紅 天 女 -5-



  「・・・紫の薔薇の人が好きです・・・」
   その言葉を聞いてから、真澄は正気でいられなかった。
   何をしていても、落ち着かない・・・。
   気づけば、マヤの事を考えていた。

   やっと、彼女が自分の方を振り向いてくれたというのに・・・。
   よりにもよって、自分のもう一つの分身にだなんて・・・。

   「・・・くそっ」
   苛立ったように、バ−で酒を呷る。
   今日は紫織と会う約束だったが、今は到底、彼女に会う気力なんてなかった。
   急な仕事だと言い、彼は秘書に断りの電話をさせた。

   「・・・俺はどうしたら・・・いい?紫の薔薇の人として・・・」
   答えの出ない思いに、また酒を重ねる。
   何もかも忘れてしまいたい程、酔いたかった。




   「・・・先生、一つ、お願いがあります」
   試演の前日にマヤが黒沼に言う。
   その表情は真剣なものだった。
   「・・・どうした?」
   「・・・明日の舞台で、私、あの人に気持ちを伝えようと思うんです・・・だから、その・・・」
   マヤが言いたい事がわかる気がした。
   「・・・北島、自由にやれ。おまえが納得のいくように演じられれば、俺は何も言わん」
   黒沼の言葉にマヤはコクリと頷いた。
   「・・・ありがとうございます。私、きっと、演じてみせます」
   力強く言い、マヤは稽古場を後にした。


   「・・・マヤちゃん」
   稽古場から出て、誰かに声をかけられる。
   「・・・桜小路くん」
   振り向くと、彼がいた。
   「・・・待ってたんだ。一緒に帰ろうと思って」
   マヤに近づく。

   「・・・いよいよ、明日だね」
   ゆっくりと、寄り添うように道を歩きながら、桜小路が口にする。
   「・・・うん」
   その言葉にマヤの中の気持ちが引き締まる。
   「自信はある?」
   伺うように言葉にする。
   マナの表情が、少し、不安なものになる。
   「・・・あるって言ったら、少し嘘になるけど・・・。でも、もう、迷いがないの。私は、私の紅天女を演じようって強く思うの」
   強い意志をしめすように言う。
   そんなマヤの表情が逞しく思えた。
   そこにあるのは役者の顔だった。

   マヤちゃん・・・君は役者としてどんどん、大きくなるんだね。

   出あった頃のマヤとは別人のようなしっかりとした表情を浮べる彼女が、急に遠くに行ってしまったような
   淋しい思いに駆られる。

   「・・・何時の間に、君はそんなに逞しくなったのかな」
   足を止め、マヤを見つめる。
   「えっ」
   桜小路の言葉にマヤも足を止め、彼を見る。
   「・・・何だか、マヤちゃんが僕からどんどん離れていくみたいで・・・ちょっと、寂しいな」
   切なそうに瞳を細める。
   「・・・桜小路くん・・・」
   「・・・出会った頃のマヤちゃん、お芝居が大好きな少女で・・・いつも、一途に何かを追いかけていた。
   僕はそんな君を見ているのが好きだった・・・」
   そっと、マヤの頬に触れる。
   「気づいたら、君は僕の隣に立っていて、女優の顔をしていて・・・愛しい存在になっていた」
   マヤの唇に静かに、唇を重ねる。
   マヤは驚いたように、瞳を見開いた。
   「・・・君が好きだ・・・」
   唇を放し、愛しそうにマヤを見つめる。
   「・・・君が僕以外の誰かを好きなの事も知っている・・・でも、そんな君も含めて、好きなんだ・・・」
   突然の告白に、マヤの心が揺れる。
   「・・・桜小路くん・・・」
   マヤは何て言ったらいいのかわからなかった。
   「・・・ごめん。試演の前に惑わせるような事、言って」
   マヤの戸惑いがわかると、苦笑を浮かべ、歩き始める。
   「・・・無理に僕の気持ちに答えてくれなくていいよ。ただ、言いたかっただけだから」
   いつもの笑顔を浮かべる。
   「ところで、お腹すいたな。マヤちゃん、何か食べて行こう」
   無邪気な表情を浮かべ、ボケ−ッとするマヤの手を引っ張って歩き出した。

   僕の気持ちはきっと・・・届かないんだろうね・・・。
   君が演技ができなくなってしまうぐらい、惹かれている人がいるって知ってるから・・・僕は、もう何も言わない・・・。 
   ただ、知っていて欲しかったんだ・・・。
   僕の気持ちを・・・。
   君をどんなに、好きかを・・・。
   明日の試演、僕の君への気持ちを込めて、演じるよ・・・。
   僕の一真を・・・。





