朝日のあたる部屋で

 また、だ。
 まだ慣れない行為に緊張を隠せずにいる彼女をゆっくりと解きほぐし、さあこれから、というところで携帯が鳴った。
 電源を切っておけばこんな邪魔は入らない。そんなことは百も承知だ。だが、これ以上の私的な時間などないと断言できる逢瀬のひとときであってさえも、俺は「代表取締役社長」の肩書きを脱ぐことを許されない。所在を明らかにし、いつでも連絡を取れるようにしておく。それが経営者としての俺の義務だ。
 頭ではそう理解していても、それでも、深いため息がひとつ。
 「すまないな」
 毎度の台詞と共に、いまいましげにサイドテーブルの携帯に手を伸ばす。勇敢にも馬に蹴られることを志願してきたのは、案の定、有能なる我が秘書どのだった。
 「社長、緊急事態です」
 プライベートのお時間にスミマセン、といういつもの枕詞すらはさまずに突きつけられる事実。招聘予定の海外アーティストが急病で来日できなくなったという。時差を考えればこの時間の緊急呼び出しも納得だ。
 「わかった。すぐに社に戻る」
 答えながら背後をうかがえば、気配でわかる。彼女はもう身繕いをしているらしい。
 「マヤ・・・」
 振り返るより先にそっと肩にかけられるワイシャツ。
 「お仕事、でしょ?急がなくちゃ」
 ああ、これで何回目だろう、彼女にそんなことを言わせてしまうのは。足元から無数の手が伸びてきて、俺の足首をつかみ、そのまま「仕事」という名の底なし沼へ引きずり込もうとしているのではないか。そんな埒もない想像さえ浮かんでくる。
 気持ちは、ここにいたいと叫んでいる。彼女にくちづけ、かき抱き、貫きたいと、心も体も、俺のすべてがそう訴えている。
 それなのに。彼女を包み、その身を愛撫すべきこの両の手は、衣擦れの音をきゅっとたてながら、俺の首に処刑場への引き綱をするすると器用に結ぶのだ。
 「私、上着をはおる時のあなたを見るの、好きよ。なんだか、いざ、出陣って感じでステキ」
 彼女が本当にうっとりとした目で俺を見上げる。そんな目を向けられたら、逆に今着たばかりの上着を脱ぎ捨てて、もう一度彼女の白い胸に顔を埋めてしまいたくなるじゃないか。
 「さあ、鬼社長のおでましを、みなさん待ってらっしゃるわ」
 今度またいつ逢えるかもわからないのに、彼女は俺をしきりに急かす。すべてを理解し、赦す。そんな顔で俺を見つめる。
 「やけにものわかりがいいんだな。本当は俺がいなくても平気なんだろう?」
 彼女に「行かないで」と泣かれでもすればそれはそれで困るくせに、行きたくない本音がそんな嫌味を口にさせる。まったく、単なる八つ当たりじゃないか。大人気ないこと、この上ない。そんなことを言うつもりなどなかったというのに!どうして俺はいつも・・・。身に染み付いた長年の習慣が恨めしい。
 「速水さんの・・・速水さんのバカっ!」
 ほらみろ。受けて当然の報いだ。この分ではいつものキメ台詞も遠からず出るだろうな。
 「私が舞台に穴を空けるわけにはいかないのと同じだと思うから・・・あなたのお仕事は私にとっての舞台と同じだと思うから、私・・・それなのに、速水さんがいなくても平気だなんて、そんなわけないじゃない!そんなこと言う速水さんなんて、大嫌いよっ!」
 やっぱり、だ。しかし、これまで「大嫌い」と言われるたびに心を凍りつかせたものだが、今言われた「大嫌い」は不思議と耳にも心にも心地よく響いた。君は、ちゃんとわかってくれているんだな、俺の仕事も立場も。本当に君は大人になった。昔の俺なら、売り言葉に買い言葉、このままさらに心と裏腹な言葉を並べて君の傷を広げてしまったことだろう。でもな、マヤ。今の俺は昔とは少し違うんだ。変わったのは君だけじゃない。俺だって、素直になる術を君から学んだ・・・。
 「それでも俺は、君が好きだ・・・愛しているよ」
 左の耳たぶを軽く噛んで、そのまま首すじに唇を滑らせながら、ここぞと本心を口にする。
 「・・・もうっ!ずるいわ。私、そんなことでごまかされませんからね!」
 言葉は怒っているくせに、顔は思い切り笑っているぞ。おっと、これ以上は本当にもう一度上着を脱ぐことになりかねない。ここは心を鬼にしなければ。
 「行ってくるよ、マヤ。なんとか今夜のうちにケリをつけてくる。朝食はここでいっしょに食べような」
 軽く抱き寄せて頬に口づける。彼女の細い指が俺の髪に差し込まれた。前髪を整えてくれたらしい。
 「・・・・・・うん・・・いってらっしゃいませ」
 珍しく彼女の方から唇を合わせてくれた。今夜はもう、これで十分だと思おう。そう、主演俳優が舞台をすっぽかすわけにはいかないものな。彼女の笑顔に見送られて、俺はひとりで部屋を出た。俺は俺に課せられた義務と背負うべき責任から逃げはしない。そうでなくて、どうして堂々と胸を張って君の前に立てるだろうか。そう、俺は俺のすべてをかけて君を守ると誓ったのだから。
 絨毯敷きの長い廊下をエレベーターホールに向かって歩きながら、携帯を開く。
 「速水だ。その後の進捗状況を報告してくれ。よし、それで進めていい。・・・いや、それは私が直接交渉に当たるから、そうだな、15分後に改めて電話する」
 ・・・今、俺の舞台の幕が上がった。


