「やぁ、チビちゃん」
からかい口調で真澄が声をかける。

ゲッ!速水真澄・・・。

通りを歩いていたら、偶然彼に会ってしまった。
「・・・どうも」
引きつった笑みを浮かべる。
「はははははは」
マヤの表情を見て、可笑しそうに笑い出す。
「君は本当に面白い子だね」
真澄の笑いに不機嫌そうに彼を見る。
「何がですか?」
「俺を見る君の視線だよ。まるで、害虫でも見るような顔だ。まぁ、君にそこまで想ってもらえて
嬉しいよ」
真澄の言葉にさらに苛立ちが募る。
「・・・急いでいるんで、失礼します」
そう言い、彼を無視して、歩き出す。
「・・・危ない!」
次の瞬間、彼に腕を掴まれ、抱き寄せられる。
力強い腕に大きく脈をうつ。
「よく見ろ。轢かれる所だったぞ」
車が通り過ぎるのを見つめながら、真澄が口にする。
「・・・君は本当、そそっかしいな」
苦笑交じりに彼女を見つめる。
その瞳が優しく見えた。

ヤダ。速水さんに対してそんな事想うなんて・・・。

「・・・失礼します」
彼の腕から離れると逃げるように彼の元から走り出していた。
真澄はそんな彼女の背中を寂しそうに見つめていた。

どこまでも、行っても俺は彼女と交わる事はないのかもな・・・。





何?この感情は?
速水さんの顔を見たら、急に胸が苦しくなって・・・。
締め付けられるような気持ちになって・・・。
こんな気持ちになるなんて・・・どうしたの?

「・・・マヤ?」
「えっ」
呼び止められ、振り向くと、麗が心配そうに彼女を見つめていた。
「何かあったのか?」
「・・・ううん。何もない」
首を横に振り、答える。
「・・・そうか。ならいいんだけど。そういえば、学校の芝居に出るんだってな」
麗に言われ、マヤは嬉しそうに笑う。
「うん。演劇部の芝居に客員って形で出るようになったの」
「きっと、見に行くから、頑張れよ」
そう言い、マヤの頭を撫でる。
「・・・ありがとう」





「北島マヤさん?」
芝居が終わり、控え室を出ると、見知らぬ男に呼び止められる。
「えっ・・・そうですけど」
マヤの顔を興味深く見つめる。
男は20代後半といった所で、中々のハンサムだった。
見つめられ、思わず、胸がときめいてしまう。
「実は僕演出家で、役者を探しているんです。よかったら、僕の芝居に出てみませんか?」
男は優しそうな笑みを浮かべた。
「えっ、芝居!」
芝居の二文字にマヤの表情が喜びに変わる。
「脚本はこれです。今週の日曜日にオ−ディションがあります。興味があれば是非来てみて下さい」
そう言い、マヤにオ−ディション会場の地図と脚本を渡す。
「あっ、そうだ。僕、佐々上と言います」
思い出したように名刺を彼女に渡す。
名刺には”演出家 佐々上俊一”と書かれていた。
「オ−ディションに来た時はこの名刺を見せて下さい」
礼儀正しい彼にマヤは好印象を持った。
「はい。是非伺わせてもらいます」


マヤが貰った脚本の内容は多重人格の少女と彼女を支えながら、
恋に落ちていく精神科医との話をテ−マにしながら、家族とは何か?真実の愛とは何か?を問う現代劇だった。
マヤにとってこの手の芝居は初めてだった。
まだ高校生の彼女には重いテ−マだと思えたが、彼女の本能がこの芝居を求めていた。







「・・・ちびちゃん」
真澄がオ−ディションに来たマヤを驚いたように見つめる。
審査員席にいる真澄を見つめ、マヤも同じように驚く。
「彼女は僕が呼んだんだ」
真澄の隣に座る佐々上が真澄に耳打ちするように呟く。
「それじゃあ、北島さん。渡されたセリフを口にして下さい」
マヤは真澄の存在に怯む事なく、役になりきった。

「はい。ご苦労様でした」
そう言われ、マヤの顔に戻る。
「失礼します」
マヤは審査員室を後にした。
その後を追うように真澄が席を立つ。
「僕に構わず、審査を続けて下さい」
真澄の行動に周りの審査員が唖然とする中、彼はその場を後にした。




