「・・・どうして・・・こんな事に・・・」
  手術中と光った赤いランプを見つめながら、出てくる言葉はそれしかなかった。
  脳裏には鮮烈に彼女が宙を舞い、道路に叩き付けられる姿が浮かぶ。

  ”私の事を思うならほっといて!”
  
  彼女が車に跳ねられる直前に向けた言葉・・・。
  悲しみに歪む彼女の表情が浮かぶ。

  彼女をあそこまで追い詰めていたのは俺なんだろうか・・・。




               想い−後編−



  「・・・社長、マヤさんの容態は?」
  集中治療室の前にいる真澄に声がかかる。
  心配そうな表情を浮べた水城だった。
  「一命はとりとめたようだが・・・重傷を負っている。まだ油断できない状態らしい・・・」
  「・・・そんな・・・それじゃあ。紅天女は・・・」
  「芝居なんて、当分できそうにないだろう」
  「・・・そうですか。関係各所にはさっそく連絡しておきます」
  水城はチラリとガラスの向こうの病室のマヤを見ると、そう言い、くるりと来た道を歩き出した。
  「・・・水城君、くれぐれもマスコミには伏せていてくれ・・・今はまだ発表するには早い。この事は内密に頼む」
  水城の背中に釘を指すように言う。
  「・・・かしこまりました」
  一瞬、足取りを止め口にし、また歩き始めた。
  コツコツと廊下には彼女のヒ−ルの音が響いていた。
  真澄はその音を聞きながら、真っ直ぐと病室の彼女を見つめていた。
  いろいろな機器が身体中につけられた彼女は痛々しく見える。
  胸がいっぱいになり、やりきれない気持ちで溢れる。

  「・・・くそっ!どうして、彼女がこんな目に・・・」
  やり場のない気持ちを紛らわせるように、壁に向かって強く拳を押し当てた。

  それから一週間、マヤが意識を取り戻す事なく、紅天女を巡って、演劇業界は揺れていた。
  そして、ついにマスコミは紅天女を巡る騒動を知ると、面白おかしく記事にした。
  中にはもう、北島マヤは亡くなり、紅天女は姫川亜弓が受け取ったと書いたものや、今度の事故を仕組んだのは
  上演権を欲しがっていた大都芸能の速水が仕組んだものだと言うものまで出ていた。

  真澄はそれらに対していつものように冷静さを装っていたが、マヤが意識を取り戻さない事が日に日に彼の心に重くのしかかっていた。


  「マヤさん、まだ目覚めませんの?」
  紫織が心配そうに真澄に言う。
  「えぇ。意識を失ったままです」
  少し苛立ったように真澄は答えた。
  「・・・紅天女はどうなってしまうんですか?」
  「・・・さぁ、私にもわかりません。このまま幕を上げる事ができるのか・・・」
  「だったら、もう一人の候補に上演権を移すべきでは?」
  北島マヤが意識を取り戻さない以上、演劇協会もそうするべきだと言っていた。
  「そんな事させません!!」
  突然、感情的に声を荒げた真澄に、紫織は瞳を大きく見開いた。
  「・・・真澄様?」
  僅かに震える声で彼の名を口にする。
  「いえ、すみません。少し、疲れているんです」
  苛立ちを隠すように煙草を吸う。
  「・・・初めてみましたわ。真澄様が感情的になる所」
  「・・・彼女は、北島マヤはやっとの思いで紅天女を実力で掴んだんです。沢山の不幸に見まれながらも、あの子はめげなかった。
  何度も何度も乗り越え・・・そして、やっと、栄光を掴んだんです。それなのに、これでなかった事にするなんて・・・あまりにも酷すぎます。
  女優として彼女が満開の花を開くのはこれからなんです・・・よ」
  「・・・まるで、彼女に惚れているような口ぶりですわね」
  唇を噛み締め、真澄を見つめる。
  「・・・私はただ、ずっと見守って来た者としての意見を言っただけです」
  気持ちを隠すようにそう言うと、真澄はソファ−から立ち上がり、窓際に立った。
  「・・・真澄様、今こんな事を言うのは気が進みませんが・・・私とあなたの結婚をお忘れなく。紅天女がどうなろうと、
  私たちが結婚する事は変わりません」
  真澄の背中に力強く言い放つ。
  「・・・えぇ。もちろんです」
  くるりと、紫織の方を振り向き、感情を一切、切り離した表情で口にする。
  「そのお言葉が聞けてホッといたしました。それでは、私はこれで・・・」
  真澄に軽く会釈をすると、紫織は社長室から出て行った。

