Remembrance−中編−




       「・・・嘘・・・」

         マヤが目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋のベットの上だった。
         隣には野沢が裸で眠っている。
         「・・・起きたのか?」
         放心状態のマヤに野沢の声がかかる。
         どうして自分がここにいるのか、必死に記憶を辿るが何も浮かばない。
         しかし、夢を見た事を思い出す。
         その夢は速水に抱かれる夢だった。
         妙にリアリティがあるように感じていたが・・・まさか・・・本当に誰かに抱かれていたとは想像もつかない。
         疑いを晴らすように、布団の中の自分を見るが、下着一つつけていなかった。
         「・・・昨夜は良かったよ」
         耳元で囁くように野沢が言う。
         その言葉にカアッと全身が熱くなる。
         次の瞬間、マヤは怒りに身を任せて野沢の頬を叩いていた。
         パンッ!という音ともに、赤く野沢の頬がはれ上がる。
         「・・どうして・・・」
         責めるような視線を向け、呟く。
         野沢はその問いには答えず、ベットサイドに置いてあった煙草に手を出した。
         マヤは堪らず、ベットの周りに散らばっている服をかき集め、身につけると、無言で彼の部屋を出た。

         「・・・くそっ」
         マヤが去った後、やりきれない想いが胸を締め付けていた。
         野沢は側にあった灰皿に思い通りにならない感情をぶつけるようになげつけた。
         壁にぶつかり無残に粉々に崩れた破片に自分の姿を見ていた。




         どうして・・・こんな事に・・・どうして・・・。

         マヤは涙が止まらなかった。
         野沢の事は何でも相談できる兄のような存在だったのに・・・。
         それを全て、裏切られたようだった。
         タクシ−を捕まえ、何とか冷静になろうと、深呼吸する。
         それでも、涙を抑える事などできなかった。
         震える体を両腕で包み、必死で耐える。
         犯してしまった罪の重さに、胸が痛む。
         速水の顔が浮かび、罪悪感でいっぱいだった。




         「・・・仕組まれたな」
         真澄は思いかげず載った週刊誌に頭を悩ませていた。
         今回の記事は真澄に恨みを持つものが書かせたとしか思えなかった。
         しかし、彼を恨む者などこの業界には星の数ほどいて実際、誰の仕業か検討もつかない。
         以前まではこんなスキャンダルの一つや、二つ載った所で何ともなかったが、今はマヤがいる。
         彼女がこれを目にしたら、どう思うか・・・。
         ただでさえ、あまり会えず寂しい思いをさせているのに、きっと、不安で仕方がなくなるだろう。
         マヤがどう思っているのか知りたくて、何度も彼女の携帯にかけるが繋がらない。
         真澄はいてもたってもいられなくなり、彼女のマンションの前に来ていた。

         そして、明け方になり、ようやくその姿を確認する。

         「今まで、どこに行っていたんだ?」
         タクシ−を降り、急に背後から話し掛けられる。
         驚いて振り向くと、心配そうな速水の顔があった。

         今は一番会いたくない相手・・・。

         マヤの心臓が大きく脈うつ。
         野沢に抱かれた事を何としても隠さなければならない。
         彼に嫌われたくないから・・・。
         怒らせたくないから・・・。

         「・・・あの、友達と飲んでいたの・・・」
         普段の変わらない様子で速水を見る。
         「どうしたの?こんなに朝早くから?」
         不思議そうに真澄を見る。
         そう言った瞬間、強く抱きしめられた。
         「・・会いたかったんだ・・・君に・・・」
         力強い真澄の抱擁に罪の意識が大きくなる。
         「・・・すまない。トラブルがおきて、一週間L.A.に行っていた・・・。
         君に何も告げずに出張してしまった事がずっと気になっていたんだ。それに・・・君は見たんだろ?あの週刊誌を。
         あれは全部嘘だ。俺に恨みがあるものが書かせた記事だ・・・。俺が愛しているのは君だけだ」
         一晩中マヤを待ちながら、考えていた言葉を全て口にする。
         真澄の声は不安気だった。
         「・・・速水さん・・・」
         「・・・マヤ、俺は君に対してやましい事は何一つない」
         真っ直ぐと腕の中のマヤを見つめる。
         その熱い瞳に罪悪感が募る。
         「・・・大丈夫。わかってるわ」
         仮面を被り、笑顔を作る。
         「ごめんなさい。速水さんに余計な気をつかわせて。私、大丈夫だから」
         するりと、真澄の腕から抜け、背を向ける。
         「・・・せっかく来てもらって悪いけど・・・私、今日は疲れているの・・・、これからお芝居の稽古にも行かなくちゃならないし、
         その話、また今度にしてくれないかな」
         動揺を声に出さないように、努めて平静な声で言う。
         「・・・速水さんも、これからお仕事でしょ。少しは寝ないと・・・ね」
         深呼吸をし、何でもないように真澄を振り向く。
         何かいつものマヤとは違うものを感じる。
         「・・・あぁ。わかった」
         違和感を感じるが、今は問い詰めるべきではないと思った。
         「じゃあ、またな」
         軽くマヤの唇にキスをする。
         一瞬、マヤの唇が震えたような気がした。
         「・・・うん。また」
         唇を離すといつもと変わらぬマヤがそう言う。
         何か引っかかるものを感じながらも、真澄はその場を後にした。