「降りるんだな。この芝居は」
マヤの耳にそんな言葉が入る。
「・・・速水さん?」
控え室で審査結果を待っていると、真澄が彼女の目の前に現れた。
「君はこの芝居には向いていない。降りるんだ」
厳しい視線を彼女に向ける。
「なっ・・・いきなりなんですか!」
真澄の言葉に一気に不愉快な気持ちにさせられる。
控え室にいるマヤと同じように結果を待つ人たちは彼女の叫び声に驚いたように彼女の方を見つめた。
「こっちに来たまえ」
周りの視線を感じ、彼女の腕を掴む。
「放して下さい!」
尚も声を荒げる。
「いいから、こっちに来なさい!」
マヤにつられて、つい真澄も声を荒げる。
その迫力にマヤは驚いたように真澄を見つめ、力なく、彼に言われるまま、その場を後にした。


「一体、何なんですか!」
誰もいない部屋に連れてこられ、ようやくマヤが声を出す。
「君には危険すぎる」
マヤを真っ直ぐに見つめる。
「危険?どういう事です」
「君は役になりきってしまうからだ。この役は多重人格で、しかも、家族に対する問題を抱えている」
「そんなの台本を読んだ時からわかっています」
「・・・いいのか?君はまだお母さんを亡くしたばかりだぞ?君に絶えられるのか?」
真澄の言葉にマヤの表情が凍りつく。
「・・・きっと、この役を演じれば、思い出したくない余計な事まで思い出すかもしれない・・・」
真澄の言葉に何の反応もなく、ただ、ただ、呆然とする。
「この芝居は多重人格の少女の精神の移り変わりを重点にしている。下手すれば、足を捕われ、溺れてしまうかもしれない・・・。
君のようなタイプの役者には危険なんだ」
華奢な彼女の両肩を掴み見つめる。
「・・・だったら、私を落とせばいいでしょ。それだけで済むはずです」
真澄が彼女に降りるように態々言いにきたのは彼女のオ−ディションを目にしたからだった。
彼女の演技は荒削りながらその表現力は目を見張るものがあった。
このままいけば、間違いなくこの役は彼女に決まってしまう事は明らかだった。
「私はただ、結果を待つだけです」
「合格したら・・・どうする?」
「・・・もちろん。引き受けます。私はこの役が欲しくて来たんですから」
挑戦的な瞳で真澄を見つめる。
「・・・意地っ張りめ」
マヤに聞こえないように小さく呟く。
「何か言いました?」
「いや。そうか。わかった。君の意志は変わらないと言うんだな」
「はい」
一歩も譲らないというように真澄を見る。
「勝手にしろ!俺はどうなってもしらないからな」
苛立ったように口にし、部屋を出ていく。



「やはり、北島マヤで決まりでしょう」
審査員たちが口をそろえてそう言う。
「いや、私は北島を使うのは反対です」
真澄の言葉に全員が驚く。
「北島のように役になりきってしまう役者には向かない。この役を演じるには冷静な目が必要だ。
それに、彼女はこの役を演じられる程成熟しきっていない」
「それでも、僕は彼女を使ってみたいですね」
真澄に対抗するように佐々上が口にする。
「成熟しきっていないからこそ、演出家としては魅力を感じる。今日の彼女の演技はまだ荒削りだが、僕の心を捉えた。
それは皆さんも感じたでしょ?」
佐々上の声に真澄を除いた審査員一同が頷く。
「速水さん、それでもまだ反対ですか?」
佐々上の言葉に真澄は何も言えなかった。



「北島さん、引き受けてくれますか?」
佐々上がマヤに結果を報告しに行く。
「えっ!じゃあ、受かったんですか?」
嬉しそうにマヤが笑顔を浮かべる。
「稽古は三日後からです。宜しくお願いします」
彼女の前に手を差し出す。
「はい。こちらこそ、お願いします」
佐々上の手を握り、緊張したような表情で答える。






「この台本に目を通して頂けませんか?」
アクタ−ズスク−ルの月影を尋ね、重い表情で真澄が口にする。
「珍しいわね、あなたが私に芝居の台本を見せるなんて」
そう言いながら、パラパラと目を通す。
真澄は月影が台本を見ているのを静かに見つめていた。
「難しい芝居ね。これは下手をすると役者も芝居に喰われてしまう」
月影の言葉に益々真澄の表情が重くなる。
「北島マヤが今度この芝居に出ます、役は二重人格の少女です」
真澄の言葉に今度は月影が顔色を変える。
「あなたなら彼女を止める事ができる」
「・・・そうね。マヤにはまだ早すぎるかも・・・」
思案するように窓の外を見つめる。
「でも、私はあの子の飛躍を見てみたい」
月影が告げた言葉に真澄は耳を疑った。
「あなたは何を言っているのかわかっているんですか!彼女にこの役は重すぎます」
声を荒げ、月影を見つめる。
月影が冷静な真澄が取り乱すのに驚いたように瞳を見開いた。
「・・・マヤがもし、この役を演じて潰れたのなら・・・そこまでの役者です。それでは紅天女など到底演じられません」
「・・・月影さん・・・あなたって人は・・・。わかりました。止める気はないという事ですね。失礼します」
真澄はそう言い、ソファ−から立ち上がった。
「真澄さん、あなたにとって、マヤは邪魔な存在なんじゃない?なぜそんなに必死になるの?」
部屋から出て行きかけた真澄に告げる。
「・・・今度の芝居は大都が全面的に資金を出しています。
役者に何かあって上演ができないなんて事になったら、大きな損害を受けるので・・・。ただ、それだけです」
「・・・そう。一つ忠告をしてあげるわ。この芝居を成功させたいのなら、マヤを無償の愛で包んでやれる。そんな協力者が必要よ」
月影の忠告を聞くと、何も言わず、真澄は部屋を出て行った。

