすごく疲れた気がして、目を閉じた。

 そのまま眠ってしまったらしい。その間に速水さんと、水城さんの会話が聞こえた気がする。
「マヤちゃん、どうですの?」
「かなり出血がひどかったから…。熱も下がらないし、本当は休ませたいんだが、本人はやる気らしい」
「気がつきましたの?」
「ああ。一度夜中に目を覚まして、時間を聞いて楽屋入りは夕方だから大丈夫、なんてつぶやいてまた眠ってしまったよ」
 水城さんの押さえた笑い声がした。
「マヤちゃんらしいですわね。それでは今日の公演は予定通り、ということでよろしいですか?マヤちゃんなら多少体調が悪くても見事な舞台をするだろうということは安心していられますけど、昨日の今日ですもの、マスコミ対策もありますし、予定通りにしろ中止にしろ方針をご決定くださいませ。マヤちゃんの場合は代役をたてるわけにはいきませんもの」
「そうだな。とりあえず予定通り公演する方向で進めてくれ。明日以降については今日の様子を見て考えよう」
「かしこまりました。それにしてもたかだかワイングラス一つでずいぶん凶器になるものですわね。それで、紫織様はどうなさいましたの?」
 そして、思い出した。紫織さんに、ワイングラスを叩きつけられたことを。そして、自分がドロボウネコであることを。
 私は泥棒猫だ。あのきれいな紫織さんが、あんなに怒っていた。当然だ…。
 速水さんの声が答える。
「実家にいる。…分かっているだろうが、あれだけの衆人環視の中で傷害事件を起こしても警察沙汰にはならない」
 水城さんがため息をつくのが聞こえた。
「まだまだ鷹宮会長は力をお持ちですのね…」
「ああ。何とかして早くマヤの安全ぐらい守れる力をつけたいものだ…」
 どういう意味?と思ったけど、そのまままた眠りに引きこまれてしまった。

 公演は予定通り催された。
 私は怪我なんかで休むつもりはなかったけど、速水さんと水城さんもどうするか相談していたみたいだし、関係者も心配していたらしい。
 大都と鷹通という大きな存在が絡んでいたためか前日の騒ぎはマスコミでは報道されなかったけど、関係者が集まった席での出来事だったから舞台関係者の人たちはみんな知っていた。気まずいような居心地の悪い感じもしたけど、でもとにかく舞台がやりたかった。
 ドロボウネコ。その言葉が、その言葉を叫んだ紫織さんが、目からも耳からも離れなかった。
 舞台の上でだけはそれを忘れられる。私は舞台の上では泥棒猫の北島マヤじゃない。演じているときだけは別の人生を生きられる…。
 私は舞台に没頭した。