 目の前で厚い扉が閉まった。部屋の温度が急に下がったように感じてしまう。
 ああは言ったものの、やっぱりキツイな・・・。
 ひとり取り残された部屋で私は深く大きくため息をついた。
 あの人とふたりきりで会えたのは実に2ヶ月ぶり。忙しい私と、もっと忙しい速水さんがやっと、やっと手にした夜だったのに。
 あの人と結婚するつもりなんでしょう?彼の仕事に理解がなくてどうするの?彼は大都芸能の社長なんだよ。
 私の中で理性が呼びかける。でも、それよりもっと大きな声が私に覆いかぶさる。
 社長夫人なんかになりたいわけじゃない。ただ、速水真澄という人を好きになっただけ。ただそれだけなのに・・・。
 こんな時、お酒でも飲めれば気持ちが晴れるのだろうか。
 豪華だけれど冷たい部屋にひとり。10時半か・・・朝までまだずいぶん時間があるな。
 なんだか無性に、星が見たかった・・・こんな都心で見えるはずはないとわかってはいたけれど、それでもカーテンを全部開いて窓辺に立った。
 ビルとビルの間に小さく切り取られた夜空は街の灯りに照らされて薄明るい。星どころか月さえも見えない。
 仕方なく地上を見下ろすと日比谷の劇場街が目に飛び込んできた。客待ちしているタクシーの長い列の向こうには日生劇場と東京宝塚劇場。今夜、宝塚は夜公演があったらしい。まだ劇場前にはスターの楽屋出を待つファンが大勢並んでいる。そのお向かいが芸術座。JRのガードの向こうには銀座のネオンが見える。銀座はまだこのくらいの時間、宵のうちなんだろうな。なんだかひとりぼっちなのは自分だけのような気持ちになる風景だ。
 (速水さん・・・この部屋、ひとりだと広すぎるよ・・・)
 所在無くて、結局ベッドに戻った。シーツに微かに残るあの人の温かさを手のひらでなぞる。
 ベッドサイドのテーブルにはあの人の飲み残しのブランデー。お酒は飲めないけど、あの人の真似をしてグラスの中の液体を軽く回してみた。ふわっと立ち上る香りは、あの人のキスと同じだった・・・。
 その香りを胸いっぱいに吸い込んだら、少しだけ、速水さんに抱きしめられたような気持ちになれた。
 ―――― もう眠ろう。明日の朝、ここに戻ってくるあの人をちゃんと笑顔で迎えられるように。
 ひとりで寝るには大きすぎるベッドだけど、せめて夢の中ではあの人に会えますように、と祈りながら私は静かに目を閉じた。


 「あとは一任する。報告は午後一番で聞くから、それまでに対策を講じておけ」
 担当役員に言い置いて会議室を出た。現地のスタッフと海外担当常務以下国内の担当者であとは解決できるだろう。社長が打つべき手はすべて打った。5時15分。朝食の約束、守れそうだぞ、マヤ・・・。腕時計を見ながら口の中だけで呟いた。
 正面玄関前に横付けされたハイヤーに乗り込み、「帝国ホテル」と短く告げる。車窓を流れる景色は乳白色の朝日を浴びて紗をかけたようだ。車に乗っている間は書類に目を通すのが常だから、風景に目を留めることなどほとんどなかった。だが今朝は違う。
 今、この一瞬ごとに俺は君の待つ部屋へ近づいている。景色が後ろへ流れるごとに、俺は君に向かっているんだ・・・。
 ふだんは車で埋まるお堀端の道もこんな早朝ではさすがにスムーズに流れる。皇居を覆う緑がまぶしい。日比谷公園には早くも早朝散歩の人影が木々の間に見え隠れしている。
 やがてタクシーはホテルの車寄せに吸い込まれ、ドアマンが恭しく扉を開けた。
 「おはようございます、速水さま」
 「ああ、おはよう」
 彼らは客の顔と名前を覚えるのも仕事のうちだから、名前を呼ぶのもサービスだとわかっているが、やはりこういうときは面が割れているのも照れくさいものだな。ルームキーは持って出たから、フロントには寄らず、そのままエレベーターに乗った。
 階数表示のランプが移動するごとに胸が高鳴る。エレベーターを降りれば自然と足が速まる。そんな自分に呆れつつも、浮き立つ心をなだめられない。
 (マヤ・・・)
 すべては君ゆえのことだ。君が俺を舞い上がらせる。君だけが俺をこんな物慣れない不器用な男にしてしまう。
 彼女が眠る部屋の前で、俺は大きく深く息を吸った。無駄な抵抗と知りつつ、それでも何とか逸る気持ちを落ち着かせたかった。カードキーがすうっとドアに飲み込まれ、すぐまた手に戻る。ドアを開けた。眠り姫を起こさないように静かに、そうっと・・・・・・。