「真澄さん・・・あなたにとっても、この芝居は山場になりそうね」
閉められた扉を見つめながら、月影はそんな事を口にした。









『あなたは誰なの?』
芝居の中のマヤが口にする。
『私は医者だ。君の話を聞く為にあらわれた』
相手役が答える。
『私を消すつもりなのか!そうはさせない!』
もう一人の人格に変わり、ナイフを手にする。

「違う!」
そこで佐々上の声が飛ぶ。
マヤは厳しい表情を浮かべる佐々上に驚いたような表情を浮かべた。
「君はここで綾子から別の人格である千香に変わるんだ。今の演技では綾子のままだった。
綾子がただ激情しただけだ」
「・・・すみません。もう一度お願いします」

それから、何度もその場面を演じるがマヤは綾子から別の人格にはなれなかった。

「・・・もう、いい」
苛立ったように佐々上が言う。
その言葉にビクっとする。
「北島君、君はまだこの役を掴んでいない。暫く稽古から外れてもらう」
マヤはそう言われ、力なく稽古場を出た。


はぁぁ・・・。私に演じられるんだろうか・・・。
控え室に入り、鏡の中の自分に問う。

多重人格・・・。私の中にもう一人の自分がいる。
それは・・・どんな感じなの?
綾子の中にいるもう一人の人格千香・・・。
彼女は綾子の苦しみや、悲しみを支える。
時には攻撃的で、時には優しく綾子を包み込む人格・・・。

この劇の最後、綾子は最愛の人の胸にナイフを突き刺す。
そして、自らも命を絶つ・・・。
彼女が彼を殺すのは愛しているから?
もう一つの人格が彼を憎むから?

ナイフを持っているのは一体、どっちの人格なんだろう・・・。

「さっきはきつい事を言ってすまなかった」
鏡の前で役についていろいろ考えていると、佐々上が現れる。
「いえ、当然の事ですから」
「明日、僕に付き合ってくれるか?君に会わせたい人がいるんだ」
静かな表情で佐々上が言う。
「えっ、はい」
「じゃあ、9時に迎えに行く」
そう言いい、佐々上はマヤを置いて、部屋を出た。




「まだ役を掴んでいないようだな」
部屋を出ると、佐々上に真澄が話し掛ける。
「・・・速水・・・」
佐々上と真澄は同じ大学で学んだ仲だった。
「彼女は必ず、役を掴むよ。僕が掴ませてみせる!」
鋭い瞳で真澄を睨む。
「なぜ、北島にこだわる」
「おまえこそ、なぜ彼女をこの芝居から引かせようとする?」
佐々上の言葉に言葉を詰まらせる。
「興業主として、心配なだけだ。幕をひらけないまま終わったら、痛い目にあうのは俺だからな」
「・・・それだけかな」
「何?」
真澄の問いに何も言わず、佐々上は歩き出した。


「・・・速水さん?」
マヤが控え室を出ると真澄がいた。
「気をつけるんだな。この芝居の演出家は一癖も二癖もあるやつだ」
「えっ・・・佐々上さんの事?」
マヤがそう言った時、もう、真澄は彼女に背を向けて、歩いていた。
「・・・変なの」
遠くなる背中に小さく呟く。





「ここは・・・」
佐々上に連れてこられた所は刑務所内にある病院だった。
一見、ただの病院のように見えたが、所々に険しい顔をした看守が立っていた。
それだけで、マヤは不安になる。
そして、マヤが連れて来られた場所は一番警備が厳しい所だった。
「田島順子に面会に来た」
佐々上が看守にそう告げると、待合室に通される。
そこは白一色が占めていた。
壁も、窓枠も、椅子も机も、全てが白で、マヤには不気味なように見える。
「あの、佐々上さん・・・一体、誰に会わせる気ですか?」
「田島順子。年齢24歳。100人以上もの人格を抱える多重人格患者だ」
「100人!!」
「あぁ・・・。彼女は去年、自分の夫を殺害した」
その言葉にマヤの顔が凍りつく。
「・・・そして、彼女も命を絶とうとした・・・」
マヤの中に強い衝撃が走る。
「僕は彼女をモデルに今度の芝居の台本を書いたんだ」
「じゃあ、綾子の・・・モデルなんですか?」
「そういう事だ」


