Primavera
AUTHOR まゆ
3月最後の日曜日の昼下がり。よく晴れ上がった青空の下で、速水真澄は庭いじりに軽い汗を流していた。相変わらず仕事、
仕事の毎日で、特にここ1週間は決算期の多忙がピークに達していたから、こんなふうに自宅でのんびりと休暇を楽しむことなど、
本当に久しぶりのことだった。
「真澄さん、ひとやすみしませんか?」
仕上げたばかりの寄せ植えのフラワーポットを満足げにながめていた速水に妻が声をかけた。ふたりが結婚してもうずいぶんたつと
いうのに、年若い妻は、いまだに彼を「真澄さん」と名前で呼ぶ。
「ああ、マヤ。ありがとう。ちょうどキリがいいところだ」
芝生に置かれたテーブルに妻がコーヒーを並べる間に、彼は手を洗って戻ってきた。屋敷の2階の窓からは微かにピアノの音が漏れて
きている。ふたりの長女で今年13歳になる愛が練習をしているらしい。
「なんだ、愛も呼んでやればいいのに」
テーブルに2つしかコーヒーが置かれていないのを見て、速水が残念そうに言った。彼は娘に甘いことにかけては人後に落ちない。
「あら、もちろん誘いましたわよ。でもあの子ったら『パパとママのふたりっきりのティータイムを邪魔するなんてできません』って」
中学生の娘にあきれられるほど、このふたりはとにかく仲が良い。幾多の困難を乗り越えてやっと結ばれたふたりは、結婚しても子供が
いても、新婚当時そのままにこの歳月を過ごしてきている。
「愛のやつ、まったく生意気なこと言うようになって・・・」
照れ隠しにこの場にいない娘にあたるかのような速水をマヤは可笑しそうに見やった。
指慣らしの音階練習を終えた愛がレッスン中の曲を弾き始めたようだ。
「しばらく聴かないうちに、あの子も腕をあげたな」
コーヒーの湯気を顎に当てながら、速水が満足そうに言った。
「親ばかですこと」
マヤが冷やかす。
「これでも業界一の芸能社の社長を何年もやっていたプロなんだぞ。お世辞は言わん」
口を尖らせるようにして夫が反論するが、どうも説得力に乏しく妻の同意を得るには至らなかったようだ。
「もうすぐ発表会だから熱心に練習しているようですわ」
「そうか。それは絶対に聴きに行かないとな」
コーヒーをすすりながらふたりはひとしきり娘の話に興じていたが、ふと気がつけばピアノの音が聞こえない。
「もう、練習は終わりか?あれで発表会は大丈夫なのか?」
「あら、業界一の社長さまがお認めになるほどの演奏なんでしょう?」
速水が返す言葉を失って視線をそらすと、彼はその視線の先にあるテラスに娘の姿を見つけた。
「愛、こっちへこないか?」
鬼社長、冷血漢という呼ばれ方はマヤとの結婚後はあまりされなくなったものの、それでも外ではそれなりに厳しい顔を保っている
速水が、愛娘の前では本当にとろけそうな顔を見せる。
「パパ、ごめん。また今度ね〜!ママ、私ちょっと出かけてきますから」
父親の誘いはあっさりふって、愛の声はもう母親の方へ向けられていた。
「あら、今から?お夕飯までには帰るのよ。今日は久しぶりにパパもご一緒にお食事できるんだから」
答えるマヤの横で速水が「そうだぞ」という顔で頷いている。
「う〜ん。亜弓おばさまのところへ伺うんだけど・・・」
マヤはそれで娘の意図を理解した。今、亜弓のところにはハミルの甥に当たる少年が滞在しているのだが、愛は、2つ年上のこの少年に
夢中なのだ。
「亜弓さんのところじゃ仕方ないわね。いいわよ、ゆっくりしていらっしゃいな」
「ありがとう!ママ、大好きよ〜〜!」
母に向かって大きく手を振ると、愛は玄関へ駆け出していった。
「石川さん〜、車出してもらってもいい?」