 自分ではなんとなく体調が本調子でないぐらいにしか思っていなかったけど、食欲がないことを速水さんが心配し始めた。
 確かに、気がついてみればあのパーティーの席で立食形式のお料理をつまんで以来、二日間何も食べていなかった。普段は「役者は体が資本」というのを口実に、速水さんに驚かれるほどによく食べるし、実際、舞台の前と後では体重が違うほど体力を使うのに。
「マヤ、頼むから何か食べてくれ」
 怪我をしてから二日目の夜、速水さんのマンションに帰りつくと速水さんが本当に困ったようにそう言った。その日は公演後速水さんが迎えに来てくれて一緒に帰ってきたんだけど、途中何か食べて帰ろうか?といわれても食欲がなくてまっすぐ帰ってきたのだ。
「うーん…。お腹すいてないの。それよりシャワー浴びて寝たいな」
 そう言いながらシャワーを浴びにいってしまった。本当に食べたくなかった。
 それなのに、バスルームから出てくると速水さんが待っていた。
「野菜スープを作ったんだ。少しでも食べてみてくれないか」
 速水さんがスープを作ってくれたらしい。速水さんは実は私よりずっとお料理がうまい。二人でマンションにいるときはたまに一緒にお料理したりするけど、大体速水さんがメインで私は手伝っているだけ。ちょっとカッコ悪いなあと思うこともある。
 速水さんのお手製じゃあ、なんかぜんぜん手をつけないのも悪いかなあ。
 食欲はぜんぜんなかったけど、少し食べておいしいと言おうと思った。
「うん…。じゃあ少しだけ」
 お水は飲めるんだから、スープだって大丈夫なはず。そう思って一生懸命飲み込んでみた。せっかくの速水さんの手料理だけど、味なんてわからなかった。砂を噛むような、というけど、本当にそんな感じ。それでも二口、三口、となんとか口にすると速水さんが笑顔になった。
「いい子だ!」
 その笑顔にどきっとする。ああ、私、やっぱりこの人のことが好きなんだ。いけないことなのに…。そう、本当は私は速水さんといたらいけないんだ。速水さんだってそれがわかってるはず。いつまで私といてくれるんだろう。奥さんをあんなに怒らせてまで…。
 そんなことを思うと、胸が苦しかった。スプーンを持つ手がとまる。
「マヤ?」
「もう食べられない。ごめんなさい」
「だめだ。もう少し食べなさい。アイスやプリンの方が良ければそれでもいい。それともイチゴを食べるか」
 私は首を振った。
「食べられないなら…公演は中止だ。食事もせずにあんな公演をあと二日もやったら死んでしまうぞ」
 公演はあと二日残っていた。それを、中止する…?まさか。
「いや!舞台は絶対にやるわ!」
「じゃあ食べなさい。…そのスープが飲みきれないんだったら明日は中止だ」
 そんなことをしたら大都芸能にだって損害のはず。そんなことを速水さんがするわけない、と思いたいけど、でも速水さんの顔は真剣だった。
「いただきます…」
 あきらめてスープに取り組みはじめた。これぐらい、味なんか感じなくても、ただ口に運んで飲みこめばいいんだもの、舞台のためなら…。
 そう思って必死に何度かスプーンを口元に運んだときだった。
「うっ」
 慌ててバスルームに行こうとしたけど、間に合わなかった。胃からこみ上げたものが溢れ出る。
「マヤ!」
 速水さんが慌てた声を出すのが分かった。でも、こみ上げてくるもので全身が震えて返事もできない。呼吸すらもできない。体が痙攣する。苦しかった。
 どれぐらい経っただろうか、それでも戻すだけ戻して、戻すものがなくなってからも戻し続けて、体中が痛む頃になってやっと落ち着いた。口をゆすいで着替えさせてもらって、ベッドに横になる。
 そして、思い出した。スープを飲み終えなかったことに。
「速水さん…お願い」
 ベッドの傍らに腰かけていた速水さんに声をかけると、速水さんが優しい声で答えてくれた。
「どうした?」
「スープ飲めなくてごめんなさい。でもあたし、どうしても舞台がやりたいの。明日の舞台、やらせてください。お願いします。絶対、絶対恥ずかしいような舞台にはしないから。約束します」
 舞台ができなかったらどうしよう、と思うと涙が次々と流れ落ちた。舞台は、私が北島マヤでなくなれる唯一の機会なのに。
 速水さんの指が私の涙をぬぐって、それからそっと髪を撫でた。
「…明日も食べられないようだったら、舞台前に病院で点滴打ってから行こうな」
 それってつまり、舞台に行っていいってことだよね?
「ありがとう」
 ほっとして、目を閉じた。


 実家に戻って4日が過ぎた。
 ワイングラスを叩きつけたときは手応えがあったし、ずいぶん出血していたみたいだったからかなり大怪我をさせたのかと思ったけど、あの女は残り4日間の舞台を勤め上げそうだ。今日が千秋楽で、今朝の芸能ニュースでは大きく扱われていた。悔しいことに絶賛されていた。あんな目にあったのに、どうして?それともあんなことはあの女にはなんてことないの?それでもレポーターの「…体調不良を心配する関係者もいましたが、それを微塵も感じさせない公演です」というセリフの「体調不良」という言葉に耳が反応する。そう、少なくとも元気一杯ではないわけね。
 真澄様は4日間、ついに私を迎えに来てはくださらなかった。だけど、やっと明日、来てくださることになったらしい。電話はおじい様あてだったけど、明日見えられるそうですよ、と乳母が教えてくれた。
 きっとおじい様はまた何か利益の出るお仕事と引き換えに真澄様の心を溶かしてくださるでしょう。おじい様にお任せすれば大丈夫だわ。