「あら、佐々上さん、来て下さったの」
待合室に女性が入ってくる。
とても、夫を殺害したようには見えず、彼女は穏やかそうな笑みを浮かべた。
「あぁ。君に会いたいって人がいてね。彼女は北島マヤ。今度やる僕の芝居に出てくれるんだ」
佐々上は打ち解けた表情で話し始める。
「・・・そう。女優さんなの。宜しくね。私は田島順子よ」
優しそうな笑みをマヤに向ける。
「・・・宜しくお願いします」

それから三人は一時間程他愛もない話をしていた。
マヤも段々、順子に慣れ、打ち解けたような笑顔を浮かべていた。

「ちょっと、トイレ」
そう言い、佐々上が席を立つ。
「いってらっしゃい」
順子はクスリと笑い彼にそう言った。

「・・・へぇ−。そうなの、多重人格のお話をやるの」
佐々上がいなくなると、マヤの言葉に相槌を打つように順子が答える。
「そうなんです。それで、まだ、私掴めなくて・・・。自分の中に違う人格があるってのがよくわからなくて・・・」
そう言い、マヤがフッと順子の顔を見た時、さっきとは違う雰囲気になっているような気がした。
「はははははははは」
突然、笑い出す。
マヤはビクッとして、彼女を見た。
そこにはまるで違う瞳をした女がいた。
「そんなに知りたかったら、人を殺してみな。きっと、耐え切れなくて、あんたの中の闇の部分が出てくるよ」
「・・・順子・・・さん?」
「順子はもういないよ」
マヤをきつく正面から睨む。
「知ってるかい?人を刺す時の感触を・・・。柔らかくて、鈍いあの感覚を・・・。そして、流れる赤い血・・・」
ゾッとするような冷たい瞳でマヤを見る。
マヤは何も言えず、その瞳を食い入るように見つめていた。
「・・・あたしはアイツを殺したんだ。憎いアイツを・・・」
狂気に浮かされたように言う。
「アイツはあたしの順子を奪ったんだよ・・・だから、殺してやった・・・。アイツが順子を抱きしめようと、腕を伸ばした時に隠し持っていた
ナイフでね。アイツは信じられないものでも見るようにあたしを見ていたよ」
マヤは恐ろしさで全身が震えていた。
助けを求めようと、声にしようと思っても声が出ない。


「いいんですか?助けに行かなくて。田島順子は人格を変えています」
隣の部屋でマヤと順子の様子を監視モニタ−を通して見つめている佐々上に看守が言う。
「いいんだ。このままで、順子だって、危害までは加えないさ。それに、彼女は多重人格者に会いに来たんだからな」
ゾッとするような冷たい表情で言い放つ。
「順子は相手の精神に入り込みます。知りませんよ。連れて来たお嬢さんがおかしくなっても」
「狂わせる為に連れて来たんだ」
佐々上は計画通りだと、口元をニヤリとさせた。


「・・・順子さん、いえ、あなたは誰なの?」
震える声でマヤは言葉を発した。
「・・・あたしかい?あたしは東子」
暗い瞳でマヤを見つめながら言う。
マヤはその瞳に飲み込まれてしまいそうだった。
彼女の中の闇の部分がゆっくりと、マヤの中にも流れる。
「あんたは何しにきた?あたしを殺しに来たのかい?」
「・・・いいえ、私はただ、あなたに会いに来ただけです」
マヤがそう言った瞬間、東子と名乗った女性が突然苦しみ出す。
「いやだ・・・いやだ・・・あたしを消すな・・・やめろ!!!」
尋常ではないその苦しみ方に、マヤは硬直したように動けず、ただ、ただ、その様子を見ていた。

「発作を起こしている」
看守と精神科医が突然入ってきて、アッという間に彼女をどこかへと連れていった。

「・・・帰ろう」
呆然としているマヤに佐々上が声をかける。



「君の演技に足りないものを言おうか」
佐々上は車を運転しながら、助手席のマヤに言う。
「・・・何ですか?」
「・・・狂気だ。この芝居は人の闇の部分を映し出す。君の瞳には全く狂気がない」
佐々上の言葉が頭の中で響く。
「・・・狂気・・・」
「そうだ。順子は元々は穏やかな女性だ。あの彼女をあそこまで変えてしまうものは、狂気と、恐怖心だ。
恐怖心は演じられても、君には狂気は演じられない。最後の場面で、恋人にナイフを向けるのは千香でもあるし、綾子でもあるんだ。
君に演じる事ができるか?」
「・・・わかりません・・・」
マヤは改めてこの役の難しさを知った。
「・・・わからないのなら・・・一度狂ってみるんだな。誰にも心の中に闇はあるもんだ」



