紅 天 女 -19-


「・・・速水さん・・・」

マヤは驚いたように彼の名を口にした。
真澄は彼女の顔をじっと見つめていた。
瞳の下には涙の痕がくっきりと残る。
それが少し痩せた彼女を一層痛々しく見せた。
「・・・心配したよ。急にいなくなるから・・・」
マヤにゆっくりと近づき、彼女の目の前で立ち止まる。
「・・・私を連れ戻しに来たんですか?」
不安気に真澄を見つめる。
「・・・最初はそのつもりだった。だが・・・」
目の前の彼女に愛しさが溢れる。
「・・・だが?」
彼の言葉を彼女が繰り返す。
「・・・だが、今、君に会ったら自分の気持ちがわからなくなった。
このまま君を連れて帰るべきなのか、それとも、ここに君を置いておくべきなのか・・・。
そもそも、俺が君に会いたかっただけなのかもしれない・・・」
苦笑を浮かべる。
「・・・マヤ、俺は君の悲しみに気づいてやれなかった。君に月影先生の死を話した時、こうなる事を予測できたはずなのに・・・」
すまなそうに瞳を閉じる。
「あの時、君が無理していた事に俺は気づけなかった・・・」
大都で紅天女の契約を交わした時の事を思い出す。
気丈に振舞っていた彼女に胸が痛んだ。

「・・・すまない・・・」

真っ直ぐにマヤを見つめる。
真澄の言葉にマヤは何と言ったらいいのかわからなかった。
てっきり、速水にマヤは怒られると思っていた。
公演が近いというに勝手に消えたのだ。
いつもの彼だったら、”君に舞台に立つ資格はない”ぐらいの事は言うだろう。
真澄自身厳しい言葉を口にするつもりで、ここまで彼女を追ってきた。
しかし、こうして目の前にすると、とてもじゃないが、そんな事言えなかった。
最後に会った時よりも、痩せた彼女に胸が締め付けられる。

「・・・やだ。謝らないで下さい。速水さんらしくないです。いつものように私をしかりつけて下さい」
俯き、マヤは戸惑ったように口にした。
「・・・私、私、役者として失格です。きっと、今の私を見たら、先生は許してくれない・・・」
段々、マヤの声が涙に震えだす。
「・・・マヤ・・・」
目の前の彼女が儚いガラス細工のように壊れてしまいそうに見えた。
「・・・速水さん・・・私、私・・・」
答えを求めるように真澄を見つめる。
真澄は彼女の悲しみを包み込むように華奢な体を抱きしめた。
「・・・無理するな。自分を責めるんじゃない。悲しい時は悲しいだけ泣けばいい。
君にとって月影先生は特別な人だった事は俺にもわかる」
真澄の言葉に彼女の中の何かが解けていく。
ずっと、心の底にあった不安な想い。弱さ。紅天女へのプレッシャ−・・・。
それらが全て涙となって溢れ出す。

「・・・私、怖いんです!先生の死を認めたくない!だって、だって、先生がいなくなったら、私、どうしたらいいのか・・・。
私には絶対、先生以上の紅天女なんて演じられない。そう思ったら、怖くて・・・怖くて・・・
私・・・どう演じたらいいのかわからなくなって・・・」
真澄の腕の中で不安な想いを口にする。

「・・・本当は舞台から逃げてしまいたい。紅天女から逃げてしまいたい・・・。
でも、そんな事をしたら、先生はきっと許してはくれない・・・」
誰にも言えなかった想いを言葉にする。

「・・・私、こんな自分が嫌。弱い自分が嫌・・・」
全てを曝け出すようにマヤは泣いていた。

「・・・不安なんです。いつも、いつも、不安で・・・」
真澄は力強く彼女を抱きしめていた。

「・・・大丈夫。俺がついている。大丈夫だから・・・」
彼女の耳元で何度もそう囁く。
「・・・ずっと、君の側にいる。だから、大丈夫だ・・・。君は君の紅天女を演じればいい。君の思う通りにすればいいんだ」

”・・・マヤ、あなたの思う通りにしなさい・・・”

真澄の言葉といつかの夢の中で月影が告げた言葉がマヤの中で重なった。
その瞬間、彼女の中にあった迷いがパ−ンと砕け散る。
真澄の腕の中で不安な気持ちは少しずつ消え、いつしかマヤは泣き疲れて眠っていた。




