Remembrance−後編1−
「一種の記憶障害ですな・・・」
マヤを診察した精神科の医師が口にする。
「記憶障害?」
速水はその言葉に戸惑いを隠せなかった。
「何かを強く忘れたいという気持ちが記憶を失わせるんです」
「・・・一体・・・どうすれば・・・」
「彼女が忘れようとしている事を思い出させるんです。きっと、誰にも言えない秘密を抱えていると思います。
それが何なのかわかれば・・・打つ手はあるのですが・・・。まぁ、とにかく無理はさせないように、普通の体でもありませんから」
誰にも言えない秘密・・・。
マヤが俺に隠し事をしていたと言うのか・・・。
心の中で呟き、いつかのよそよそしいマヤを思い出す。
「・・・まさか」
小さく呟く。
「・・・どうかなさいましたか?」
「・・・いえ、何でも・・・」
「まぁ、とりあえずの処置としては催眠術をかけてみようと思います」
「催眠術?」
「彼女の深層意識の底に埋もれているものに呼びかけ、何を不安に思っているかを探ります。おそらく、それで、部分的に記憶が欠如した理由がわかると思います」
あの人は誰・・・。
私を心配そうに見つめるあの人は・・・。
「・・・起きてて大丈夫か?」
ぼんやりとマヤが考え事をしていると真澄が病室に入ってきた。
「えっ、はい・・・何とか」
マヤの言葉に安心したように微笑む。
「そうか。よかった」
優しい瞳の彼に何だか、胸の鼓動が早くなる。
「・・・あの、あなたは・・・」
おどおど真澄を見つめる。
「・・・速水真澄。君が所属している事務所の社長だ」
一瞬、躊躇い彼女との関係を口にする。
真澄は医師からマヤが何の原因で記憶を失っているかわからない以上親しい関係だとは言わない方がいいと忠告をされていた。
自分の言葉に傷ついた気がした。
もう、二度と彼女を取り戻せないようなそんな不安に襲われる。
「・・・そうですか。社長さんですか・・・。すみません。ご迷惑をおかけして」
他人行儀なマヤに胸が痛む。
「・・・いや、迷惑だなんて思ってないよ。君は何て言ったってうちの看板女優だからね」
「君は今どこにいるかわかるかね?」
ゆったりとしたソファ−に座り、薄暗い部屋で医師はマヤに催眠術をかけていった。
真澄はその様子を少し離れた場所から見つめていた。
「・・・病院の応接室・・・」
「よし、では私が10から下へ数えていくと、君は一番思い出したくない事を思い出す。いいね」
そう言い、医師は指をパチンと鳴らし、数を下へと数え始めた。
「・・・君は今どこにいる?」
「・・・どこかの部屋のベット・・・」
「何をしているのかね」
「・・・寝ている・・・」
「一人でかね?」
「・・・いえ、隣には・・・野沢さんが・・・舞台で一緒に競演した・・・」
マヤの言葉に真澄は固まり、眉間に強く皺が刻まれる。
「・・・いや!私!私!!」
突然、マヤが叫び出す。
「どうしたのかね。大丈夫。私はここにいるよ。落ち着いて。さぁ、深呼吸をして」
「・・・私、これ以上は何も言えません」
取り乱して呼吸を落ち着け口にする。
「どうしてかね?」
「あの人に悲しい思いをさせたくないから、私、あの人を裏切る事をしてしまった」
「あの人とは?」
「顔は見えないけど・・・いつも、いつも私を包んでくれて、大切にしてくれる人です」
「あの人と君は恋人同士なの?」
「・・・多分・・・だったと思います。でも、顔が思い出せない。凄く愛しいと思うんです。愛しいと思えば、思うほど、あの人に申し訳なくて」
「申し訳ない?あの人じゃない人と一緒にベットを共にした事?」
医師の言葉にマヤは静かに頷いた。
「・・・はい。それに、お腹の中の子供が・・・私には誰の子かわからないんです。あの人の子なのか、違う人の子なのか。
でも、言えない・・・。あの人にそんな事言えない・・・。言ったら私を嫌いになる。あの人から離れるなんていや!