私の中にある心の闇・・・。

アパ−トに帰ると、マヤは真っ暗な部屋の中で座っていた。
目を閉じ、自分の中の闇を探す。

「・・・マヤ・・・どうして、私を捨てたの・・・」
苦しそうな母親の顔と、声が聞こえてくる。
「母さん!」
驚き瞳を開けると、そこには誰もいなかった。
鼓動が大きく音を立て、打っていた。
その音を聞きながら、彼女の中の何かが変わり始めていた。





「田島順子に会いに行ったようです」
マヤと佐々上の様子を監視させていた部下から、そんな報告を真澄は受けていた。
「何?」
真澄の中の不安が大きくなる。
「今すぐ、佐々上を俺の前に連れて来い!」
真澄も田島順子の事は知っていた。
彼女がどんなに危ない人物かもよくわかっていた。


「僕に用ですか?」
白々しく真澄の前の佐々上が言う。
「あの子を田島順子の元に連れていったんだってな」
苛立たし気に煙草を吸いながら、佐々上を一睨みする。
「あぁ。昨日会わせた。おかげで、今日の彼女の演技は素晴らしかったよ」
「彼女が壊れたらどうする!ただでさえ、感受性の強い子だ。田島順子に会わせればどうなるかぐらいわかるだろう!」
バンっとテ−ブルを叩き、声を荒げる。
「壊れたら、壊れたでいいさ。僕は彼女に理想通りの綾子を演じてもらえればいい」
「貴様!」
佐々上の言葉に真澄は彼の胸倉を掴んだ。
「・・・初めて見たよ。おまえがそこまで感情を露にするの・・・あの子に惚れたか?」
そう言われ、真澄は佐々上の頬を殴った。
佐々上が1メ−トル程、飛ぶ。
「今すぐやめさせる!この芝居から大都は手をひくぞ!」
「惚れた女の為に会社を私物化するのか!」
唇を切り、血を流しながら、佐々上が声を荒げる。
「あぁ。そうだ!彼女が狂ってしまう所を見るよりは何倍もいい」
唇を噛み締め、佐々上を見つめる。
「・・・なるほど。心底惚れたという訳か・・・」
口にし、ふらりと立ち上がる。
「だがな、おまえが惚れていようが、関係ない。俺は何としてもこの芝居の幕を上げてみせる」
佐々上はそう言い放つと、社長室を出た。

「くそっ・・・」
真澄はやりきれなさを口にし、窓の外を見つめていた。






「どういう事です!」
次の日、真澄が稽古場を訪れると、マヤが一目散に真澄に詰め寄る。
「・・・何がだ」
感情を出さない冷たい表情で彼女を見る。
「芝居の幕はあがらないと・・・佐々上さんから聞きました。あなたがまた邪魔をしたと・・・」
マヤの瞳に怒りが募る。
「この芝居はリスクが大きすぎる。だから、大都は手をひいた」
煙草を手にし、口に咥えながら言う。
「そんな・・・。私、どうしてもこの役がやりたいんです!もう少しで何かを掴めそうなんです!」
「役を掴む前に君は壊れてしまうぞ!そんな危険な事させる訳にはいかない!」
真澄の言葉にマヤの中の何かが変わり始める。
「・・・どうしても・・・駄目なんですか・・・」
真澄に背を向けながら、さっきとは違う声のト−ンで話す。
「あぁ、駄目だ」
真澄がそう言った瞬間、マヤはテ−ブルの上に置いてあったナイフを手にし、襲いかかった。
「なっ・・・マヤ!」
真澄は寸前の所で交わし、驚いたようにマヤを見つめた。
ナイフを手にしている彼女はまるで別人のような瞳で真澄を睨みつけていた。
「あなたが憎い!」
そう言い、尚も真澄に切りかかる。
「しっかりしろ!君は誰だ!」
マヤのナイフを避けながら、口にする。
「・・・私は・・・千香・・・」
完全に彼女の表情は千香という別の人格になっていた。
「君は北島マヤだ!千香はただの役だろ!」
必死でマヤを説得する。
「違う・・私はここにいる。役なんかじゃない!」
ナイフを持ち、真澄目がけて走り寄ってくる。
「しっかりしろ!」
ナイフを持つ手を掴み、マヤを抱き寄せる。
それでも、彼女の力は緩まなかった。
マヤの瞳は依然として狂気が宿る。
「君は北島マヤだ・・・。思い出してくれ。芝居が大好きで、演じる事が何よりも好きで・・・そして、俺の愛する人だ・・・」
切なそうに瞳を細め、マヤを見つめる。
一瞬、真澄の手から力が抜け、彼女はその瞬間に彼のわき腹を刺した。
「うっ・・・」
苦しそうに真澄が表情を歪める。
赤い血がナイフを伝わり、床にポタポタと落ちていく。
その光景に彼女の瞳から涙が溢れ出す。
「・・・愛してるんだ・・・北島マヤを・・・」
痛みに耐えながら、口にし、強く彼女を抱きしめて、唇を奪う。
彼女は瞳を大きく見開き、ナイフを持つ手を放し、彼の腕の中で意識を失った。