 結局、千秋楽の舞台が終わるまで何も食べられなかった。
 スープを戻してしまった日の翌日は病院に逆戻り、点滴を打ちながら、舞台だけ病院から通った。
 速水さんは心配して、お仕事忙しいのに出来る限り一緒にいてくれた。だけど、この頃になるとさすがに私にも食事が取れないのは単にお腹が空いてないという問題ではないことに気づいていた。速水さんを見ると、紫織さんを思い出すのだ。あのきれいな顔を歪めて私にワイングラスを叩きつけた紫織さんを。
 それまでだって、罪の意識がなかったわけではない。悪いことなのだというのも分かっていた。紫織さんが私と速水さんのことを知っているというのだって知っていた。だけど、なんとなくそういうのは紫織さんの気持ちと無関係なところで思っていて、そういうことについて紫織さんがどんな気持ちでいるのか、あんまり考えたことがなかったように思う。私にしてみれば紫織さんは絶対に速水さんと切れることのない絆を持っていて、何でも出来て、恵まれていて、うらやましい存在だったから。私なんかのことを気にとめているとは思わなかった。だって、速水さんは結局紫織さんを選んだんだもの。3年前、紅天女の初演のとき、私はありったけの勇気を振り絞って速水さんに気持ちを伝え速水さんはそれに応えてくれたけど、でも予定通り紫織さんと結婚したのだから。
 千秋楽の舞台を終えて楽屋に戻ると、驚いたことに、プレジール監督が来ていた。
 監督とは、あのパーティーで初めて会って、いきなり場所柄もわきまえずに演技を始めたかと思えば騒ぎを起こしたりして、とんでもないヤツだと思われているだろうと思うと、穴があったら入りたい気分だったけど、監督は私を見ると勢いよく話しだした。
 今度はちゃんと通訳の人と一緒で、通訳の人が訳してくれる。
「先日のパーティーであなたのコゼットを見てあなたしかいないと思った。この4日、毎日公演を見せていただいたが素晴らしかった。あなたなら、フランス語のハンディを考慮してでも素晴らしい演技をすると思う。来年公開予定のレ・ミゼラブルの映画に、コゼット役で出演してもらえませんか」
 え…?
「私は明日、帰国します。良ければそのときご一緒に。あまりにも急だということでしたら近日中に来ていただくということでも結構です」
 そのとき、ドアが開いて速水さんが入って来た。私達の間で約束になっている紫のバラの花束を抱えて。
「やあ、ちびちゃん…」
 そう言いかけて速水さんも監督に気がついた。
 監督が、速水さんに目をやってから通訳の人に何か言った。速水さんの顔が険しくなる。通訳の人が口を開いた。
「それに、あなたにとっても日本を離れるのはいい気分転換になるのではありませんか」
 速水さんが何か言おうとしたけど、それより先に私の口から言葉が滑り出していた。
「私、行きます。…明日、ご一緒させてください」

 その夜、私は久しぶりにご飯を食べた。胃が小さくなってしまったのか、普段ほどぱくぱくとはいかなかったけど、それでもまたご飯の味がわかるようになっていた。
 そんな私を速水さんは複雑な目で見ていた。
「君がちゃんと食事できるようになったのは嬉しいが…。その理由が明日フランスに発つことが決まったから、というのは寂しいな」
「フランス語、心配だなあ。私英語も出来ないのにフランス語しゃべれるようになるかなあ」
 私は意識して話をそらした。
 速水さんは優しく微笑した。
「大丈夫だよ、君なら。もともと記憶力はいいんだし、方言なんか聞いてるうちに掴んでしまうほど言葉に対する勘はいいんだから。まあ正確なフランス語の会話ができるようになるかどうかは別として、フランス語のセリフを暗記することは何の問題もないんじゃないか」
 速水さんは、「行くな」とは言わなかった。「行ってもどうなるかわからないぞ」というような、不安にさせるようなことも口にしない。
 自分で行くと決めたのに、それがなんだか寂しかった。
 その夜は病院には戻らなかった。
 マンションに戻って、玄関のドアを閉めるなり、速水さんにキスをせがんだ。待ちきれずに速水さんの首元にしがみつくようにして唇を合わせる。
「抱いて…あなたと一つになりたいの」
 速水さんを欲しいと思ったときでも何かそれを口に出すのは照れくさいような気がして、滅多にそんなことを言ったことはなかった。でも、そのときはそんなことを言っていられなかった。寂しくて、不安で、そして悲しい想像ばかりが膨らんで。
 その晩私達は明け方まで愛し合った。何度求めても何度求められてもどれほど昇りつめても足りなかった。速水さんを体中にきざみつけて欲しかった。
 紫織さんがあんなに怒っているのが分かった以上、速水さんも今までみたいなわけにはいかないだろう。そして、どちらかを選ばなくてはいけないのなら、3年前もそうだったように結局は紫織さんを選ぶのだろう。私が行くのを止めないのは、速水さんもほっとしているのかもしれない。
 フランスに行くといっても永住するつもりはない。映画を一本撮るだけだ。それに紅天女がある以上いずれ日本に帰ってくるし、この世界にいれば大都芸能の社長と全く接点がなくなるということも考えにくい。だけど、こんな状態で数ヶ月離れてしまったら、きっとただの社長と女優という関係になってしまうのだろうと思った。でも、そうしないといけないのだ。どんなに愛していても。速水さんの重荷になるわけにはいかない。
「マヤ、愛している。君だけだ…。君がどこにいてもおれは君のことだけを想っているからな」
 私を抱きしめて何度も速水さんが繰り返す。それにうんうんと頷きながら、涙が止まらなかった。


