あたたかい・・・。
速水さんの腕の中・・・。 しっかりと私を抱きしめてくれる・・・。
いつもそうだった。 私がくじけそうになったら、あなたは紫の薔薇で包んでくれた。 あなたの真心で・・・。
このまま時が止まってしまえばいいのに・・・。 こうして、あなたと一緒にいられればいいのに・・・。
「・・・ちびちゃん・・・」 視線を腕の中のマヤに向け、囁くように告げる。 「・・・少しは落ち着いたみたいだな」 マヤが泣き止んだ事を知ると、クスリと優しく微笑む。 「・・・ごめんなさい。私、また速水さんを困らせて・・・」 申し訳なさそうに見つめ、呟く。 その瞳が切な気に涙の痕を残している。
愛している・・・。 今ここでそう告げられたら・・・どんなに俺は・・・。
じっと、彼女の視線を見つめ、そんな事を思うが、すぐに理性の声が否定する。 おまえには婚約者がいるのだと幾度も耳の奥から声がする。 真澄の心の中を写し出すように眉間に寄せられた皺に、マヤは彼の中の苦悩を悟った。 こんなに辛そうな真澄を見たのは初めてだった。
「ちびちゃん・・・いや、マヤ・・・、俺は君の気持ちが嬉しい・・・」 自分の気持ちに迷いに迷った挙句、選ぶように言葉を口にする。 「君にそれ程まで、思ってもらえて光栄だ」 優しい笑顔を向ける。 その笑顔に胸の中が切なさでいっぱいになる。 「・・・速水さん・・・」 マヤはギュッと真澄の背中に腕を回し、胸に顔を埋めた。 暫くの間、彼の温もりを確かめるようにそうする。 真澄も彼女に答えるように、きつく抱きしめていた。
「・・・私、このままあなたを好きでいていいですか?」
搾り出すような声で告げ、問うように見つめる。 彼女の言葉に体中の血が煮えたぎり、熱くなる。 ただ、呼吸をするのにも苦しい想いに駆られる。 真澄はマヤを抱きしめたまま、ベットに倒れた。 互いの距離がこれ以上ない程近くなる。 マヤの上に覆い被さり、大切なものを抱きしめるように暫く、体を合わせる。 服を着たままなのに、まるで裸体のまま、抱き合っているような熱さを感じる。
「・・・速水さん・・・!」 感情が高ぶり、マヤは彼の背に手を回した。 熱っぽい声で彼の名を囁く。 マヤをじっと見つめ、頬を優しく指でなぞり、唇を近づける。
”真澄。この結婚はおまえの意志では変えられない事を、よく覚えておくんだな”
唇を重ねる直前、英介の言葉が脳裏に過ぎる。 ハッとし、真澄は力なくベットに沈み、マヤから離れるように横にずれる。
「・・・ハハハハハハハ」 突然、真澄が笑い出す。 その笑いにマヤはビクッとする。
こんな時まで、義父に縛られているなんて・・・俺は・・・。
完全に速水英介に縛られている自分が情けなかった。 愛する女一人にキスの一つもできない自分が惨めに思えた。 力なく笑い、自分の腑がい無さを嘲る。 「・・・速水さん?」 マヤの声に悲しそうな表情を浮かべる。 「・・・すまない・・・」 小さく、呟くと真澄はベットから起き上がり、マヤに背を向けた。 マヤにはその背中が泣いているように見えた。 「・・・謝らないで下さい・・・」 真澄の背中を抱き締める。 背中にマヤの温もりを感じる。 愛しさが強く、胸に込み上げてくる。
このまま彼女を抱いてしまえたら、どんなにいいのだろうか・・・。 だが、俺にはできない・・・。 してはならないのだ。 もうすぐ結婚する男のする事じゃない・・・。 この結婚はどうあっても逃れられないのだから・・・。 抱いてしまったら、、彼女を悩ませるだけなのだから・・・。 この想いは一生胸の内にしまっておくしかない・・・。
俺に許されるのは彼女を見守り続ける事だけ・・・。 影からそっと見つめ続ける事だけ・・・。
どんなに、好きだと言われても・・・。 愛していると言われても・・・。
「・・忘れるんだ・・・俺の事は・・・」 絞りだすように口にする。 その言葉にマヤがビクッと震えた。 顔を見なくても、今、彼女がどんなに悲しそうな表情をしているかわかる。 「・・・忘れるんた。俺なんか好きでいちゃいけない・・・。知ってるだろ?俺は冷血漢だ。 君から母親を奪った男だ・・・」 自分で口にした言葉に胸が痛む。 彼女が傷ついていると知っているから・・・。 だが、それでも、速水は言わなくてはならない・・・。 彼女の心から彼を追い出すために、忘れさせるために・・・。
「君に俺が紫の薔薇を贈り続けたのは、君が月影さんの弟子だったから、君が紅天女候補の女優だと知っていたからだ。 だから、贈った・・・。だから、援助し続けた。君が紅天女を掴んだ時に言うつもりだった。俺が紫の薔薇の人だって。きっと、君の事だ。 それを聞いたら、俺に紅天女の上演権を渡すと思った。だから・・・俺は君に・・・」 そう口にした途端、速水の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。 嘘をつく事はなれていたはずなのに、自らの嘘にズタズタに心が切り裂かれる。 マヤは真澄の言葉に金縛りにあったように動けなかった。
そんな速水さんが・・・。 私を支えていたのは紅天女のため? 紅天女の上演権を得るために・・・そんな・・・。
「俺は汚い男だ・・・。忘れるんだ。こんな男の事は・・・」 感情を切り捨て、冷たい表情でマヤを振り向く。 マヤは泣いていた。