「・・・速水!」
マヤを担ぎ、血だらけになって控え室から出てくる真澄を佐々上が見つける。
「彼女を・・・頼む・・・警察沙汰にはしないで・・・くれ・・・」
そう言い終わると、真澄は気を失った。




「マヤ!」
彼女が目を覚ますと、そこは病室だった。
「・・・麗・・・」
ぼんやりと心配そうな彼女を見つめる。
「・・・よかった。あんた2日も眠ったきり、目を覚まさないから・・・心配したよ」
「・・・2日?私はどうしたの?」
「突然、倒れたんだよ」
「・・・倒れた・・・」
最後の記憶を思い出すように考えを巡らす。
浮かんだのは真澄の顔だった。

そうだ・・・。私、速水さんと話していて・・・それで・・・。

「強盗が入って、マヤを襲ったらしい、そこで、速水さんが現れて、あんたを庇って刺されたんだよ。意識を失ったあんたを
抱えて、速水さんは助けを呼んだって聞いた」
「えっ!速水さんが刺された!」
「あぁ。この病院に彼も入院しているよ。傷はそんなに深くなくて、大した事はないらしい」
「・・・あっ、私、速水さんに会いに行くわ」
そう言い、ベットから起き上がろうとする。
「今は駄目だよ。あんた目を覚ましたばかりだし・・・速水さん、病院でも仕事してるから、忙しいみたいだよ」
「・・・そう」
「じゃあね。私そろそろバイトの時間だから。明日も来るからね。ゆっくり休めよ」
「うん。ありがとう。麗」



「・・・これでいいんですか」
麗はマヤの病室から出ると、廊下に立つ佐々上に聞いた。
「あぁ。今の彼女に真実を告げない方がいいと、医者が言ってたし・・・。それに、速水の希望でもあると思う」
「・・・速水さん・・・意識は?」
「傷は大した事ないらしいんだが・・・出血が酷かったらしく、まだ意識を戻していない」
「・・・そうですか」




”あんたが刺したんだよ”
眠っていると、突然、そんな声がマヤの耳に入ってくる。
「えっ」
驚いて、目を覚ますと病室には誰もいなかった。
「・・・何・・・今の・・・」
マヤの中で底知れぬ恐怖が生まれる。
”私はここにいる”
頭の中で再び声がする。
「えっ・・・」
”あんたの中にいるんだよ”
「・・・誰?」
”千香・・・あんたも知ってるだろ”
声は聞こえるのに姿は見えない事に、不安になる。
”あんたが刺したんだよ・・速水をね。あいつはもう、戻って来ないよ”
「・・・なっ・・・でたらめよ!そんな事!」
”上の病室に行ってみな。あいつが眠っているよ”
そう言われ、マヤは何かに連れられるように病室を出た。



「・・・速水さん・・・」
いろいろな計器に繋がれ、蒼白い顔で眠っている真澄の姿がそこにあった。
その姿に胸が痛くなる。
「・・・本当に・・・私が・・・」
涙を浮かべ、口にする。

「あなた、どこから、入ったの?もう、消灯時間よ」
真澄のベットの前で佇むマヤを見つけ、看護婦が言う。
「・・・私が速水さんを・・・私が速水さんを・・・」
マヤは看護婦に何の反応もしめさず、何かをブツブツ口にしていた。
「・・・あなた・・・まさか」
様子がおかしい事に気づき、医者を呼びに行こうとした瞬間、華奢な彼女の体が宙を舞った。





”憎いあの男を殺すのよ・・・。”
”母さんを奪ったあの男を・・・。”
”母さんを殺したあの男を・・・。”

”速水真澄を・・・。”

千香の声が幾度もマヤにそう囁きかける。

”やめて・・・。”
”私はもう、速水さんの事を憎んでなんかいない!”

”嘘よ!心の傷を見ないようにしているだけだわ。”

マヤの言葉を否定するように千香が言う。
”違う!そんな事・・・ない!”