  ”結婚するあなたが、私の側にいる事は辛すぎます。手に入らないとわかっているあなたが側にいるのは辛いんです。
  これ以上・・・私を苦しめないで下さい。やっと、決断したのに、そんな優しい言葉かけないで下さい”
  捨て身のマヤが口にした言葉が心に響く。

  「・・・結婚か・・・」
  拳をギュッと握り、真澄は沈む夕陽を見つめていた。




  「・・・どうしたら、君は目覚めるんだ?マヤ」
  面会時間がとっくに過ぎた時間に彼女の病室に行く。
  依然彼女は意識が戻らないままだった。
  顔色は蒼白く、まるで蝋人形のようにも見えた。
  胸がギュッと締め付けられる。
  「・・・もし、君に愛していると伝えたら、君は俺を受け入れるんだろうか?」
  ベットの端に座り、マヤの顔を見下ろしながら呟く。
  「・・・勝手だよな。婚約中の男が口にする言葉じゃない事もわかっている。でも、愛しているんだ」
  苦しそうな表情を浮かべ、口にする。
  「・・・愛しているんだ・・・君だけを・・・」
  そっと唇を重ねる。
  気持ちを伝えるように、優しいキスを・・・。

  「・・・おやすみ。そして、さよなら、マヤ」
  唇を放すと、真澄はそう言い、病室を出た。





  「式は紫織さんのご希望通りでいいです」
  大都芸能に来た紫織に真澄が真正面から言う。
  その表情にはいつものような迷いは見えなかった。
  「・・・真澄様」
  以外な言葉に紫織は驚いていた。
  「どうしたんですか?そんな顔をして・・・。それとも、あなたはもう、私と結婚する気はないんですか?」
  冷たい表情で真澄が言う。
  「・・・いえ、そんな・・・。ただ、紅天女の事はどうするのです?」
  「もういいです。こうなってしまっては・・・何の手立ても使えない」
  なげやりな態度で真澄が言う。
  「・・・真澄様、本当にいいんですか?あんなに紅天女に対して情熱を持っていたのに」
  苛立ったように紫織が口にする。
  「どうしたのです?今日のあなたはいつもと全く正反対の事を言う」
  苦笑を浮べる。
  「・・・いえ、ただ・・・私は、これでは・・・あまりにも中途半端な感じで嫌なだけです」
  「・・・紫織さん?」
  突然、ソファ−から立ち上がった彼女を不思議そうに見つめる。
  「・・・真澄様、一つ聞かせて下さい。どうして、北島マヤはあなたとの契約に来なかったんですか?」
  「・・・それは、彼女は知ってしまったんですよ。私が紅天女を復讐の道具にしようとしていた事を・・・ただ、それだけです」
  伏せ目がちに真澄が口にする。
  「・・・そうですか・・・」

  ”マヤさん、私はね。真澄様にそんな事はさせたくないの。悲しいですわ。いくら血が繋がらなくても
  いがみ合う親子だなんて・・・。私は真澄様と幸せな家庭を築いて真澄様の心の傷を癒してあげたいの。
  だから、お願いします。真澄様にだけは紅天女を渡さないで下さい”