         マヤは部屋に戻ると立っていられなかった。
         体がガクガクと震え出す。
         心臓が口から出そうな程、ドクドクと脈を打つ。
         真澄に嘘をついた事が自分でも許せなかった。

         「・・・これから・・・どうしよう・・・」
         震える声で呟く。
         このまま嘘をつき通すべきか、迷う。
         しかし、何があっても真澄に他の男に抱かれた事は知られたくない。
         嘘をつき続けるしかないのだと心の声が言う。
         マヤは愚かな自分に止め処ない涙を流した。




         「・・・はぁぁ・・・」
         いつになく暗い表情で真澄がため息をつく。
         「・・・もう、36回目ですよ」
         水城の声がする。
         「えっ」
         社長室に入ってきた彼女を見つめる。
         「ため息です。今日一日私が知る限り・・・ずっと、ため息をついているようですが・・・」
         そう言い、真澄の前にコ−ヒ−カップを置く。
         「マヤさんと何かあったんですか?」
         コ−ヒ−を口にした途端、そう言われ、危うくむせそうになる。
         明らかな真澄の動揺に水城は”またか”と心の中で呟いた。
         「・・・いや、別に何もないんだが・・・その、何と言うか・・・彼女らしくないんだ。まるで、俺に何かを隠しているような・・・」
         コ−ヒ−カップを置き、心に刺さっている棘を口にする。
         「・・まぁ、考えすぎかもしれないがな」
         「そうですよ。社長は少し考えすぎなんです。一体、マヤちゃんが何を隠すというんです?」
         水城にそう言われてみて、何も思い浮かばない。
         「・・・そうだな。考え過ぎだな」
         苦笑を漏らし、ぼんやりと窓の外を見つめる。
         マヤの顔が窓ガラスに浮かんで見える。

         本当に・・・ただの考えすぎなのだろうか・・・。



         マヤはあれ以来、野沢とは一言も言葉を交わさなかった。
         同じ稽古場にいても役柄以上の事はしない。
         しかし、毎日顔を合わせる事が、日一日と彼女の神経を張り詰めさせた。
         嫌でも野沢を目にすると、抱かれた事を思い出してしまう。
         そして、こんな状態だから、自分から速水に会いに行く事もできない。
         それどころか、せっかくの彼からの誘いも稽古を理由に断っていた。
         正に、マヤは今、八方塞がりという状態だった。
         食べ物もろくに食べる事ができず、精神力だけでなく体力的にも弱っていき、

         とうとう、彼女は稽古中に倒れる事になった。



         「えっ・・・!妊娠・・・」
         真澄が病院に駆けつけると、医師からの言葉に唖然とする。
         瞳を大きく見開き、今のマヤの状態を説明する医師を見つめる。
         「えぇ。今はまだ不安定な時期ですから、安定期に入るまで無理はしない方がいいでしょう」
         医師の言葉に真澄はかろうじて相槌を打つと、マヤの眠る病室に出向いた。
         彼女は青白い顔をして眠っていた。
         一月ぶりに見る彼女は最後に会った時よりも痩せていた。


         目を開けるとそこは見知らぬ天井だった。
         「・・・気づいたか?」
         心配するような優しい声がする。
         首を横にすると、速水がいた。
         胸がチクリと痛む。
         「・・・速水さん・・・どうしてここに?」
         「君が倒れたと聞いたからね。飛んできた」
         久しぶりに目にする優しい瞳に胸が熱くなる。
         真澄を愛しいと思う気持ちと、罪悪感が混ざり、彼女を苦しめる。
         「・・・私、倒れたの?」
         「あぁ」
         そう呟いた真澄はどこか嬉しそうだった。
         「うん?何・・・速水さん、にたにたして」
         「・・・妊娠したんだって・・・マヤ。俺たちに子供ができたんだよ」
         満面の笑みを浮かべ、マヤをギュッと抱きしめる。

         妊娠・・・。

         その言葉に野沢との事が浮かぶ。
         速水は彼女の事を思い、その方面についてはいつも注意深かった。
         だから、この時期に妊娠するとしたら、野沢が父親と考える方がしっくりくるのだ。
         マヤの瞳から涙が溢れてくる。
         「・・・マヤ?」
         不思議そうに真澄が彼女を見つめる。
         「・・・ごめんなさい。あまりにも突然だったから・・・驚いて・・・少し、一人にしてくれるかな」
         最後の理性を振り絞り疑われないように口にする。
         「・・・あぁ。そうだな。ごめん。実は俺もついさっきまで信じられなくて・・・呆然としていたんだ。
         マヤの顔を見たら・・・嬉しさがこみ上げてきて・・・」
         幸せそうな真澄の表情にズシリと胸が重くなる。

