紅 天 女 -1-


     「・・・紅天女が演じられない・・・」

    今の彼女にとっての最大の悩みであった。
    理由は・・・わかっていた。
    いくら演じても、今の彼女には悲恋に苦しむ女以外は演じられなかった。

    忘れなくちゃ・・・早く、あの人を忘れなくちゃ・・・。

    心の中で呪文のように繰り返す。
    今は恋になんか、泣いている場合じゃないのだから・・・。

    「マヤ、しっかりするのよ!」
    パンっ!と頬を叩き、鏡の中の自分を叱咤する。

    それでも、彼女の演技は散々なものだった・・・。
    頑張ろうと、思えば思う程、気持ちが空回りをして、不自然なものになってしまう。

    「・・・北島・・・もう、いい」
    黒沼からついに、諦めたような言葉が出る。
    「・・・先生、でも・・・」
    すがるような眼差しで見つめる。
    「・・・何度、演じても今よりましなものはできない・・・。時間の無駄だ」
    キツイ言葉を言い渡される。
    思わず、涙ぐみそうになる。
    ぐっと、堪え、唇を噛み締める。
    「他の者の稽古の邪魔だ。端にいろ」
    そう言われ、マヤは力なく、スタジオの壁に寄りかかるようにして、立っていた。
    ぼんやりと、他の出演者の演技を見つめる。
    どれだけこの舞台に皆が集中しているかわかる。
    彼女なしで、テンポ良く進む、稽古に胸が痛んだ。

    私が皆の足を引っ張っている・・・。

    それは疑いようもない事実だった。
    演じられない事に悔しさが込み上げる。

    私は、何をしているの?
    たかが、恋の一つに、自分を見失って・・・。
    皆の足を引っ張って・・・。

    申し訳なくて涙が頬を伝う。
    悔しくて・・・やり切れなくて・・・。
    気持ちがぐちゃぐちゃに入り乱れていた。



    「亜弓、立ちなさい!!」
    姫川歌子の厳しい声が飛ぶ。
    もう、そこにいるのは母親ではなく、プロの女優としての顔だった。
    亜弓はゆっくりと、立ち上がり、歌子と二人だけの稽古に向き合う。
    今の彼女には何も見えていなかった。
    広がるのは真っ黒な闇、闇、闇・・・。
    見えないという事がこんなにも辛い事だとは知らなかった・・・。
    便りになるのは、本能にも近い、研ぎ澄まされた勘だけだった。

    「違う!紅天女はそんな表情は浮べない!!」
    心を鬼にして、遠慮なく亜弓に怒声を上げる。
    彼女の紅天女への思いを知っているから・・・。
    今の亜弓をかきたてられるものはそれしかないと知っているから・・・。
    それが亜弓に対する最大限の愛情表現だった。

    亜弓は必死に目の前のものにしがみついた。
    今の彼女にあるのはただ、ただ、紅天女を演じてみたいという強い欲求。
    北島マヤに負けたくないとう役者としてのプライドだった。
    例え、目が見えなくても、一生、光を目にする事はできなくても・・・。
    紅天女を掴む為なら、何だってする。
    どんな難しい問題だって乗り越えてみせる。
    例え、悪魔に魂を売ってでも・・・彼女は紅天女が欲しかった。

    「・・・アユミ・・・」
    ハミルはそんな亜弓を見つめていた。
    狂おしい程の情熱に、神々しいものでも見るような表情を浮べる。
    過酷な彼女の運命に胸が痛み出す。

    君にの瞳になる事ができたら・・・どんなにいいのだろうか・・・。




    「・・・マヤちゃん、大丈夫?」
    稽古が終わり、桜小路がいつもと変わらない優しい表情を浮べる。
    マヤは稽古が終わった後も、スタジオの壁に張り付いてしまったかのように動かなかった。
    いや、動けなかったのだ・・・。
    桜小路に声をかけられ、ようやく、現実に意識を戻す。
    優しい瞳にすがりつくように涙が溢れてくる。
    「・・・私、私・・・」
    苦しそう表情を歪める彼女が痛々しく見えた。
    「・・・マヤちゃん、大丈夫。君なら、きっと演じられるよ」
    ギュッ彼女を抱きしめ、安心させるように口にする。
    「・・・桜小路くん・・・」
    彼の温かい腕の中で、マヤは大きく声を張り上げて泣いていた。
    まるで、支えるものが泣くなってしまった子供のように・・・。
    彼女の涙は止まらなかった・・・。