愛してるの。あの人の事を・・・とっても、とっても愛しているの」
マヤの瞳から涙が溢れ出す。
目の前のマヤに真澄はどうしてやるべきかわからなかった。
自分の子ではないかもしれない・・・。
その言葉が彼の胸を鋭く貫いた。
今はマヤの顔を見ているのが何よりも辛い。
できれば知りたくない事実だった。
激しい嫉妬にギュッと胸ほ掴まれる。
誰よりも愛しいマヤが他の男に抱かれたなんて耐えられない。
そして、その事に気づいてやれなかった自分が許せなかった。
マヤの妊娠で一人浮かれて彼女が追い詰められていたのも全くわからなかった。
ここまで彼女を追い詰めたのは俺だ・・・。
真澄は強い罪悪感に襲われ、その部屋を出た。
「・・・話がある」
舞台が終わり、一人楽屋にいる野沢に真澄が近づく。
「えっ・・・あんたは・・・北島の・・・」
思いがけない速水の登場に野沢は動揺を隠せなかった。
そう野沢が口にした途端、真澄の拳が彼の頬を直撃する。
野沢は立っていられずに、倒れた。
鋭い瞳で野沢を睨む。
その表情の冷たさに野沢は背筋に寒いものを感じた。
しかし、負けずに野沢は立ち上がり、速水に向かっていった。
男たちは暫く取っ組み合いになる。
「・・・どうして、マヤを抱いた!!」
そう言い、強く野沢の腹に拳を入れる。
苦しそうな表情を浮かべ、速水を睨む。
「・・・愛していたからだよ!」
心の声を叫び、真澄の頬に拳を入れる。
ガタンと音を立てて、真澄が倒れる。
「・・・あんた、知ってるか?北島がどんな思いでいたか?あんたに会いたいの会えなくて、ずっと、ずっと、寂しいのを我慢してあいつは笑っていたんだ!
あんたに嫌われたくないから、困らせたくないから、あいつは我がままさえ言えなかった!!」
マヤの寂しい思いを代弁するように叫ぶ。
野沢の意外な言葉に真澄は瞳を見開いた。
「・・・俺はいつもあいつの話をきいてやった。それで、少しは寂しさが消えるなら・・と思って・・・。
そして、いつの間にかあいつの事が好きになったいた。無理矢理に欲しい程に愛していたんだ」
野沢が言い終わると、真澄は立ち上がりに再び彼の頬を拳で殴った。
野沢は倒れ、もう起き上がれないようだった。
口から流れる血を拭い、控え室を出た。
くそっ!知ってたさ・・・。
マヤが寂しさを我慢していた事は・・・。
外に出て、自分を取り戻すように煙草を口にする。
知ってて俺は彼女を構ってやれなかった・・・。
自分のした事に強い罪の意識を感じる。
マヤに我慢をさせていた事に胸が痛む。
気づけば、涙を流していた。
「麗!!」
病室に現れた彼女にマヤは満面の笑みを浮かべた。
「すっかり元気そうだな」
マヤに優しい笑みを浮かべる。
「うん。・・・でも、どうしてここが?」
「速水さんが教えてくれたんだよ。マヤが入院したって・・・。それで、話し相手でもしてあげてくれってね」
一瞬、速水の名前に悲しそうに表情を浮かべる。
マヤは暫く速水とは会っていなかった。
「マヤ、本当に速水さんの事何も覚えていないのかい?」
ベットの側にあった椅子に麗が座る。
「・・・うん。ちっとも。速水さんの事だけがすっぽりと抜けてるの。他の事は覚えているのに・・・。
今まで出た舞台や、セリフ、共演者たちは思い出せるのに・・・速水さんの事になると何も・・・」
瞳を伏せる。
「・・・マヤ・・・。大丈夫。そのうち思い出すよ」
元気づけるようにポンと肩を叩く。
「・・・うん」
「そうだ!ねぇ。紫の薔薇の人って覚えてる?」
麗は何となく病室に飾れていた薔薇を目にし口にした。
「・・・紫の薔薇の人・・・うん!忘れる訳ないじゃない・・・。いつも私を励ましてくれて、高校にまでいかせてくれた恩人よ」
キラキラと目を輝かせ、紫の薔薇の人の事を話す時のマヤの表情になる。
「じゃあ。紫の薔薇の人から貰った最後の薔薇が何の舞台だったか覚えているかい?」
そう言われ、考えるように記憶を辿る。