  紫織はマヤとの最後の会話を思い出した。

  あの子、私の言葉を真に受けて・・・。
  やりきれなさが胸に募る。

  「・・・真澄様、私が彼女に教えましたの。あなたとあなたのお義父様の間にある紅天女を巡る確執を・・・」
  真澄に背を向けたまま、小さく口にする。
  「えっ」
  紫織の言葉に驚いたように彼女を見る。
  「それでも、私と結婚なさってくれますか?私は嫌な女です。マヤさんにあなたを取られたくなかった・・・」
  涙交じりの声で言う。
  華奢な背中が泣いているように見えた。
  「・・・紫織さん・・・。何を泣いているのです。彼女は僕にとって、女優・・・ただ、それだけです」
  そっと、紫織の背中を抱きしめるようにして囁く。
  「・・・じゃあ、私は?あなたの何ですか?」
  涙いっぱいの顔で真澄を振り向く。
  「・・・あなたは僕の大切な婚約者です」
  「でも、愛しては下さっていないんでしょ?あなたの愛は私にはない・・・」
  悲しそうな瞳で真澄を見つめる。
  「・・・紫織さん・・・」
  「最初からわかってます。あなたと私の結婚はただ会社の利益を生み出すだけのもの・・・感情なんて、関係のない事ぐらい・・・。
  でも、それでも、結婚相手を好きになろう。愛そうと思って・・・そして、あなたを愛してしまった。こんな気持ちになったのは私の人生の中で
  あなただけです」
  瞳を細め、真澄をじっと見つめる。
  「・・・愛していないのなら、優しくしないで下さい。辛すぎます」
  真澄は紫織の言葉に何一つ言い返す事ができなかった。
  心のうちをいつの間にか見透かされていた事に何の反論もできなかった。

  「結婚式は来月行いましょう。私はあなたへの感情を全て切り捨てます。会社の為の結婚ですから」
  帰り際にそう告げた彼女は冷たい表情だった。
  感情の全てをどこかに置いてきてしまったような・・・。





  「お断りします」
  演劇協会に呼び出された姫川亜弓はハッキリとそう言った。
  「亜弓君・・・」
  会長を始め、役員たちが皆、驚いたように亜弓を見つめた。
  「紅天女は北島マヤのものです。このまま幕を開く事ができなくても・・・」
  「しかし、それでは・・・あまりにも・・・」
  「もし、彼女が目覚めなかったら、私が紅天女の後継者を探します。一生をかけて・・・。
  ただ、私には演じる事はできません。私が選ばれたのではないから」
  一言も口を挟ませないという迫力で亜弓は言い切った。
  「失礼します」
  亜弓は席を立ち、堂々とその場から去った。

  「中々あそこまで言えるものではないと思うがな」
  応接室から出てきた亜弓に廊下で佇む真澄が言う。
  「事実ですから・・・。紅天女は北島マヤのものです。それは彼女の身に何があっても変わりません」
  「君は紅天女が欲しかったのではないのか?」
  「・・・欲しいです。その気持ちはずっと変わりません。でも、彼女が意識がない事をいい事に、ここで、私が紅天女を受ける訳には
  いきません。それは先生の・・・、月影千草の意志を裏切る事になります。そして、もし、受けてしまったら、ずっと、後ろめたさで一杯になるでしょう。
  私はそんなズルイ人間にはなりたくありません」
  真っ直ぐに真澄を見つめる。
  「・・・ズルイ人間か・・・」
  亜弓の言葉に何かが響く。
  「さすが、姫川亜弓だな・・・」
  真澄はそう呟くと、彼女に背を向け、歩き出した。



  「・・・マヤさん。いつまでも眠っていたら、駄目よ!」
  マヤの病室に行き、3週間以上意識を取り戻さない彼女に向かって言う。
  「早く起きないと・・・私があなたの紅天女、とってしまうわよ」
  涙ぐみながら口にする。
  「お願いよ。目を覚まして・・・私、やっと、諦めたのに、また手を伸ばしてしまう。私をズルイ人間にしないで」
  唇を噛み、亜弓はマヤのベットで泣いていた。




  「紅天女はどうするつもりだ?」
  英介が、苛立ったように真澄に言う。
  「・・・さあ、私にもどうなるのか・・・わかりません」
  「まだ、あの子は目覚めないのか?」
  「えぇ。医者の話では・・・もう、意識を取り戻す事は・・・ないと」
  真澄の言葉に英介は強い衝撃を全身に覚えた。
  「・・・何!」
  「姫川亜弓も紅天女を継ぐ気はないと言っています」
  真澄は淡々と事実を述べていった。
  そんな真澄に苛立つように、英介は側にあった杖を投げた。

  ガシャ−ン!
  真澄のすぐ横を通り過ぎ、後ろの窓ガラスが派手に割れる。
  「どう責任を取るつもりだ!!真澄!!」
  ただならぬ剣幕で怒鳴りつける。
  英介の言葉が胸に響く。

  俺が追い詰めなければ・・・あの子はこんな事故に巻き込まれる事はなかった。
  全ては俺のせいだ・・・。

  グッと唇を噛み締め、真澄はただ、ただ、真っ直ぐに英介を見つめていた。





  マヤ・・・。君は本当に、もう目覚めないのか?