”マヤ・・・しっかりしなさい!”
別の声が聞こえてくる。

”誰?”
振り向くと、そこには真澄がいた。

”君は強い子だ。”
”役に飲まれてはいけない・・・。”
”さぁ、こっちへ・・・。”

マヤに手を差し出しながら、真澄が言う。
マヤはその手を掴もうと手を伸ばした。
その瞬間、違う記憶が蘇る。
その中でマヤは真澄にナイフを向け、そして、彼に突き刺していた。
真っ赤な血が真澄の体が流れ出る。

”いや−−−!!!”
マヤは堪らず、叫び声を上げた。

”あんたがやったんだよ。”
千香が嬉しそうに微笑む。

”マヤ、駄目だ、そいつの言葉を聞くな!”
血だらけになりながら真澄が彼女に言う。
”俺だけを見ろ!!”
そう言い、彼女を抱きしめ、唇を奪う。
その瞬間、彼女の中の何かが、目覚め始める。




「・・・マヤ・・・」
昨日意識を取り戻したばかりの真澄は人の目を盗んで、彼女の病室に来ていた。
眠る彼女は時に、苦しそうに魘されている。
真澄はその度に彼女の手を握り、彼女の名を呼んでいた。
「・・・戻ってこい・・・俺のマヤ・・・」



私は・・・一体・・・誰なの?
胸を締め付けるこの感情は・・・一体・・・。
私を優しく包み込んでくれる・・・あの人は誰?

狂気と正気が絡み合い、彼女を混乱させる。

そして、母親の苦しそうな表情が浮かびあがる。

”・・・母さん”
”マヤ、私をよくも捨てたわね。許さないよ!”
そう言い、強く彼女の首を締める。
”うっ・・・苦しい・・・”
呼吸ができなくなり、必死でもがくが尚も母親の手は彼女の首を締め付けた。




「・・・か・・あ・・・さん・・・」
苦しそうに魘されながら、マヤが幾度も呟く。
「・・・マヤ」
額に汗を浮かべ、夢にもがき苦しむ彼女に胸が潰れそうな思いになる。
「しっかりしろ!」
力強く彼女の手を握り、悪夢から呼び起こそうとする。
「・・う・・・ん・・・」
彼女の声が痛々しく響く。
「マヤ!マヤ!マヤ!」
真澄は狂ったように彼女の名を呼び続ける。




マヤ・・・マヤ・・・マヤ・・・。
  マヤ・・・マヤ・・・マヤ・・・。

誰?私を呼ぶのは・・・誰なの?

浅い意識の部分で彼女を呼ぶ声がする。
その声に胸が温かくなる。
気づくと、彼女は暗闇の中で涙を流していた。

”泣き虫だな。おチビちゃんは”
優しい声とともに、ハンカチを差し出される。
顔は見えないが、その声に懐かしさを感じる。
”俺が君の涙を全て受け止めてやる”
次の瞬間、抱きしめられる。
”君の悲しみも、苦しみも俺が受け止める。だから、目を覚ましてくれ・・・。俺の大事なマヤ”
その言葉に顔を見上げると、辛そうな表情を浮かべた真澄が視界に入った。

”・・・速水・・さん・・・”
そう口にした瞬間、眩しい程の光が彼女の周りを包み込む。
そして、彼女の分身であった千香が光に吸い込まれ、霧のように消えていった。



「・・・マヤ?」
目を開け、ぼんやりと天井を見つめる彼女に声をかける。
マヤは聞き覚えのある声を耳にすると、ゆっくりと真澄の方を向いた。
その瞳には千香の面影はなく、穏やかだった。
「・・・速水さん・・・」
やっと、彼女が帰って来た事を知ると、真澄は嬉しそうに微笑んだ。
「・・・君に会いたかった」
そう言い、強く、彼女抱きしめる。
マヤは真澄の腕の中で生まれたての赤ちゃんのように泣き崩れた。




「真澄様、大人しく寝てて下さい。退院が伸びては秘書として困ります」
真澄の見舞いに来た水城が厳しい表情で真澄を見る。
それと言うのも、真澄が大人しく寝ていないせいで、傷が開き、本当は今日が退院だったはずが、
一週間延びてしまったのが原因だった。
「マヤさんの所に見舞いに行くのもいいですけどね。その前にご自分の体を治して下さい」
マヤの事を言われて、真澄は苦笑を浮べるしかなかった。
「そう、硬い事を言うな。こんな退屈な入院生活を送るには彼女のような存在が必要だよ」
毎日のようにマヤの病室を訪れは彼女をからかい、笑い崩れるものだから、おかげで彼の傷は中々塞がらなかった。
「マヤさんは明日退院ですよ」
その言葉に真澄の表情が固まる。
「何!」
「残念ですわね。真澄様の暇つぶしがいなくなって」
水城は意地の悪い笑いを浮べた。
「早くお治し下さいませ」
そう言い、水城は真澄の病室を後にした。