「・・・二人の王女・・・だったかしら」
曖昧に答える。
麗はその言葉に驚いた。
速水がマヤに紫の薔薇を最後に贈ったのは紅天女の本公演の時だった。
そして、その時に彼は直接マヤに薔薇を渡し、気持ちを伝え、二人は同じ思いだった事を初めて知ったのだ。
よほど嬉しかったのか会うたびにマヤはその話を麗にした。
「そうか・・二人の王女だと・・・彼女は言ったのか」
麗から電話を貰い、真澄は力なく呟き、電話を切った。
「社長?」
明らかに顔色の悪い真澄に水城が口にする。
「マヤさんの事ですか?」
「あぁ。彼女、紫の薔薇の人の事は覚えていたらしいんだが、最後に薔薇が贈られた舞台が”二人の王女”だと言ったよ」
真澄はマヤがそう答えた理由がわかっていた。
それは彼女の中で真澄と紫の薔薇の人が完全に別人だという事を意味する。
マヤが紫の薔薇の人の正体に勘付いたのは”忘れられた荒野”の舞台だった。
真澄は頭を抱えた。
「・・・真澄様、どうしてマヤちゃんに会いに行ってあげないんですか?」
責めるような口調で水城が口開く。
「・・・怖いんだ・・・」
長い沈黙の後に小さく呟く。
そして、今まで見せた事のない不安気に瞳で水城を見る。
「・・・俺はどう彼女に接したらいのかわからない。俺の事を知らないヤツを見るような目で見る彼女に耐えられない。
それに・・・彼女は・・・」
そこまで口にし、ハッとした。
いくら有能な秘書の水城にでも、マヤが他の男に抱かれた事なんて口にできない。
「・・・君には関係ない事だ・・・」
冷たい表情でそう告げ、真澄は机の上に置かれた書類をさばき始めた。
「・・・会いに行くべきですよ。彼女に記憶を取り戻せさせる事がてぎるのは・・・きっと、真澄様、あなたしかいませんから」
水城の言葉にピクリと眉が動く。
「・・・余計でしたね。失礼します」
そう言い、水城は社長室を出た。
真澄は一人になると、窓の外を見つめ、彼女に全てを告白した時の事を思い出した。
「・・・俺が・・・俺が、紫の薔薇の人だ」
抱えきれない程の紫の薔薇を持ち、彼女の楽屋を訪れる。
彼女は信じられないものでも見るように暫く真澄を見つめていた。
「・・・すまない・・・俺が紫の薔薇の人で・・・」
無言の彼女に不安になる。
「・・・今日の舞台とても良かった・・・」
薔薇を渡すと、そう言い、真澄は楽屋から出て行こうとした。
「待って!」
真澄の背中に彼女が抱きつく。
華奢な腕が彼を抱きしめた。
「・・・私、ずっと、知ってました。あなたが紫の薔薇の人だって・・・、そして、ずっと、ずっと、この時を待っていました。
あなたが名乗り出てくれるのを・・・。感謝してます。あなたには言い尽くせない程感謝してます」
彼女の声が段々涙声になる。
「・・・マヤ・・・」
思いがけない彼女の言葉にギュッと胸を掴まれる。
ゆっくりと、彼女の方を振り向き、力強く抱きしめる。
もう、真澄にはこれ以上気持ちを隠している事ができなかった。
「・・・君が好きだ・・・。初めて出会った時から君に惹かれていた・・・。ずっと、君を愛してきたんだ」
マヤの瞳が大きく見開かれる。
ポロポロと大粒の涙が彼女の瞳から零れ落ちる。
「・・・速水さん・・・私・・・私・・・」
真澄の瞳をじっと見つめる。
「・・・私も速水さんが好き・・・」
「調子はどうだい?」
病室の窓の外を見つめていた彼女に真澄の声がかかる。
「・・・速水さん」
マヤの表情がパッと明るくなる。
「・・中々見舞いに来れなくてすまなかった。この所仕事が詰まっていて」
「いいえ。いいんです。速水さんが忙しい人だって事はわかってます。だって、社長さんでしょ?」
打ち解けた表情でクスリと笑う。
つい、抱きしめたくなるが、堪える。
「・・・そういえば、明日退院だって聞いたけど」
「はい。お腹の子も大丈夫だし、退院していいって言われました」
そう言い、愛しそうに自分のお腹をさする。