「・・・嘘・・・そんなの・・・嘘・・・」 涙声で訴える。 「・・・嘘じゃない。俺は君が思っているような男じゃない。君から見返りが欲しいから、紫の薔薇を贈ったんだ」 マヤの心臓を剣で貫くように、低い声で言い捨てる。 「紫の薔薇は紅天女へのただの投資にすぎない・・・」 恋心を絶つように言い放つ。 「・・・酷い!酷い!!そんなの・・・酷すぎる!」 真澄の胸に拳を幾度も振り落とす。 彼はよける訳もなく、正面から受け止めていた。 「・・・知っているだろう。俺はそう言う男だ。欲しい物の為なら手段は選ばん」
すまない・・・。 俺は君を傷つけるしかできないんだ・・・。 「・・・俺にとって君は商品にしかずきない・・・。悪いが、それ以上の気持ちは持てないんだ」 さよなら・・・マヤ・・・。 俺を好きだと言ってくれてありがとう・・・。
真澄の言葉にマヤは力なく、床に蹲る。 真澄はそんな彼女を無視するように部屋を出た。
パタンとドアが閉まった音がする。 マヤはその瞬間、声を上げて泣いていた。
夜は明け、太陽が顔を出し始めていた。 真澄はマヤと過ごしたこの夜の事を想いながら、朝の街を歩いた。 もう、これ以上傷つく事はないという程、彼の心は傷ついていた。 どくどくと心が血を流し、悲鳴をあげる。 彼女を愛していると・・・。
その想いに耐えるようにきつく唇をかみ締める。 何度も頭を振り彼を好きだと告げたマヤを記憶の中から追い出した。
マヤは慌しい時間の中に身を置いていた。 毎日のように訪れる上演を申し出る芸能各社に、彼女は余計な事を考えないですんだ。 もう、速水とは半月以上会っていない。 紅天女を上演させる事が今のマヤの活力となっている。 どんなに、傷ついても、彼女には芝居がある。 その事が壊れそうな彼女を支える。
最近のマヤは話し掛けるのも躊躇われる程、気迫に満ちていた。 しかし、そんな彼女が痛々しくも見えた。
「・・・マヤちゃん、大丈夫 ?」 稽古場でぼんやりとしている彼女に、ふと声がかかる。 「・・・桜小路君」 振り向くと、心配するような桜小路の視線があった。 「・・・えっ、何が?」 「・・・紅天女の上演権だよ。毎日いろんな人が訪れていて・・・マヤちゃん一人で大変そうだから」 「あっ・・・うん。大丈夫・・・と言いたいけど・・・。ちょっと、疲れたかな」 苦笑を漏らす。 「上演権を管理するって難しいんだなって・・実感してる。やっぱり、私にはむいてないな。 私はただ、演んじられればいいって思っていたけど・・・。それだけじゃ駄目みたい」 小さくため息を漏らす。 「・・・いろんな所が上演申し出ているけど・・・どこにするかは決まっているの?」 桜小路の問いに、一瞬、辛そうに眉を寄せる。 「・・・うん。どこにするかは決めてる。でも、そこからは何も言ってこないの・・・。あんなに上演権を欲しがっていたのに・・・」
「・・・真澄様・・・真澄様・・・」 「えっ」 ぼんやりとしていた意識を戻すように、目の前の紫織を見つめる。 最近、真澄はずっとこうだった。 仕事を離れると意識がどこかに飛んでしまったようにぼんやりとしている。 今だって、紫織の事なんて視界に入っていないようだった。 「・・・私たち結婚するんですよ・・・」 真澄の態度に不安になる。 あの紅天女を目にしてから、紫織は不安で、不安で仕方がなかった。 あの日、彼は紫織を置いて、劇場を出た。 その事がガラスの破片のようにずっと胸に突き刺さっている。 「・・・私だけを見て下さい・・・。あの子の事は考えないで!」 苦しそう表情を歪め、真澄を見つめる。 「・・・私だけを愛して下さい・・・」 真澄の胸に顔を埋め、広い背中に腕を回す。 「・・・紫織さん・・・」
「・・・どうなさるおつもりですか?」 日、一日と、重くなる真澄の様子に耐え切れず、水城は、ついに問い掛けた。 「何がだね?水城君」 書類を見つめたまま答える。 「あなたの紅天女です」 その言葉に水城を見つめる。 「どうするって・・・今まで通りさ」 瞳を伏せ、水城から視線を外す。 「今まで通り、俺はあの子を一人の女優として見守り続ける。ただ、それだけだ・・・」 辛そうな彼の表情に、堪らず声を荒げる。 「社長!いいんですか!本当にそれで・・・。このままでは、あの子もあなたも辛いだけですよ!」 珍しく感情的な水城を驚いたように見つめ、クスリと笑みを零す。 「・・・どうした?君の方が辛そうだぞ」 真澄の言葉に沈黙を置き、再び口を開く。
「・・・あの子、今頃泣いているんでしょうね・・・。泣かせているのは、真澄様、あなたです」 水城の言葉に胸が締め付けられる。 「・・・君の条件は飲んだ。約束通り、あの子との紅天女の交渉は君がしてくれ」 感情を一切殺したような表情でそう言うと、真澄は再び、書類に目を通した。
真澄様・・・。
「・・・久しぶりね。元気だったかしら?」 キッド・スタジオに水城が現れる。 「・・・水城さん・・・」 驚いたように彼女を見つめる。 「・・・私がここに来た理由はわかるわね」 「・・紅天女の上演権ですか?」 マヤの言葉に静かに頷く。 「えぇ。社長の代理で来たわ」 ”社長”という言葉に胸が痛む。 マヤは冷たい表情を浮かべ、水城に背を向ける。
「・・・帰って下さい・・・。私、大都で上演する気はありません・・・」
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