トロイメライ
AUTHOR まゆ

 
 「はい、マヤちゃん」
 稽古のあと、桜小路くんから手渡された薄い正方形の1枚。
 「この間、この曲が好きだって言ってたから、MDに入れてきたんだ。これで好きな時にいつでも聴けるよ」
 数日前に入った喫茶店のBGMに流れていた曲。小さく「あっ」と声を漏らしたのを、桜小路くんは聞き逃さなかった。
 「この曲、好きなの」
 あの時はそれだけ言って話題を替えた。不自然にうろたえる私を桜小路くんは不思議そうな目で見てたけど、それ以上は何も言わなかった。
 「どうもありがとう」
 受け取ったMDに貼られた白いラベルには「シューマン作曲 『子供の情景』より『トロイメライ』」の文字。桜小路くんらしい少し角ばった几帳面な字だ。
 「短い曲だから、他にもよさそうな曲、入れようかなと思ったんだけど、とりあえず、これだけにしておいた。聴きたい曲があればいつでも言って。結構いろんなの持ってるし、また録音してくるから」
 桜小路くんはやさしい・・・いつでも、やさしい・・・。そのやさしさに居心地の悪さを感じながらも、撥ねつける強さもなく、結果として甘えてしまう。
 (ごめんね、桜小路くん・・・)
 心の中で詫びながら、MDをバッグにしまった。


 布団にもぐりこんでイヤホンを耳に差し込んだ。隣りで寝ている麗にばれないように慎重にMDをセットして、プレイボタンを押す。 わずかな空白のあと、ピアノの音色が耳に流れ込み、そのまま心にも染み入っていった。
 ゆったりと歌い上げるメロディーが胸をしめつける。私は目を閉じた。「ふたりの王女」の役作りのために暮らした亜弓さんのおうちが瞼の裏に浮かんでくる。 部屋を彩るたくさんの薔薇。クッキーの甘い香りと紅茶から立ち上る湯気。真っ白なグランドピアノ。そして、そのピアノでこの曲を奏でる人・・・。
 (速水さん・・・)
 もうずいぶん前のことなのに、はっきり思い出せる。鍵盤に向き合う俯き加減の横顔も、「今はこれしか弾けない・・・」と言った淋しそうな声も。 銀のシガレットケースから取り出した煙草に愛用のライターで火をつける仕草も、そう、あの人が着ていた背広の色もネクタイの柄も、全部、全部覚えている・・・。
 あの頃は、心から彼を憎んでいたはずなのに、今になって思えば、あの頃だってすでにこんなに意識していたんだ。
 「トロイメライ・・・夢想か・・・」
 彼の指がただ一曲とどめている曲がどんな曲なのか知りたくて調べた題名の意味。ドイツ語で「夢見ること、夢想」そんな意味らしい。
 優秀な後継者になることだけを求められていた彼が、唯一愛した曲が彼には許されない「夢見ること」だったなんて、と、意味を知ったときはどうしようもなく心が痛かった。
 短い曲だからすぐに演奏は終わり、私の目の前から亜弓さんのおうちは消えた。もちろん薔薇も紅茶も白いピアノも。
 幻でもいいから、あの人に会いたくて、私は再びプレイボタンを押す。またよみがえる薔薇と紅茶と白いピアノ。あの人の横顔。大きいけれど男性にしては優美な手。鍵盤をすべる長い指。
 その夜、私は飽きることなく、何度も何度もMDをかけた。マッチが燃え尽きると次の一本を点して幸せな夢の続きを求めた「マッチ売りの少女」のように。