「・・・そうか。それはよかった・・・」
真澄は複雑な思い駆られた。
「・・・あの、速水さんはご存知ですか?」
「えっ?」
「・・・私の側にずっといた人を・・・」
マヤは不安そうな瞳を浮かべた。
「多分その人は私の恋人だと思うんですけど・・・。実は顔も思い出せないんです 。
愛していたって気持ちはまだ残っているのにその人が誰なのかわからないんです」
切なそうに瞳を細める。
「きっと・・・その人がお腹の子の父親だと思うんですけど・・・何も思い出せなくて・・・。
これ、お見舞いに来てくれる人みんなに聞いているんですけど・・・誰も知らないみたいで」
苦笑を浮かべる。
マヤとの関係はまだ秘密にしていたので、知っているのは一部の人間だった。
どう答えたらいいのかわからなく、彼女から視線を逸らす。
「・・・あの、知っていたらでいいんで・・・」
真澄の反応に申し訳なさそうに口にする。
その瞬間、耐えられなくなり、真澄は彼女を抱きしめた。
「・・・は、速水さん・・?」
驚いたように口にする。
「・・・俺だ・・・。その男はきっと・・・俺だ」
真澄の言葉に大きく瞳が見開かれる。
「・・・えっ!」
そう呟いた瞬間、再び強い頭痛が彼女を襲った。
そして、一番辛い記憶が蘇る。
野沢に抱かれた記憶がハッキリと浮かぶ。
「・・・いや!いや−−−−!!!!」
そう叫び、彼女は意識を失った。
「彼女に恋人だと言う事は言わない方がいいと思います。きっと拒絶反応か出たんでしょう・・・」
医師はマヤを診察すると、そう告げた。
「お腹の子があなたの子じゃないかもしれないと言う事が彼女の記憶を歪めているんだと思います。
彼女は忘れたがっていました・・・。あなたと恋人だった事を・・・」
医師の言葉に心臓に杭を打ち込まれたようだった。
忘れだかっている・・・俺の事を?
「それに妊娠していますからねぇ・・・このままだと子供が流れてしまう可能性もある」
「・・・あれ・・・私・・・」
マヤはぼんやりとした意識の中で瞳を開けた。
「・・・気づいたか?」
彼女の声にハッとし、視線を向ける。
「・・・あなたは・・・確か・・・速水さん・・・。私、どうしたんですか?」
「・・・少し、意識を失っていたんだよ」
「意識を?・・・そういえば、速水さんがお見舞いに来て・・・それから・・・」
記憶を辿るがマヤはそれから先の事は何も思い出せなかった。
当然、真澄が告げた事実も綺麗さっぱりに覚えていない。
何か大事な事を言われた気がしたが、それが何だったのか思い出せない。
「・・・じゃあ、俺は仕事があるからそろそろ行くよ」
真澄はこれ以上マヤを目の前にして冷静でいられる自信がなかった。
「あっ、はい。わざわざありがとうございました」
また片思いに戻るのか?
このまま俺は彼女に思いを告げられないのか?
瞳を閉じ、マヤの姿を思い描く。
誰よりも愛しいと思う。
例え、他の男に抱かれても・・・お腹の中の子供が自分の子供じゃなくても・・・。
彼女を愛する気持ちは変わらない・・・。
頭を抱え、瓶ごと酒を飲み干す。
彼女に思い出してもらえない辛さを埋めるように瓶をあけていく。
気づけば朝になっていた。
ゴロゴロと酒瓶が転がった自分の部屋で目を覚ます。
いくら飲んでも、飲んでも辛い思いは埋まる事はなかった。
そして、さらに追い討ちをかけるように悲しい知らせが届いた。
「真澄様、お電話です」
朝倉がそう言い、彼の部屋の扉を叩いた。
「・・・速水だが・・・」
「・・・青木です。マヤが、マヤが流産しました。それに、まだ意識が・・・」
電話越しの麗の声は涙混じりで不安そうだった。
その言葉に大きく頭を叩かれたようだった。
頭の中が真っ白になる。
真澄はすぐに病院へと車を走らせた。
後編2へ
2002.1.9.
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