「・・マヤ・・・」

真澄は彼女を抱きしめたまま、壁に寄りかかるようにして座った。
愛しむように長い黒髪を撫でる。

一体どれだけのブレッシャ−が君の肩にはかかっているのだろう?
まだ、二十歳を少し過ぎたばかりなのに・・・。
早くに肉親を亡くし、その上、今度は月影さんまで・・・。
俺は君を支えてやる事ができるのだろうか・・・。
少しでも君の悲しみを癒せるのだろうか・・・。

疲れきった寝顔を見つめ、真澄は彼女が歩いて来た決して平坦ではない道を思った。
きっと、これからも、その道は続いていく・・・。
そう思うと胸が締め付けられた。

真澄は時々、彼女の無限の才能にまだ十分に大人ではない事を忘れる。
その為、彼女には随分と辛い事をしてきた。
いくら演劇の為、彼女の為とは言え、酷い事をしたものだと、今更ながら悔やむ。

「・・・どうしたら君を幸せにできるんだろうな・・・」
窓の外はすっかりと日が落ち、月が見えた。
薄暗い部屋に月明かりが広がる。
真澄は彼女への想いを告げるべきか考えていた。






「お帰りになるんですか?」
桜小路が荷物を持って旅館の玄関に向かうと女将の声がした。
「えぇ。もう、僕の役目はないみたいですから」
寂しそうな笑みを浮かべる。
「そうだ。これを、速水さんに渡しといてもらえますか?」
白い封筒を女将に差し出す。
「かしこまりました。確かに」
女将は神妙な面持ちでそれを受け取った。
「お世話になりました」
桜小路は軽く頭を下げた。
「またいつでもいらして下さいね」
女将は温かい笑顔で桜小路を見送った。


マヤちゃん、舞台の上で待ってるよ。
君を信じていつまでも・・・。

速水さん、僕はあなたには敵わない・・・。

桜小路は未練を断ち切るように歩き出した。





「・・・あれ?私・・・」
マヤが目を開けると、人の温もりを感じた。
広い胸板に抱かれ、逞しい腕に包み込まれている。
顔を上げると、真澄の寝顔が目の前にあった。
突然、我に返り鼓動が早くなる。
呼吸をする度に想いが募り、気持ちが溢れ出してしまいそうだった。

「・・・うん?ちびちゃん、起きたのか?」
マヤの気配に気づき真澄は瞳を開けた。
彼女と視線が重なる。
「・・・速水さん・・・私、眠っちゃったんですね」
咄嗟に彼から視線を外す。
「・・・すみません。私、何だか、いつも速水さんに迷惑かけてばかり・・・」
慌てて速水から離れようとする。
「・・・いいさ。そんな事。気にするな・・・」
彼女の腕を掴み、引き寄せる。
「・・・甘えるだけ甘えなさい。悲しい時はこうして人の温もりを感じていると少しは楽になるもんだ」
再び真澄に抱きしめられ、呼吸が止まってしまいそうだった。
そして、とても安らぎを感じた。

「・・・月が綺麗・・・・」
ふと、窓の外を見つめ、彼女が呟く。
「・・・あぁ。悲しいぐらいにな・・・」
彼女の視線を追うように彼も月を見つめた。
二人は朝になるまでの僅かな時間、そのまま月を眺めていた。






「・・・私、今日、先生に会って来ようと思います」
朝食の席でマヤが告げる。
真澄はその言葉に、一瞬驚いたように目の前の彼女を見つめた。
「・・・いいのか?」
真澄の問いに、ゆっくりと頷く。
「・・・一緒に会いに行ってくれますか?」
不安気に真澄を見る。
「・・あぁ。もちろん。君が望むなら、どこでも行く」
彼女の不安な気持ちを解くように、優しい笑みを浮かべる。
「・・・よかった。速水さん、忙しい人だから、もうここでお別れかなって・・・思ってたんです」
いつもの無邪気な笑顔を向ける。
「帰る時は君と一緒だよ。彼にも頼まれたしな」
真澄は桜小路からの手紙を思い出した。

”マヤちゃんの事お願いします”