    「真澄様、私、幸せです」
    夜の公園を速水と一緒に散歩しながら、紫織が口にする。
    その表情は間近に控えた真澄との結婚に幸福そうだった。

    ・・・紫織さん。

    真澄の心がズシリと痛む。
    「あなたとこうして、いられるだけで・・・心が落ち着きます」
    そう言い、彼の腕を取り、愛しそうに腕を組む。
    何だか、その表情に罪悪感が芽生える。
    「・・・この私にそう言う気持ちを持つのはあなただけですよ。他の者は私の顔を見た途端に胃を悪くします」
    真澄のジョ−クに”まぁ”と言って、紫織は嬉しそうに笑った。
    ほのぼのとした空気が二人を包んでいた。
    真澄にとって、紫織は愛すべき存在とは言えないまでも、嫌いだとは思えない女性だった。
    最近になって、彼女と一緒にいる時間が増えた。
    そして、今まで見えなかったものが見えてきたのだ・・・。
    彼女が純真な心を持っている事を・・・。それは、どこかマヤを連想させられた。
    彼女となら、平穏な家庭を築き、安定した生活を送る事ができると・・・真澄は確信していた。
    マヤを思うような激しい気持ちはないけど、穏やかに、静かに思える気がしていた。
    だから、真澄は、大都芸能の速水真澄としてしか、もう、マヤには会わないと決めていた。
    自らの運命を何の抵抗もなく受け入れる事にしたのだ。

    「・・・紫織さん、寒いでしょ」
    優しく微笑み、首にしていたマフラ−を彼女に巻いてやる。
    それだけで、紫織の透き通るような肌は真っ赤に染まる。
    「・・・それじゃ、真澄様が寒いでしょ・・・」
    照れたように俯き、口にする。
    「大丈夫、温かいですよ」
    包み込むような笑顔を向ける。
    紫織の心は真澄でいっぱいだった。





    演じられない・・・・。
    何も見えない・・・。
    せめて、目が見えれば・・・。

    稽古を重ねる毎に亜弓の焦りは募っていた。
    目が見える時でさえ、紅天女を完全には掴んでいなかったのに・・・。
    日ごとに焦りは増し、苛立ちが募る。

    「アユミ、どうしたの?そんな怖い顔がして」
    フランス語訛りの日本語でハミルが話し掛ける。
    「・・・ハミルさん?」
    彼の方に顔を向ける。
    「・・・せっかくの美人が台無しだよ。笑って」
    励ますように優しく話し掛ける。
    最近、ハミルは毎日ように亜弓の元に訪れていた。
    「どうして、私に構うんですか・・・。私なんて、目は見えないし・・・。楽しい会話の一つもできないのに」
    不安そうに言葉を口にする。
    「・・・どうして?そんなの愚問ですね。僕が亜弓の側にいたいから、いるだけです」
    「・・・私が目が見えないから、同情して下さっているの?」
    亜弓の言葉に一瞬、ハミルが言葉を失ったように黙る。
    その沈黙が目の見えない亜弓にとって、重たいものだった。
    「・・・そんな悲しい事、言わないで・・・。僕は同情しているから、一緒にいる訳じゃない・・・。
    ただ、君と一緒にいたいだけなんです」
    そう言い、亜弓を抱きしめる。
    「君はいつになったら、僕に心を開いてくれるんですか?」
    ハミルの腕に抱きしめられ、ドキッとする。
    「・・・ハミル・・・さん・・・」