  人知れず、毎晩のように彼女の病室を訪れる。
  彼女の瞳が開く事はなかった。
  穏やかに眠る表情は、まるで今にも瞳を開きそうに見える。
  その姿に涙が溢れる。
  止め処なく、涙が流れ、頬に流れ落ちる。

  「・・・マヤ・・・」
  彼女をきつく抱きしめながら、真澄は一晩中泣いていた。




  「いよいよ、明後日ですわね」
  水城がおもぐろに、呟いた。
  「・・・あぁ。そうだな」
  水城が持ってきたコ−ヒ−を口にしながら、真澄が答える。
  「・・・本当に、いいんですか。このままで」
  耐え切れず、水城が口にする。
  「何の事だ?」
  水城を鋭く見つめる。
  「・・・社長はこのまま結婚してしまって、後悔はないんですか?」
  ずっと、心の中で真澄に向けていた言葉を口にする。
  「・・・本当に、いいんですか?」
  真澄は水城の問いには何も答えなかった。

  Trrr・・・。Trrrr・・・。

  重い沈黙を破るように真澄の携帯が鳴った。
  上着の内ポケットから取り出し、電話に出る。

  「速水だが・・・何!!マヤが!!」
  突然の知らせに真澄が声を荒げる。
  「知らせてくれてありがとう。すぐに行く」
  そう言い、電話を切る。

  「マヤさんに何かあったんですか?」
  水城が不安そうに口にする。
  「・・・マヤが・・・意識を取り戻した・・・」
  薄っすらと涙を浮かべながら、真澄は水城に言った。
  その知らせに水城も思わず涙ぐみそうになった。




  「マヤの様子は?」
  病院に駆け込み、麗に言う。
  「・・・それが・・・」
  マヤが意識を取り戻したというのに麗の表情は青白かった。
  「まさか、マヤの身に何か・・・」
  不安な思いに駆られる。

  「・・・声が出ないんです・・・。主治医の話では精神的なものだろうって・・・」
  「・・・声が・・・そんな・・・」



  「・・・やぁ、ちびちゃん、久しぶりだね」
  マヤの病室に入ると、彼女はベットから起き上がり、真澄を見つめていた。
  その姿に胸が締め付けられる。
  思わず、抱きしめそうになる。
  「・・・よかった。君が目を覚まして・・・」

  例え、彼女の声が二度と聞けなくても、こうして、俺を見つめている彼女がいる。
  意識を戻す事がないと言われた彼女がこうして、生きているんだ・・・。

  真澄はベットに駆け寄り、強く、彼女を抱きしめた。
  「おかえり、ちびちゃん。ずっと、君を待っていたよ・・・」
  涙ぐみながら、言葉を口にする。
  マヤは真澄の腕に抱きしめられ、涙を流した。
  二人はいつまでも、抱き合っていた。