   「・・・完璧だ・・・」
   小野寺は通亜弓の通し稽古を見て、素直な感想を述べた。
   亜弓の真剣は恐ろしい程、研ぎ澄まされ周囲を威圧していた。
   もう、そこにいるのは姫川亜弓ではなく、紅天女そのものだ。
   彼女が視力を殆ど失っているなんて、誰も気づかない事だろう。
   小野寺は、改めて、亜弓の女優としての演技力に感嘆の声をあげた。
   そして、自分が亜弓と一緒のチ−ムでいられる事に感謝した。
   演出家として、ここまで俳優を使える事は何よりも嬉しい事である。

   「・・・アユミ、綺麗だ・・・」
   ハミルは別人のような表情を浮べる彼女を見つめた。
   話し掛けるのでさえ、恐れ多い気がする。
   今まで、亜弓の稽古を見届けていた歌子でさえ、そう思ってしまう程だった。

   私は紅天女・・・。

   意識の底でその言葉を何度も呟く。
   自分にかけた魔法がとけてしまうわぬように・・・。
   亜弓は心身とともに、紅天女になろうとしていた。




   「・・・真澄様、マヤ様から紫の薔薇の人宛てに届いています」
   深夜に帰宅すると、聖が現れた。
   聖が差し出したのは真っ白な封筒だった。
   中を見てみると、それは試演のチケットと手紙が添えられていた。

   『紫の薔薇の人へ

   どうしても、試演をあなたに観てもらいたく、チケットを贈りました。
   どうか、受け取って下さい。
   私の演じる紅天女はあなたへの精一杯の気持ちです。
   あなたが来てくれるのを待っています。

                                北島マヤ』

   「・・・マヤ・・・」
   短い文に込められた切ない程の彼女の気持ちが真澄に伝わってくる。
   頭を抱え、ソファ−に座り込む。
   「・・・どうなさいますか?明日は紫の薔薇の人として、観にいきますか?」
   聖の言葉に真澄は困惑しきった顔を上げた。
   「・・・わからない・・・」
   そう口にした真澄は、解けないパズルを抱えてしまったような顔をしていた。
   「・・・たった一度でも、ご自分の心に素直になったらどうですか?」
   辛そうな真澄を見ていられず、つい、余計な事を口にする。
   「・・・彼女に言われたよ。紫の薔薇の人が好きだって・・・。皮肉なものだな。
   速水真澄には振り向いてもらえないのに、もう一人の俺の方を向くとは・・・」
   滑稽だと言うばかりに、自嘲的な笑いを溢す。
   「・・・どちらも、あなたです。マヤ様はあなたの真心に惹かれたのではないでしょうか」

   そう、どっちも、俺だ・・・。

   聖言葉が胸に響く。
   「もし、俺が紫の薔薇の人だと告げたら、きっと、あの子の顔から笑顔はなくなる。そんな事はしたくない・・・」
   「・・・真澄様、これ以上、マヤ様を傷つけるつもりですか?」
   聖の言葉に驚いたように見る。
   「・・・彼女はあなたから、もう紫の薔薇が貰えない事で、十分、傷ついているんですよ。
   そんな、彼女がこれを私に託したのは、もう、捨て身だからです・・・。あなたを好きだから、そうするんです。
   彼女の事を思うのなら、未練を断ち切ってあげるんべきではないですか?
   真実を話して・・・互いが、納得のいくように話し合うべきです。素直な心で・・・」
   珍しく感情的な聖に真澄は圧倒された。
   「・・・聖・・・」

   その夜、真澄は紫の薔薇の人として試演を観るべきかどうか、一晩中考えた。
   しかし、朝になっても答えはでなかった。

   「・・・マヤ・・・」
   苦しそうに幾度もその名を口にする。
   そこにはただ一度の恋に悩む男の姿があった。






   ・・・速水さん、見ていて下さい・・・。

   試演の会場となる大都劇場を見つめ、マヤの心に強く真澄への気持ちが溢れる。
   これから、始まる舞台に彼女は真澄への想いを隠さず、表現するつもりだった。
   今の彼女にとってそれ以外の演じ方はわからない。
   役者として、一人の女として、初めて速水と向き合いたいと思った。
   それは、かつて、月影千草が演じた紅天女への想いと重なるものがある。
   舞台の上でしか結ばれる事の許されないある演出家と女優の悲しい想いが紅天女には込められていた。
   月影は尾崎一蓮が亡くなった後も、一心不乱に紅天女を演じた。
   そうする事で、一緒にいる事ができたから・・・。
   彼の魂の表現者として月影が許された事は演じ続ける事だけだから・・・。

   そして、今、その想いを越え、二人の紅天女がそれぞれの想いに舞台に舞おうとしていた。




 




                                         

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