    「・・・ただいま・・・」
    いつものようにアパ−トにマヤが戻る。
    その表情は日を重ねる毎に暗くなってく。
    まるで、抜け殻になってしまったように、アパ−トに戻れば、ぼんやりとしていた。
    時折浮べる切なそうなため息が痛々しく見える。
    ずっと、マヤを見守ってきた者として、麗は何とかしてやりたかったが、
    今のマヤに何を言っても彼女の心には何も届いていないようだった。

    「・・・マヤ、あたしは、あんたに何もしてやれないのか?」
    苦しそうに告げる麗の言葉に、マヤは何も応えない。
    「マヤ、どうしてしまったんだ」
    麗が何を言おうと、彼女は空ろな表情を浮べているだけだった。
    それでも、朝になれば、起き、マヤは何かを掴む為に稽古場に行った。
    今の彼女が生きているのは紅天女があるからと言ってもいいぐらいだ。
    もし、紅天女という目標を見失えば、報われない恋に彼女の気が狂ってしまう事は目に見えていた。



    「・・・北島、何しに来た」
    稽古場にいる彼女に黒沼が冷たく、言い放つ。
    その言葉に、胸が痛かった。
    「・・・稽古をしに来たんです・・・」
    足元が震えて、立っているのもやっとという状態で、黒沼に言い返す。
    「今のおもえは、幾度、稽古をしても無駄だ・・・」
    突き放すように黒沼が言う。
    「・・・それでも、私は紅天女がやりたいんです!お願いします。私に稽古をつけて下さい」
    訴えるように黒沼を真っ直ぐに見つめる。

    北島・・・。

    マヤの一途な姿に胸が痛む。
    だが、ここで、彼女を甘やかす訳にはいかない・・・。
    彼女自身が抱えている問題と向き合わせなければ、紅天女の舞台など成功するはずもなかった。

    「はっきり言うが、今のおまえに阿古夜は演じられない・・・。無理だ。
    おまえは自分の抱えている問題を芝居に逃げている。いつまでたってもそのままじゃ・・・何も変わらない」
    黒沼の言葉がグサリと胸に刺さる。

    ・・・芝居に逃げている。

    その言葉が何度もマヤの心に響く。
    「おまえの中にある問題を解決しなければ、俺にはこれ以上何もできない」
    マヤの意識が呆然とする。
    黒沼に言われるまでもなく、本当はわかっていた事だ・・・。
    自分がどうして、紅天女を演じられないのか・・・。
    ケジメのつけられない気持ちに揺れている弱い自分がいるからだ。
    「・・・失礼します」
    黒沼に深々と頭を下げ、マヤは逃げるように稽古場から出ていった。
    「・・・マヤちゃん・・・」
    桜小路が彼女を追いかけようとする。
    「よせ。今は彼女を一人にさせておくんだ」
    黒沼が彼を制す。
    「・・・でも」
    納得のいかないように黒沼を見る。
    「・・・北島の問題におまえが首を突っ込むな・・・。彼女一人に考えさせるんだ」
    厳しく黒沼に睨まれ、桜小路はそれ以上何も言えなかった。




    「・・・稽古が上手くいっていない?」
    水城から状況を聞き、唖然とする。
    先日会った、マヤの顔が浮かぶ。
    紫の薔薇の花束を彼女の前で思いっきり、踏み潰した時の、何とも言えない苦しそうな顔。
    彼女が奮い立ってくれるなら、自分はとことん憎まれようと思い、やった事だった。
    しかし、結果は真澄の予想を大きく裏切るものだった。
    「・・・どうして・・・」
    言葉が出てこない。
    いつもなら、彼女は俺の言葉で奮い立ったはずなのに・・・。
    「・・・真澄様、一度、マヤさんとお話になった方が宜しいかもしれません」
    水城の言葉に真澄の心がぐらつく。
    今、彼女に会うのは怖かった。
    やっと、紫織との結婚を考えられるようになったのに、今、マヤを目にしてしまえば、
    また気持ちが揺らぐ事は目に見えていた。
    「・・・今、ここで、あの子を見捨てるのはあまりにも、可哀想です」
    水城の言葉が刺さる。
    「・・・しかし、俺はどんな顔をして・・・マヤに会えば・・・」
    「・・・しっかりなさって下さい!あなたは大都芸能の社長なんですよ」
    いつなく、うろたえる真澄に喝を入れる。
    その言葉に真澄は自分がどう彼女に接するべきかを悟った。