 生演奏のピアノが静かに流れるフレンチレストラン。これも義務のうち、と妻にせがまれるまま食事に来た。彼女とではどんな料理を口にしても砂をかむような味しか感じないというのに。
 「あなた、どうなさったんですか?さっきからずっと何もおっしゃらない・・・」
 「あ、いや、なんでもない。ちょっと仕事の気がかりを思い出しただけだ」
 作り笑いでその場を繕って赤ワインを呷るように干した。くそっ、うまくもない。ヴィンテージものの高級ワインをまずいと思いながら飲むなんて、救われない夜だ、まったくのところ。
 華やかに軽やかに奏でられていたショパンのワルツが終わり、次に聞こえてきた曲に思わずナイフを持つ手が止まった。
 ―――― 「トロイメライ」
 この曲を聴くと、いやでも過去に引き戻される。中学生になると、勉強優先と禁じられてしまったピアノのレッスン。気分転換にと義父の目を盗んでピアノに向かうと、決まってこの曲を弾いた。 思うように練習できずにいるうちにほかの曲は忘れてしまったが、この曲だけは自然と指が覚えていた。
 そしてあの時も・・・。アルディスになれなくて苦しんでいたあの子を放っておけなくて、口実をつけて訪ねた姫川邸で、いつものように憎まれ口をたたいてあの子を焚きつけたんだったな。 公演初日、期待以上の、想像以上の美しさで舞台に現れたあの子に魂が震えるような感動と感激を覚えたのも、もうずいぶん前のことだ・・・。
 目の前にいるのは、あてがわれた妻。俺は事業の発展のために人身御供となった。これが俺の現実だ。夢は埋火のようにこの胸の奥でくすぶるだけだ。  マヤ・・・俺は君からなんとはるかに隔たってしまったのだろうか。


 「やあ、チビちゃん、奇遇だな」
 テレビ局の廊下で呼び止められた。私を「チビちゃん」と呼ぶのはあの人しかいない。
 「おはようございます、速水さん」
 いつでも「おはよう」と言うこの世界のしきたりにも知らぬ間になじんでいた。試演が終わり、私が『紅天女』の後継者と定められてから早いものですでに3ヶ月。本公演の初日も間近に迫っている。 舞台のPRを兼ねてのテレビ出演や雑誌の取材も、まだまだそつなくこなすまではいかないものの、以前のように口ごもることも少なくなってきた。
 「二度と大都の舞台には立たない」
 そう公言して憚らなかった私が『紅天女』の本公演を大都芸能に任せたことの真意についてはどの取材でも必ず聞かれる。本当の気持ちなど口にできるはずもない。 そう、せめて『紅天女』を通してだけでも速水さんとつながっていたかった、なんて・・・。
 「月影先生の命ともいうべき大切な大切な作品ですので、そういった私の個人的な感情はひとまず置いて、お話を下さったところすべてを公平に検討し、演出の黒沼先生にもご相談して、 やはり大都芸能にお任せするのが一番いいだろう、という結論に達したのです。なんと言っても大都芸能は、実績、実力ともにこの世界では一流ですので」
 まるで芝居のせりふを言うように、用意した言葉を繰り返していた。
 「最近、君はあちこちでうちの会社をずいぶんほめてくれているようだな」
 「別にほめてるわけじゃありません。実際、大都芸能は一流会社ですから」
 「大女優さまに認めていただけて、社長として、これに勝る喜びはないよ、チビちゃん」
 「そんなこと言うために、お忙しい社長さまがわざわざ私を呼び止めたんですか?」
 「そういうわけでもないが」
 せっかく会えたのに。せっかく久しぶりにあの人の顔を見られたのに。どうしていつもこうなっちゃうんだろう・・・。でも、仕方ないよね。あの人はもう、奥さんがいるんだもん。 これ以上、好きになっちゃいけないんだもん。楽しい会話、なんてしちゃったら、私、ますます辛くなるだけだから、こんなふうに憎まれ口きくんでよかったんだよね。 このままじゃまた「大嫌い!」って言っちゃいそう。その前にここから消えてしまいたい。
 ・・・もう一秒でも早くあの人の視線の届かないところへ、あの人の気配すら感じないところへ逃げ出したかった。
 「じゃあ、私はこれで失礼します。おつかれさまでした!」
 やっとの思いでそれだけ叫んで、私はそのまま身を翻してその場から走り去った。


 「おい、マヤ!」
 後味が悪い。心が擦れるようだ。だが俺は、俺の前から遠ざかる華奢な背中を言葉もなく見送るしかない。行くな、とその肩に手を置くことは許されないのだから。
 「自業自得、か・・・」
 タバコを一本取り出して、彼女が走って行った廊下にうつろな視線を泳がせる。火をつけようと視線を落とせば、足元になにか落ちている。
 「うん?MDか?」
 マヤが落としていったものだろうか?今、この場にいたのは俺と彼女だけなのだから、おそらくそうなのだろう。彼女が持ち歩いてまで聴いているのはどんな曲なんだろうか。 なんだか彼女の心の中をのぞくような、不思議な期待感と罪悪感の両方に胸をときめかせながら、その薄いプラスチックケースを拾い上げた。ケースに貼られたラベルをさっそく見てみる。