「・・・マヤが退院か・・・」
嬉しい事なのに、何だか淋しかった。
こんなふうに毎日顔をあわせ、他愛もない事を話すという事は今までなかった事だった。
真澄はマヤとの時間に安らぎを感じていた。
退院すれば真澄には山のよな仕事が待っていって、そんなゆとりなど持てるはずはない。
「はぁぁ」
「どうしたんですか?ため息なんてついて」
いつものようにマヤが真澄の病室に現れる。
「何でもないさ。それより、聞いたぞ。明日退院だってな。おめでとう」
マヤににこやかな表情を浮べる。
「速水さんより先に退院しちゃうの・・・何だか、申し訳なくて」
「気にするな。俺だって本当は今日退院予定だったんだから。たった一週間延びただけだしな」
「・・・あの、まだ、痛みますか?」
心配そうにマヤが真澄に言う。
「えっ・・・いや、もう、大丈夫だよ」
「・・・傷・・・見せてもらって・・・いいですか?」
遠慮がちにマヤが言う。
「あんまり、見ていいものじゃないぞ」
「・・・見たいんです」
マヤの一途な瞳に真澄は仕方なく、パジャマの上着を脱ぎ捨て、わき腹に巻かれている包帯を解いた。
そこには20cmほどの縫い傷があった。
「手術をする為に開いたから・・・ちょっと、目立つが、一ヶ月もすれば、綺麗に薄くなるそうだよ」
じっと傷を見つめ、何も言わない彼女を安心させるように言う。
「・・・ごめんなさい。ごめんなさい・・・」
マヤは涙を流し、真澄の傷口にそっと触れた。
「私が、速水さんの言う事を聞いて、あの芝居に出なければ、あなたを傷つける事もなかった・・・」
「・・・マヤ・・・」
「私、今度の事で自分の未熟さを実感しました。亜弓さんに遅れをとるまいと、焦っていたんです。だから、何でもいいから演じてみたかった」
心の底にある不安を口にする。
「この芝居からは手を引きます。今の私にはまだ演じられません・・・でも、いつかは演じてみたい」
「あぁ。そうだな。いつか君はこの役が演じられる程の役者になると思う。その時は招待してくれ」
「はい」



その日から5年の年月が流れ、マヤはついに、唯一演じられなかった舞台に立った。
彼女の狂気と正気の混ざった演技に観客は引き込まれ、連日のように舞台は超満員だった。
真澄は5年前とは変わらずに今でもマヤを見守り続けていた。
その瞳には愛しさが篭もる。

コンコン・・・。

舞台が終わり、控え室にいる彼女に扉を叩く音が聞こえる。
マヤは嬉しそうにドアを開けた。
そこには両手いっぱいの紫の薔薇を抱えた真澄が立っていた。
「・・・速水さん」
マヤは愛しいその名を口にした。
「やぁ、千秋楽おめでとう。よかったよ」
その言葉を聞くと、マヤは輝く程の笑顔を浮かべた。
「私がこの役を演じられたのも・・・あなたがいたからよ」
薔薇を受け取ると、テ−ブルの上に置き、彼の首に腕を絡ませる。
「妻を支えるのは夫の役目だからね」
「旦那様の鏡ね」
マヤはそう言い、真澄との距離を一気に縮め、その唇を奪った。
真澄はマヤのキスに応えるように、彼女をきつく抱きしめた。
二人の間にこの5年の想いが過ぎる。

真澄が紫の薔薇の人だと知った日。
紅天女の舞台。
初めて気持ちを通じ合わせた日・・・。
周りに祝福された結婚式・・・。

そして、やっと、演じる事ができた舞台・・・。

「あなたに出会えてよかった」
唇を離し、マヤが口にする。
「・・・あぁ、俺も君に会えてよかった・・・」
そう言い、今度は真澄が彼女の唇を塞いだ。










                        THE END


【後書き】
今回はシリアスに書いたつもりです(笑)マヤちゃんに刺される真澄様ってどんなかなぁ〜(←危ない)
なんて事をレポ−トを書きながら思ってしまい、課題を放り出して書き出してしまいました(笑)
何か思っていたのと違うものになってしまいましたが・・・まぁ、いいかな(笑)

ここまでお付き合い頂きありがとうございました♪


2001.10.15.
Cat













本・漫画・DVD・アニメ・家電・ゲーム | さまざまな報酬パターン | 共有エディタOverleaf
業界NO1のライブチャット | ライブチャット「BBchatTV」  無料お試し期間中で今だけお得に!
35000人以上の女性とライブチャット[BBchatTV] | 最新ニュース | Web検索 | ドメイン | 無料HPスペース