 真澄様が来てくださる。朝からそわそわして落ち着かなかった。
 どんなに冷たい表情でもうわべだけの言葉でも、迎えに来た一緒に帰ろう、そう言っていただきたかった。
 それなのに…夕方真澄様はおじい様のところに来られたはずなのに、そのまま帰ってしまわれた。何故ですの?
 しばらくして、おじい様に呼ばれた。
「おじい様?」
 声をかけておじい様の部屋に入る。
 おじい様は難しい顔をしてらした。もしかして真澄様との交渉がもめているのかしら?
 紫織、とおじい様が口を開いた。はい、と返事をする。その私に、おじい様は驚くことを言った。
「紫織。真澄君とは別れなさい」
と。
 自分の耳が信じられなかった。
「おじい様?いや、いやです。紫織は真澄様が好きです。女優の愛人がいても我慢します。だからそんなことをおっしゃらないで」
「今日真澄君が来たのはその話だった。もう彼の決意は固いようだ。動かせそうにない。おまえもまだ若いのだし、今からもっといい男を見つけて、やり直した方がいい」
「いや!おじい様なら真澄様の心を動かせるはずですわ。結婚前だってそうして下さったじゃありませんの。お願いです、真澄様の会社にいいお仕事を差し上げて利益がたくさん出るようにしてくださいませ。鷹通グループと共同のプロジェクトはありませんの」
 私の必死の、プライドも捨てた言葉におじい様は哀れむような目で私を見つめ、ためらってから言葉を継いだ。
「おまえは、結婚前の真澄君とわしの取引が、ビジネスがらみだったと思っておるのか。それは違う。もちろんわしも最初はそれを持ち出した。だが、どんな利益を生む話をしても、逆に婚約解消の場合の不利益の話をしても、あの男の決意は変わらなかった。もう、大都グループも速水家も出る決意をしていたのだろう。それで、真澄君が執着していたあの女優、北島マヤを取引に使ったのだ。もし婚約解消ということになればあの女優は東京湾にコンクリートを抱いて沈むことになる、とな。おまえなどには見せんようにしておるが、わしがその気になればその程度のことはできることをおまえも知っておろう。真澄君もそれはわかっていたし、当時の真澄君にはそれを防ぐだけの力もなかった。真澄君がおまえと結婚したのは大都の利益や不利益のためですらない。あの女優の安全のためだったのだ」
 おじい様の言葉は衝撃だった。だけどおじい様は話し続けた。
「逆にいえば、真澄君が最低限の義務を果たしている限り、あの女優は安全だ。そういう契約であったのに、知らなかったとはいえおまえが自らあの女優に怪我を負わせたのだ。幸い残る傷はなさそうとのことだが、女優にワイングラスを叩きつけるというのがどういう危険のある行為かはおまえにも分からんはずがない。下手をすれば、女優生命を絶ちきっていたかもしれんのだぞ。いわば、この契約は、鷹宮家側から破棄してしまったことになるのだ。…あの女優は今日、映画撮影のために途仏したそうだ。数ヶ月は帰って来まい。その間は真澄君を縛るものは何もない。わしの力もフランスではちと及ばん。そして真澄君は急速に力をつけてきておるし、わしは年をとってきておる。おそらく北島マヤが戻って来る頃には、もう真澄君を同じ方法をもってしても縛ることはできないだろう」
 おじい様の部屋からどうやって自分の部屋に戻ったのか覚えていない。ただ、頭ががんがんとしていた。真澄様が私と結婚したのは、私の実家の権力のためですらなかったという事実。真澄様を動かすことができるのは、ただあの女だけだという事実に打ちのめされていたのだ。

 それから2週間ほどして、やっと気持ちが固まった。
 本当は2週間もかけることはなかったと思う。結論は一つしかないのだから。真澄様は一度も私を訪ねて来ては下さらなかった。
 思えば、いつか真澄様が私を振りむいてくださったら、きっと私が真澄様を幸せにして差し上げるのだと、そう思って真澄様が振り向いてくださるのを待っているつもりだった。だけど、真澄様の心は決して私に向けられることはない。
 私はおじい様に決心を告げた。
「おじい様、この前のお話ですけれど。…紫織は、おじい様のおっしゃる通りにしようと思いますわ」
 …さようなら、真澄様。

―終わり−






【Catの一言】
Hikariさん・・・今回は作風が変わりましたね(笑)ほのぼのとしたお話かと思ったら・・・。うぅっ・・・切ない!!!
アンチシオリ−(笑)のCatでも何か、悲しくてなってきました。マヤと紫織、同じ男性を好きになってしまった苦しさ、辛さがひしひしと伝わってきました。
両者の心理描写にそれぞれの立場を納得させられるとともに、感情移入する事ができました。
大人な話ですねぇぇ・・・。はぁぁ。本当、切ないです。


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