 ―――― シューマン作曲 『子供の情景』より『トロイメライ』
 体中の血が一瞬で沸騰したような気がした。なぜ。なぜこの曲を彼女が・・・。彼女は今、『紅天女』に関わる仕事以外、何もないはずだ。芝居の役作りのためにこの曲が必要とは思えない。
 「もしや・・・」と自分に都合のいい解釈をしてしまいそうになる心を「そんなはずはない」と必死でなだめたが、背広の内ポケットにしまったMDの固い感触が理性を掻き乱す。 これを君に返した方がいいのだろうか。それとも、俺が拾ったことなど、君は知らない方がいいのだろうか。


 ない!バッグの中に確かにしまったのに。どうして?どこかに忘れてきた?でも、さっきテレビ局の楽屋では確かにあったのよ。 で、お稽古場に移動する間に聞こうとしたら、なかった・・・ってことは楽屋を出てから、車に乗るまでの間になくしたってこと?
 それって・・・速水さんと会ったとき?
 ど、どうしよう・・・もし、速水さんに拾われたのだとしたら。でも、私のかどうかなんてわからないよね。それにもし私のだって気づいても、あの曲が入れてある意味までは・・・気付かないよね。
 速水さんだって、私の前でこの曲を弾いたことなんて、もう覚えてないよね。ずいぶん前のことだもんね。そうだよね・・・。
 なんだか不思議。気付かれちゃったら困るのに、気付いてほしいと思ってる自分もいる。
 速水さん・・・私、あなたが好き。あなたが愛したものを私も同じ思いで愛したい・・・。思うだけなら、あなたの迷惑にはなりませんよね。
 ねえ、速水さん・・・・・・。


 マヤ、まったく、いつものことながら君には本当に驚かされる。だがこんな驚きならいつでも味わいたいものだ。
 もちろん初日からすばらしい出来だったが、さすが千秋楽。これほどの阿古夜に会えるなんて!心が震える。足元から君への思いが湧き上がってきてそのまま溢れ出してしまいそうだ。 心の命じるままに君のもとへ駆けつけて、この思いのすべてをこめて抱きしめることができたなら、どんなに幸せだろうか。だが・・・。
 「社長!」
 水城女史のお呼びだ。またどこぞのお偉いさんでも来てたのか?
 「マヤちゃんが社長にお目にかかりたいそうです。楽屋で待ってますわ」
 マヤが?いったいこの俺になんの用があるというのだ。やっと夢がかなって『紅天女』を手に入れて、本公演を無事つとめあげた今、なぜ俺なんかを呼ぶ?
 心にかなり頑丈な鎧を着せないと彼女の顔を直視できないな。今、彼女の視線をまともに受けたら、俺は・・・俺はあらぬことを口走ってしまいそうだ。マヤ・・・。