    「・・・速水のダンナは北島に会ってくれるのか?」
    電話越しの黒沼が水城に言う。
    「えぇ。多分・・・」
    自信なさそうに水城が答える。
    「でも、本当に、今のマヤちゃんに真澄様を会わせていいんですか?」
    「・・・今北島を救えるのは、速水のダンナしかいない・・・」
    確信めいた黒沼の言葉に水城は何かを感じ取った。
    「・・・まさか・・・」
    「・・・北島もとんでもない相手に恋をしたものだよ」
    苦笑気味に黒沼は答え、電話を切った。

    何て事なの・・・。
    マヤちゃんが真澄様に・・・。

    水城の中でやり切れないものが生まれる。



    「・・・真澄様?」
    気づけば、紫織が不安そうな表情を浮べていた。
    ハッとし、彼女を見つめる。
    「・・・どうしたんですか?今日は、ちっとも私の話を聞いていないみたい・・・」
    不機嫌そうな表情を浮べる。
    「・・・すみません。仕事の事で・・・ちょっと、気になる事があったので・・・」
    昼間、水城の言葉を聞いてから、真澄の意識はどこかにいってしまったようだった。
    一度、マヤへの思考がスイッチされると、仕事も何もかも、手につかなくなるのは、彼の昔からの悪い癖だった。
    目の前の女性を見つめて、改めて、自分が誰を好きなのかわからされる。
    鍵をかけて蓋をし、心の奥底に沈めていた気持ちが、再び湧き上がってくるのだ。
    「・・・真澄様、私だけを見て下さい・・・」
    瞳に薄っすらと、涙を浮べ、懇願するように口にする。
    紫織は紫織で不安なのだ・・・。
    どんなに想っても真澄が離れていくようで・・・。
    時折、彼がどこか遠くを見つめている事を知っているから、安心はできなかった。
    いくら婚約をしても・・・。
    本当は彼が自分を愛してはいない事を知っていた。
    それでも、真澄を愛していた。
    だから、彼が自分を拒絶しようとした時に、幾度となく、彼女は命をかけて、彼に想いを告げた。
    そして、彼は今でも側にいてくれる。
    自分の想いがやっと叶ったのだと思っていた。
    真澄が選んだのはあの女優ではなく、自分だと思っていた。

    でも・・・。

    また、こうして、魂をどこかに置いてきてしまったような表情を自分に向ける。

    真澄様、どうしてなの・・・。
    こんなに、こんなに愛しているのに・・・。
    あなたの心は一生、私にはくれませんの?




    ”君はいつになったら、僕に心を開いてくれるんですか?”

    ハミルの言葉と抱きしめられた時の温もりが亜弓の心に響いていた。
    今まで、何度なく男性に言い寄られて来たが、あんなふうに言われたのは初めてだった。
    亜弓の心の中で何かが灯り始める。

    「・・・亜弓君?どうしたのかね?」
    ぼんやりとする彼女に演出家の小野寺の声がかかる。
    「・・・いえ、何でも・・・」
    「そういえば、北島マヤは紅天女を降りたそうだよ」
    嬉しそうに小野寺が話し始める。
    その言葉に、亜弓は我が耳を疑った。
    「黒沼組は稽古にならず、ボロボロだそうですよ。もう、紅天女は亜弓君に決まったも当然だ」
    「嘘よ!そんな!あの子が紅天女を諦めるはずがない!!」
    凄い剣幕で亜弓が怒り出す。
    ”へっ”っと小野寺は驚いたように亜弓を見つめた。
    「あの子はそう簡単に諦める子じゃない・・・」
    「だが、稽古場に北島マヤの姿はないそうだ」
    「・・・戻って来るわ。あの子は・・・紅天女が欲しいなら、必ず、戻ってくる」



    キッドスタジオを後にしてからのマヤの消息は誰にもわからなかった。





                                         

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