  「・・・婚約を解消しましょう」
  その夜、真澄は鷹宮家に出向き、紫織の両親、祖父、そして、紫織を目の前にそう口にした。
  「・・・なっ、今更、何を言っているんだ!!」
  一番激怒したのは紫織の祖父だった。
  「失礼をお詫びします。こんな時期にこんな事を口にするのは非常識だとわかっています。しかし、
  私はやっぱり、お嬢さんと、紫織さんとは結婚はできません」
  誠実な態度で真澄は口にした。
  「・・・それはどういう事になるのかわかっているのかね?君は鷹宮グル−プを敵にしたも同然なんだよ」
  紫織の父が厳しい視線を真澄に向ける。
  「覚悟の上です」
  迷いのない瞳でキッパリと口にする。
  「貴様!!よくもぬけぬけと!!!出て行け!!!」
  紫織の祖父が感情を露にする。
  「申し訳ございません」
  真澄はソファ−から降りると、床に膝をついて、土下座をした。
  その態度に誰もが言葉を失う。
  鷹宮と唯一張り合う、大企業大都グル−プの御曹司が頭を下げているという光景は現実身が薄れる程、信じられない事であった。
  「・・・真澄様、お手をあげて下さい」
  耐え切れず、紫織が真澄に駆け寄る。
  「紫織さん、僕は汚い人間です。これは当然の事です」
  真澄は尚も土下座し続けた。
  「お爺様、お父様、お母様、どうか、真澄様を許して下さい」
  紫織は意を決したように、真澄の隣に座り、一緒に土下座をした。
  「・・・なっ、紫織さん・・・あなた・・・」
  紫織の母が驚いたように声にする。
  「紫織!やめないか!おまえまで・・・」
  父親が耐え切られないというように口にする。
  「真澄様を許して下ると言うまで、私はやめません。それに、私もこの結婚はなかった事にして欲しいんです。
  私は・・・真澄様の他に好きな人がいます。会社の為の結婚なんて・・・やっぱり、耐えられません!」
  身体の弱い彼女が初めて見せた抵抗だった。
  「・・・好きな人だと!」
  紫織の祖父が声を荒げる。
  「はい。真澄様との結婚が決まる前から私は思いを寄せる人がいます。どうか、私の最初で最後の我が儘を聞いて下さい」
  「・・・勝手にしろ!もう、わしは知らん!」
  そう言い、紫織の祖父はその場を苛立たし気に出て行った。


  「・・・紫織さん、俺の我が儘を聞いてくれてありがとう」
  別れ際に二人っきりになった時に真澄が申し訳なさそうに口にする。
  「・・・いいんです。あなたが望む事が私の望みですから」
  悲しそうに紫織が笑う。
  「ただ、最後に一つ、聞かせて下さい。どうして、結婚をやめる気に?」
  「・・・北島マヤが目覚めたんです。そして、俺は彼女の病室に行って気づいた。
  自分がズルイ人間だと・・・。自分の優柔不断さに許せなくなったんです。そして、あなたとこのまま結婚する事は間違いだと・・・。
  あなたに対しても失礼だと・・・」
  真澄の言葉に涙ぐみそうになる。
  「・・・愛しているんですか?北島マヤを」
  「えぇ。愛しています。ずっと前から・・・」
  真澄は言葉を濁す事なくハッキリと告げた。
  「・・・初めてですね。あなたが認めたのは・・・。真澄様、もう二度と手放してはいけませんよ。
  ずっと、彼女の側にいて下さい。それが私の望みです」
  「・・・紫織さん・・・」
  「・・・さよなら・・・私の愛した人・・・」
  軽く背伸びをし、紫織は真澄の頬に口付けた。



  「どうだ?ちびちゃん。調子の方は?」
  真澄は一日もかかさず、彼女の病室に訪れていた。
  最初は表情の暗い彼女だが、段々と真澄に笑顔を向けるようになった。
  いつものように、真澄は彼女の側に座り、一日の出来事や、他愛もない話をする。
  マヤはそれを聞きながら、笑っていた。

  『そういえば、速水さん、お仕事は?』
  ふと、時計を見ると、まだ午後3時だった。
  真澄が来るにはいつもよりも随分と早い。
  紙に書かれたマヤの字を見ながら、真澄は口を開いた。
  「今日は仕事する気になれなくてな」
  『今頃、水城さんが探しているんじゃないですか?』
  真澄の言葉に苦笑を漏らしながら、サラサラと紙に書く。
  「はははは。だろうな」
  『速水さんでもそんな事があるんですね』
  そう書き、マヤは柔らかい笑みを浮べる。
  その表情の可憐さに、胸がキュンとする。
  「・・・そういえば、来週退院だってな。おめでとう」
  真澄がそう口にした途端、マヤの表情が曇る。
  「・・・うん?どうした?嬉しくないのか?」
  『現実に戻るのが怖いんです。今のままでは、私は到底、紅天女なんて、演じられませんから。
  それに・・・』
  そこまで、書くと、マヤはペンを止めた。
  「・・・それに何だ?」
  真澄の問いにマヤは首を左右に振るだけだった。
  「・・・マヤ、言いたい事があるなら、ちゃんと答えてくれ」
  彼女の両肩を掴み口にする。
  マヤの顔からは笑顔が消え、とても寂しそうに見えた。
  「どうして、そんな顔をする?」
  マヤの気持ちが見えず、苛立ったように口にする。
  マヤはひたすら、首を振るだけだった。
  「・・・マヤ・・・」