それはたった一行そう記されていただけだった。
しかし、その一行には彼の切ない想いが込められている。
彼は愛するマヤを真澄に託したのだ。

それはつまり、彼の恋の終わりを意味する。
長い、長い恋に桜小路は終わりが来た事を知ったのだ。

「・・・桜小路君、帰っちゃったんですね」
寂しそうにマヤが呟く。
「・・・あぁ」
真澄は彼に殴られた唇に触れた。

中々いいパンチしてたな・・・。







「随分といい顔になって戻ってきたな」
稽古場に桜小路が現れると、黒沼が茶化すように言う。
「あぁ。これ・・・」
少し腫れの引いた頬に触れる。
「相手は速水の若旦那か?」
全てを見透かしたように口にする。
桜小路は驚いたように黒沼を見た。
そして、まんまと黒沼に仕組まれた事を知り、苦笑を浮かべた。
「・・・今日は先生の奢りで飲みに行きますからね。何たって、僕はあなたのせいで、大きな失恋をしたばかりなんですから」
「・・・あぁ。好きなだけ飲め。さて、稽古始めるか。みんなやるぞ」
手を叩き、俳優たちに黒沼は声をかけた。

「・・・桜小路、役者としてもいい顔になってきたな・・・」
立ち位置に移動しようとする桜小路の背中に声をかける。
一瞬、黒沼を振り返り言葉の意味を探るように見つめ、静かに頷いた。
黒沼は微笑を浮かべ、目の前の俳優が成長した事を内心喜んでいた。







「・・・先生。すみません。やっと、会いに来れました」
大きな梅の木の下に月影の墓があった。
梅の谷は変わる事なく、満開の花が咲き誇る。
真澄は墓を見つめるマヤの横顔をそっと見つめていた。
必死で悲しみを抑えてるいるように見える。

「・・・ちびちゃん・・・」
彼女を支えるように小さな手を握った。
「・・・駄目ですね。私、先生の前では泣かないって決めたのに・・・」
溢れそうになる涙を必死で抑えながら墓石を見つめたまま呟く。
「・・・さんざん泣いたはずなのに、まだ涙が止まらないなんて」
苦笑を浮かべ、速水に握られていない方の手で涙を拭う。
「・・・やだな。私、こんなに泣き虫じゃないのに・・・」
マヤの声が涙で掠れる。
「・・・大丈夫。君は弱くなんかない。泣くのは当然だ。人が死ぬ事は悲しい事なのだから。
それも君はかげえのない人を亡くしたんだ。無理なんかせず、自分の心に素直になればいい。そして、人は悲しみを乗り越えるんだ」
真澄の言葉にマヤは一生分とも思える程の涙を流した。
彼は彼女が泣き止むまで、ずっと、手を握り続けた。

それはマヤがようやく、月影の死を受け入れた瞬間だった。





「・・・もう、当分来れないかな・・・」
マヤは泣き止むと、梅の谷を感慨深く見つめた。
「・・・そうだな。本公演が終わるまでは、来れないかもな」
彼女とゆっくりと歩きながら、真澄も同じように梅の谷を見つめた。
「そうだ」
何かを思いついたように、マヤは木に向かって走った。
「ちびちゃん?」
真澄が見つめているとマヤは、梅の木に登り始めた。
唖然とするように彼はその光景を見つめる。
「・・・危ないぞ。そんな所に登って」
心配するように真澄は木の上にいる彼女を見つめる。
「・・・この木から見る景色、とっても綺麗なんです」
枝の上に座り、マヤは無邪気に言った。
その光景に真澄は、そういえばこんな光景が前にもあったなと思い出した。

あの時は雨が降っていて、木の上にいた彼女が一瞬、天女のように見えた。
彼女と初めて一夜を過ごしたあの日はそう昔の事ではないのに、随分前の事のように思える。
彼女との間に起きた様々な出来事がそう思わせた。

紅天女の試演が終わり、彼女に紫の薔薇の人だと言う事を告げ、そして、彼女に愛を告白された。
涙ながらに”好き”だと言ってくれた彼女の事が誰よりも愛しく思えた。

しかし、何度も自分の気持ちを偽り、彼女の想いに目を閉じてきた。

もう、限界なのかもしれない・・・。
これ以上、胸の内にある想いを隠している事は・・・。


「・・・マヤ・・・」
木の上の彼女を見上げ、口を開く。

「・・・君が好きだ・・・」

真澄はついに、その一言を告げた。








                                         

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