         速水さん・・・。

         キリキリと胸を締め付けられ、今にも心臓が潰れてしまいそうだった。
         この時から罪の意識に耐え切れなくなくり、マヤの中の何かが、少しずつ崩壊しはじめていた。



         芝居を理由に中絶をしようかと、考えたが、マヤの妊娠を誰よりも喜んでいる速水にとても、そんな事は言えなかった。
         まして、速水の子供でもないかもしれない・・・なんて、口が裂けても言えない。
         マヤ自身も本当の所、お腹の子が速水との子なのか、野沢との子なのかわからなくなっていた。
         どんなに速水の子であって欲しいか願う。
         しかし、いくら願っても野沢に抱かれた事実は消す事はできない。

         マヤはこの事は速水にも野沢にも話すつもりはなかった。
         彼女一人、誰にも言えない秘密を抱えたままお腹の子は育っていく。
         それでも、自分の中のかけがえのない新しい命を愛そうと思った。
         例え、速水の子でなくても、マヤの子である事には変わらない。
         とにかく、産むしかないのだと・・・マヤは自分を無理矢理納得させていた。


         「どうしたんだい?浮かない顔をして」
         久しぶりに会った麗が口にする。
         「えっ・・・別に」
         言葉を濁すように瞳を伏せる。
         「・・・何か元気ないなぁ。それじゃあ、丈夫な子は産めないぞ」
         マヤを元気づけるように麗が言う。
         「うん。そうだよね。元気出さないとね」
         マヤは麗の言葉に覚悟を決めた。

         この子が誰の子でもいい・・・。
         愛そう・・・精一杯・・・。

         マヤは愛しむように少し目だってきたお腹をさすった。




         「・・・そろそろ籍を入れようと思うんだが・・、やっぱり、未婚のまま産ませる訳にはいかないしな」
         妊娠も五ヶ月を迎える頃真澄が何気なく口にする。
         「俺も来週から君と一緒に住むよ。君一人じゃ、何かと大変だろ?今日、新居も決めてきたんだ」
         あまりにも唐突な言葉に、マヤは動揺を隠せなかった。
         「・・・マヤ?」
         いつもと様子の違う彼女に何かを勘付く。
         「・・どうした?真っ青だぞ」
         心配そうにマヤを見つめる。
         「・・・その、急に気持ち悪くなってきて」
         「つわりか?」
         「うん。ちょっとごめん」
         そう言うと、マヤはバスル−ムに駆け込んだ。
         一人になり、気持ちを落ち着けるように深呼吸をする。

         いいの?このまま速水さんと結婚して・・・。
         彼は知らないのよ?本当に自分の子かどうか・・・。
         もし、生まれてきた子が速水さんの子じゃなかったら・・・。

         大きな不安にがくがくと体中が震え出す。
         気持ちを抑えようとすれば、する程、後ろめたさが大きくなる。
         速水の笑顔を目にすると、耐え切れなくなる。

         一層の事、全てを忘れられたら・・・。
         速水を愛した事を忘れられたら・・・。
         こんなに苦しむ事はないのではないだろうか。

         拳を口にあて、声を殺すように泣く。
         速水への愛が大きければ、大きい程、不安で仕方がない。
         事実を知ってしまった速水がどう思うか・・・。
         それを考えるだけで、夜もろくに眠る事ができなかった。

         もう耐えられない・・・。
         もう嘘なんてつけない・・・。

         焦燥感にかられ、震えが止まらない。
         そして、激しい頭痛が襲う。
         何も考えられない程に頭の芯が痛くなる。

         ”おいで”

         朦朧としだす意識の中で誰かがそう言った気がした。



         「マヤ!」
         中々出てこない彼女を心配し、バスル−ムに行ってみれば、彼女は意識を失っていた。
         「しっかりしろ!」
         何度も声をかけるが何も反応しない。
         速水はすぐに救急車を呼んだ。




         「・・・あなたは・・・誰?」
         病院のベットの上で目を覚ましたマヤは速水に向かって信じられない言葉を口にした。
         その表情は冗談を言っているとも思えず、本当に速水を知らないという瞳をしていた。
         「・・・マヤ?」
         彼女の目の前にいるのは見知らぬ男性でしかなかった。
         そう呼ばれ、それが自分の名前だと認識する事ができるが、彼が誰なのかわからない。
         「俺だ!速水だ!しっかりしろ!マヤ」
         速水・・・そう言われてもその名前に何も思い出せない。
         まるで、今初めて聞いたような名前だった。
         マヤは頭を抱え再び頭痛に苦しんだ。




                                     後編1へ












2002.1.8.
Cat

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