  「マヤさん、まだ言葉を失ったままなんですか?」
  頭を抱え込むようにして、悩む真澄に水城が言葉をかける。
  「・・・水城くん、いたのか・・・もう、午後10時を過ぎているぞ」
  「社長がお帰りにならないのに、秘書が帰れると思います?」
  冗談交じりにそう言い、真澄の前にコ−ヒ−カップを置く。
  「君がそんなに忠実だったとは知らなかったよ」
  水城が入れたコ−ヒ−を口にする。
  真澄の言葉に水城はにこやかな微笑みを浮べる。
  「言葉を失う程のショックが何だったのかを知り、そのショックを取り除いてやる事ができれば、彼女の言葉は戻るそうだ」
  「・・・なるほど。では、それができるのはおそらく真澄様だけですわね」
  「えっ」
  水城の言葉に驚いたように声にする。
  「彼女が言葉を失う前に話していたのは真澄様でしょ?その言葉の中に鍵があるような気がします」
  「・・・鍵か・・・」




  ”私が、あなたを愛してる・・・好きだと、言ったらどうするんですか?それでも、私の側にいたいと思いますか?”

  ”結婚するあなたが、私の側にいる事は辛すぎます。手に入らないとわかっているあなたが側にいるのは辛いんです。
   これ以上・・・私を苦しめないで下さい。やっと、決断したのに、そんな優しい言葉かけないで下さい”

  ”・・・放して!こんな事されたら離れられなくなる!私、速水さんの結婚を壊す嫌な女になっちゃいます!”

  ”・・・やめて!!”

  ”私の事を思うならほっといて!!”

  マヤの苦しそうな表情と、最後の言葉が浮かぶ。

  「・・・まさか・・・」
  思い出し、ある事に気づく・・・。

  ”私、速水さんと何か繋がりが欲しかったんです。だから、あなたに上演権の管理をお願いしようとしました”
  浮かんだ考えを否定しようとした瞬間に、また彼女の言葉が浮かぶ。

  「・・・そうか。そうだったのか・・・マヤ・・・」
  自分の鈍感さに苦笑を浮べる。
  「・・・わかったよ。俺がどうするべきか・・・」



  「マヤ、これあなたに届いていたわよ」
  退院した次の日、麗がマヤに紫の薔薇の花束を差し出す。

  速水さんだ・・・。

  嬉しそうに薔薇の花束を抱きしめる。
  ここ2,3日真澄と会えず、淋しかったが、花束を見た瞬間、その気持ちは吹き飛んだ。

  『退院おめでとうございます。あなたが無事でホッとしました。
  あなたに大切なお話があります。もし、ご都合が宜しければ、明日の午後私に会って下さい。
  私の使いがあなたを迎えに行きます』

  「・・・マヤどうしたの?」
  カ−ドを見つめ、戸惑いの表情を浮かべているマヤに麗が口にする。
  マヤはその問いに涙ぐみながら笑顔を浮かべた。



  「お久しぶりです」
  約束の時間に聖がマヤのアパ−トを訪れた。
  マヤは笑顔で彼を出迎えた。

  「どうしました?不安ですか?」
  車を運転しながら、聖がチラリとマヤを見つめる。
  マヤはその問いに頷いた。
  「あの方もきっと、あなたと同じぐらい不安だと思います。ずっと、あの方は影であなたを見守っていくつもりでした。
  でも、それではいけない事に気づいたんです」
  聖の胸に真澄との会話が浮かぶ。

  「聖、俺はマヤに会うよ。紫の薔薇の人として」
  「・・・真澄様・・・」
  真澄の言葉に聖は瞳を見開いた。
  「会いたいんだ。堂々と・・・」
  そう告げた真澄は鮮やかな笑みを浮べた。