水城さんがあの人を呼びに行ってくれてからもう10分以上たつ。そろそろ来てくれる頃だろうか?それとも、私のところになんか来てくれない? でも、私は仮にも大都芸能の制作した舞台に主演した女優なんだから、千秋楽くらい、社長が顔を見せてくれてもばちは当たらないよね・・・。
 ―――― コンコン  来た。だめよ、普通にするのよ、マヤ。あんたは女優なんだから、ちゃんと演技するのよ。この気持ち、絶対に気付かれちゃダメなんだからね。私は自分に強く言い聞かせてから「どうぞ」と返事をした。
 「千秋楽、おめでとう!すばらしい舞台だったよ、チビちゃん」
 すばらしい、のあとに続くのがどうして「チビちゃん」なわけ?と思わなくもなかったけど、あの人が誉めてくれたのがうれしくて、つい素直にお礼を言ってしまった。 こんなんじゃちっともいつもの私らしくない。速水さんもなんだか怪訝な顔をしてる。
 「お忙しいのにお呼び立てしてすみません。どうしても今夜のうちにお話しておきたいことがありまして」
 そう、その調子。ちゃんと言えるじゃないの、マヤ。
 「私、しばらくお休みさせてもらいたいんです」
 東京での公演が終わっても、このあと地方公演が待っているし、来年も東京でのロングランがすでに決まっていることも聞いている。この春の大阪公演はすでにチケット発売が間近に迫っていることも知っている。でも、限界だった、私には。
 『紅天女』の恋は、私自身の恋でもある。公演を重ねるほどに私の心が削り取られていくような気持ちになっていた。決してこの世では叶わない思い。自分ひとりの胸のうちに収めておけなくなりそうで、私は不安でたまらなかった。 この思いをあの人にぶつけてしまう前に、私は彼の前から消えたい・・・。
 せめて女優としてだけでもいいから私を見てほしい、と願って『紅天女』を大都芸能に預けた。でも今の私には、あの人のそばにいること自体がつらくてたまらない。 自分を偽ることにはこれほどのエネルギーがいるのか、と今、改めて思い知らされている。
 「どういうことだ?」
 あの人が顔色を変えた。そうだよね。私が舞台を休みたい、なんて速水さんには信じてもらえないよね・・・。
 「どういうことも何も、今言った通りです」
 「すぐ地方公演の稽古が始まるんだぞ」
 「わかってます」
 「放棄するのか」
 「やっぱり私、大都の舞台には立てない・・・」
 声が震える・・・。見抜かれる、嘘だって・・・。この人をこの程度のことで騙せるはずがない。
 「・・・俺はうぬぼれていたようだな。もしかして、君も多少は俺との思い出なんてものを大事にしてくれているのか、などとばかげたことを考えていた」
 すっと目の前に差し出されたプラスチックケース。
 いつか私がなくしたMDだった。
 「速水さん、これ・・・」
 「君のだろう?」
 速水さんが悲しそうな目で私を見る。いつもみたいに怒鳴るわけでも叱りつけるわけでもない。ただ悲しそうに・・・。どうして。どうしてそんな目で私を見るの?速水さん・・・。


 「ずいぶん前に、君の前でこの曲を弾いたことがあった。そのMDを拾って曲名を見たとき、もしかして君がそのことを覚えていてくれたんだろうか、と思った」
 もう抑えられそうになかった。彼女の言っていることが嘘だということくらいすぐにわかる。舞台を降りたマヤは呆れるほどの大根役者なんだから。 彼女が舞台を放り出してまで俺の前から逃げようとする理由は2つしかない。俺が嫌いか、俺が好きか。だから俺は賭ける。いや、結果なんかどうでもいい。 俺は、もう自分の気持ちをこれ以上隠しておけない。
 「嬉しかったんだ、マヤ・・・」
 気付いたらもう彼女の細い肩を抱きしめていた。
 「君をそんなに苦しめているのは、俺なのか、マヤ?」


 これは夢よ。千秋楽のごほうびに神さまが見せてくれた淡い夢。
 だって、速水さんがそんなことを言うはずがない。私を抱きしめてくれたりするはずがないもの・・・。
 「君が、好きだ・・・。頼む。俺の前から消えてしまわないでくれ」
 耳の奥でピアノの音が鳴っている。トロイメライだ・・・。この曲が流れている間は幸せな夢を見ていられるのよね。
 夢よ。夢なんだから・・・現実じゃないんだから。でも、それなら私もちょっとだけホントのこと言ってしまっても平気かな。
 「・・・速水さん・・・私にまたピアノ、聴かせて・・・」
 速水さんの長い指が鍵盤の替わりに私の頬を滑った。
 「ああ、いくらでも弾いてやる」
 急に視界が暗くなって、目の前に速水さんの長い睫毛が迫ってきた。思わず目を閉じる。そして唇がふわっと温かくなった。

 ―――― もしかして、これ、夢じゃなかったの・・・?

 ゆっくり目を開ければ、化粧前の鏡の中に、速水さんに抱きしめられている私がいた。



                                           THE END








【Catの一言】
まゆさんのガラカメ処女作です♪処女作とは思えない程の真澄様とマヤちゃんの切ない心の描写にはもう、胸がじ−んとしてしまいます♪
今後のガラカメライタ−としてのまゆさんが楽しみです♪
皆様、続編♪続編♪と呼びかけましょう♪という訳で、まゆさん、この後の二人読みたいです(うるうる)

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