運転手を呼ぶ声や玄関の扉がバタンを閉まる音などひとしきりにぎやかな音が響いた後、車のエンジン音が遠ざかると、速水邸は再び
静けさに包まれた。
「愛のやつ、亜弓さんのところへ何しに行ったんだ?」
「あの子は亜弓さんを尊敬してるから」
夫のカップにコーヒーを注ぎ足しながら、マヤは静かに答えた。ボーイフレンドに会いに行ったなどと本当のことを話せば夫が逆上する
のが目に見えている。それに愛が亜弓を尊敬しているのは事実で、それは速水も知っていることだ。日本の経済界をリードする
大都グループの総帥と『紅天女』を受け継いだ大女優を両親に持つ自分の立場を、高名な映画監督と大女優の間の一人娘である亜弓に
重ねて、その親の名前を越える立場にまで自分を高めた彼女を尊敬していると、愛が両親の前で話したことがあるのだ。
だが、本当に久しぶりに家族団らんの時間を持てると夕食を楽しみにしていた自分の気持ちはどうなるんだ?愛の外出を許したマヤも
マヤだ。自然、速水は不機嫌になる。
「あの子も親と一緒にいるのが嬉しいばかりの年頃じゃありません。あなたもいい加減子離れしないと、愛に嫌われますよ」
「あ、愛はまだ13歳なんだぞ!まだまだ子供じゃないか!!」
またか、とマヤは少々うんざりしてきた。どうしてこの人は愛のこととなるとこうも冷静さを失うんだろう。これは少し、脅かして
やろうかしら、とマヤは悪戯心を起こした。
「まだ13歳、じゃなくて、もう13歳、ですわ。どこかであの子の『魂の片割れ』があの子をみそめているかもしれませんのよ」
「なにっ!?それはどこのどいつだ!!」
マヤの冗談をまともに受け取って色を失う夫の狼狽ぶりがおかしくて、マヤはさらに追い討ちをかけた。
「さあ、それはわかりませんけど。でも、真澄さん。あなたと私が出会ったのは、私が13歳のとき、今のあの子と同じ年の頃ですわ」
あわあわと口元を震わせている夫を見て、マヤはちょっとからかいすぎたかしら、と口の中だけで呟いた。でも娘のこととなると見境が
なくなる夫にはちょうどいいお灸よね、とも思うのだ。
「そんなことはこの俺が許さんからなっ!!」
速水はコーヒーを一気に飲み干すと席を立ち、庭の奥へずんずんと歩いていってしまった。
自分の気に入らないことが起きると、すぐ大声で怒鳴るのは昔のままよね、とマヤは呆れたように小さく笑う。
愛は間違いなく速水とマヤとの間に授かった実子だが、あの当時、速水には婚約者がいて、間近に控えた結婚を今さらやめることなど
許されず、マヤは速水には妊娠したことを告げないまま、ひとりで愛を産み、育てることを選んだ。その後、紆余曲折を経てふたりは
結婚し、今に至っている。結婚できるまでが苦難の道のりだっただけに、速水がマヤと愛へ示す愛情の深さは尋常ではない。
愛はその父親の思いが少々うっとおしくなってくる年頃なのだが、マヤは両方の気持ちがわかるだけに間に挟まって気を揉むことも多い。
仕方ないわね、とマヤが庭の方を見やると、まだ気持ちが収まらないのか、やや乱暴に伸びた枝を切り落とす夫の姿が遠景にあった。
「あらあら、お庭の木が丸坊主にされないうちに真澄さんをなだめないといけないわね」
マヤはカップに半分ほど残っていたコーヒーを飲み干してから立ち上がった。
「まったく、これで愛がお嫁にいくなんて言い出したらどうなるのかしら・・・」
あと10年もすれば現実になるかもしれない未来を想像して、マヤは苦笑しながら夫の方へとゆっくり歩いていった。
やわらかな陽射しの下、速水家の庭はあたたかな春風が吹きぬけていった。
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