  「着きました。あの方はここであなたをお待ちです」

  ”ア−ト劇場”と書かれたその建物の前に車は止まった。

  ここは・・・。
  車から一歩降り、その建物を見つめる。
  「あの方が初めてあなたに紫の薔薇を送った劇場です」
  そう、この場所はマヤが劇団月影に入って初めての舞台”若草物語”を演じた場所だった。
  「ここからは、一人でどうぞ」
  聖に言われ、マヤは劇場の中に入った。
  その瞬間、不思議な感覚に襲われる。
  40度の熱を上げながら、ベスを演じたあの頃の気持ちが彼女の胸の中に溢れていた。
  若草物語が演じられたその場所に行き、ドアを開け、舞台を見つめる。

  「覚えていますか?ここの舞台を」
  どこからか声がする。
  マヤは客席からゆっくりと、その声に惹かれるように舞台に向かって歩いた。
  「初めてあなたの舞台を観ました。とても情熱的で、胸が締め付けられたような思いに駆られました」
  マヤはその声に初めて紫の薔薇の花束が届いた日の事を思い出した。
  「それから、私はあなたから、目が離せなくなってしまった。そして、いつからか・・その気持ちは・・・ファン以上のものになっていた」
  舞台を見上げると、紫の薔薇の花束を抱えた男性が立っていた。
  花束で隠れ、その顔はまだ見えなかった。
  「ずっと、あなたに会いたかった」
  舞台からゆっくりと、降り、マヤに近づき、紫の薔薇の花束を差し出す。
  二人はしっかりと互いを見つめ合った。
  「私が紫の薔薇の人・・・。そして、あなたを誰よりも愛する男」
  彼の言葉にマヤの瞳がみるみる涙に濡れていく。
  「・・・愛してる。マヤ・・・」
  彼女の頬にそっと触れ告げる。
  「ずっと、俺と一緒にいて欲しい・・・」
  優しく彼女を抱きしめる。

  「・・・は、はやみ・・・さん・・・」

  腕の中の彼女がゆっくりと口開く。
  二ヶ月ぶりに聞くマヤの声だった。
  「・・・マヤ・・・言葉が・・・」
  彼女を見つめる。

  「・・・速水さん!!!」
  そう叫び、彼女は真澄の腕の中で泣き崩れた。
  「・・・マヤ・・・」
  しっかりと彼女を抱きしめ、真澄も涙を浮べた。




  それから、半年後、幸せそうな二人の姿があった。

  マヤは真っ白なウェディングドレスに身を包み、緊張した面持ちで、式の始まる時間を待った。

  「緊張しているのか?」
  控え室のドアが開き、白いタキシ−ドを着こなした真澄が入ってくる。
  その姿に胸が大きく脈うつ。
  真澄も、マヤのドレス姿を目にして、息が止まりそうだった。
  「・・・だって、こんなドレス着るの初めてだし・・・」
  はにかんだようにマヤが言う。
  「・・・綺麗だ・・・とても」
  愛おしそうにマヤを見つめる。
  「えっ・・・」
  真澄の言葉にマヤの頬が赤くなる。
  「はははは。素直だな」
  真澄はその姿に可笑しそうに笑った。
  「だって、そんな事面と向かって言われる事ってないから・・・」
  「これから、俺が毎日のように口にするよ」
  マヤを抱きしめる。
  「君は俺の最愛の人だ。これからも、それは変わる事がない・・・何があっても」
  「・・・速水さん・・・」
  マヤの瞳に薄っすらと涙が浮かぶ。
  「一生君を手放さないから覚悟しとけよ」
  冗談混じりに真澄が言う。
  マヤは輝く程の笑顔を浮かべた。






                      THE END


【後書き】
何とか書き上げました。もっと、ゆっくり書き上げていこうかな・・・と思ったんですけど、気づいたら、書き終わってしまった(笑)
今回、Cat初の試みとして、聖さんに登場して貰いました♪
といってもほんの少しなんですけどね・・・(笑)

ここまでお付き合い頂きありがとうございました♪

2001.10.24.
Cat







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