 奥のベッドルームは遮光カーテンに守られてまだ昨日の夜が続いていた。
 (よく眠ってるな・・・)
 頬にかかった黒髪のひと房をかきあげてやりながら彼女の寝顔をじっと見つめた。あどけない表情なのに、少し開き加減の口元が妙に艶っぽい。
 俺は彼女の隣に体をすべりこませた。ベッドの揺れに彼女が小さく身じろぎして寝返りを打つ。そのどさくさにまぎれて、彼女を背中から抱きしめた。夜着の合わせ目からそっと手を差し入れて、豊かなふくらみを手のひらで包み込む。
 一晩中、事後処理に奔走して、無事に“主演舞台”をつとめあげてここに戻ったんだ。これくらいのごほうびは許されてしかるべきだよな。
 どうせまた今日も出社すれば激務が待っている。でも・・・今はこの手で彼女の鼓動を確かめていたい。
 おっと、天女さまが目を覚ましてしまいそうだ。どうしようか。このまま寝たふりしていてもいいだろうか。
 俺は“カーテンコール”の余韻を味わうように、彼女を抱く手に少しだけ力を込め、かぐわしい髪に顔を埋めた。

    オレンジジュース、濃い目に淹れたミルクティー、厚切りのバタートースト。
    ジャムはアプリコットとブルーベリーだな。シリアルにはヨーグルトとはちみつを少し。
    プチトマトときゅうりとレタスのサラダには胡椒のきいたフレンチドレッシングがほしい。
    そして半熟のスクランブルエッグにカリカリに焼いたベーコンを添えて。デザートは真っ赤に熟れたいちご・・・。
    真っ白いテーブルクロスの上に、君の好きなものばかり並べて朝食にしよう。君の笑顔が最高のスパイスだ。
    ―――― さて、とフォークを手にした瞬間、目の前に霞がかかって料理がフェイドアウトしていく・・・。

 「速水さん!ねえ、速水さんったら!ほら、お仕事遅れちゃいますよ・・・」

 え・・・今のは、夢?
 いつの間か本当に眠ってしまったらしい。ゆっくり瞼を開けると、まばゆい朝の光の中でやわらかく微笑む君がいた。
 「お疲れだとは思うけど、そろそろ起きて。朝ごはん、いっしょに食べる約束でしょう?」
 「あ、ああ。そうだったな」
 俺は3つ数えてから、勢いよく起き上がりベッドから降りた。

 「おはよう、マヤ」
 速水さんの声。私が答えるより早くあの人が私の唇をふさいでしまったから、今日もちゃんと「おはよう」が言えなかった。そのキスひとつで昨日の夜の寂しさなんて吹き飛んでしまう。私にだけ効く速水さんの魔法だ。
 「あ、部屋に朝食を頼みたいんだが・・・ああ、それでいい・・・っと、ちょっと、マヤ!!」
 早速ルームサービスの係に電話してくれている速水さんの背中にいきなり飛びついて耳元で囁いた。
 「・・・大好き・・・」
 受話器を落としそうになっても必死に真面目な顔で電話を続けている速水さん。なんだかかわいいな。電話を切ったら、きっと速水さん、怖い顔するんだろうな。でも大丈夫。私だって速水さんにだけ効く魔法を使っちゃう。
 「速水さん、大好き!」
 魔法の呪文。あの人の腕の中で少し上を向いて目を閉じてそう言うの。
 速水さん、大好きよ・・・。今まであなたに「大嫌いっ!」って言った分以上に、これから「大好き」って言うからね。

 ・・・速水さん・・・大好き・・・。
 ほら、魔法がちゃんと効いてる。
 朝ごはんが届くまで、このままでいて・・・ね、速水さん。


【Catの一言】
まゆさんいいわ♪いいわ♪甘いのだ−−−い好きCatには堪らない一品でございました(笑)
ふふふ。次回も甘いのお待ちしております(はあと)

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