永久(とわ)の想い−6−






   マヤはぼんやりと月を見つめていた。
   唇にはハウザ−とのキスの感触が残る。
   あの後、どうやって帰って来たのか覚えていなかった。
   ただ、心に浮かんだのは・・戸惑い。
   彼に好きだと言われて嬉しかった。

   でも・・・。

   彼女の心の中にはまだ、彼の姿が・・・速水真澄がいたのだ。
   どうしたらいいのかわからない・・・。
   明日からハウザ−とどう向き合うべきか・・・。
   このまま線を引いて、何もなかったようにするのか・・・それとも、彼を受け入れるか・・・。

   目を閉じるとハウザ−の蒼い瞳が浮かぶ。
   優しい色のした瞳が・・・。
   どこか速水を思わせるものだった。
   初めて彼に会った時、彼女はハウザ−の中に愛した人の面影を見た。

   どうして・・・こんなに心が揺れるのだろうか?

   ハウザ−伯爵が速水さんに似ているから?
   それとも、私はもうかなりハウザ−伯爵が好きなんだろうか?

   わからない・・・。
   自分の気持ちが・・・。


   「・・・マヤ、何かあったの?」
   知子が元気のない彼女に声をかける。
   「・・・ううん。何でもない。だだ、ちょっとお芝居の稽古で疲れて・・・」
   窓の外から視線を知子に向ける。
   「・・・本当に、それだけ?」
   心配そうにマヤを見つめる。
   「・・・知子さん、私、自分の気持ちがわからないの・・・。私には愛する人がいて・・・その人を忘れる為、そして、愛が宿った事を知られない為に
   イギリスまで来た。その気持ちは今でも変わらない・・・。彼を思うと、胸が痛くて、切なくて・・・。でも、今日、ある人に好きだと言われた。
   とても動揺しているの・・・。本当は素直にその人の気持ちに応えたかった・・。でも・・・許せないの・・・。そんな自分が嫌なの・・・」
   苦しそうな表情を浮かべる。

   ・・・マヤ・・・。

   知子はそっと、彼女を抱きしめた。
   「・・・気持ちがはっきりしないの・・・。私、誰をどのくらい好きなのか・・・わからない・・・」
   知子の腕の中で涙を浮べる。
   「・・・大丈夫よ。きっと、一晩眠って朝になったら・・・少しは落ち着く・・・」
   マヤの黒い髪を撫でる。
   「・・・大丈夫・・・大丈夫だから・・・」
   安心させるように知子は彼女の耳元で囁いた。





   「・・・おはよう」
   稽古場に行くと、ハウザ−がマヤに声をかける。
   マヤはハウザ−の顔がまともに見られなかった。
   「・・・おはようございます・・・」
   彼と視線を合わせようとしない彼女の態度にハウザ−は胸に杭を打ち込まれた気分だった。
   気持ちを口にしてしまってからは冷静な目でマヤを見る事ができなかった。

   ・・・演出家失格だな・・・。

   ハウザ−はその日から、他のものに演出を任せ、稽古場から姿を消した。

   ハウザ−と顔を会わせなくなってから二週間が経つ・・・。
   マヤはまだ役を掴めていなかった。
   日々、焦りが募る。
   いろいろな気持ちがごちゃごちゃに入り乱れ苦しかった。

   そして、気づくとハウザ−に会えない事が淋しかった。





   「ジョン、聞いている?」
   エリザベスが腑抜けのようになったハウザ−を見る。
   ここ二週間、彼の心はどこかに行ってしまったかのように、何をするにも上の空・・・。
   時折、辛そうな表情を浮べて、頭を抱える。
   そんな姿にエリザベスは耐えられなかった。
   「・・・何がだい?」
   平気なふりをしてハウザ−が答える。
   「ジョン、一体何があったの?最近のあなたは何だか、何かから逃げているみたい。それに、ステラの舞台はどうしたの?
   あなたが演出するんでしょ?」
   エリザベスの言葉に表情を歪める。
   「・・・演出はエド・ランドリ−に頼んだよ。彼は今一番いい仕事をしている。僕よりも彼の方がステラのシナリオを理解できる」
   ハウザ−の言葉に苛立ちがつのる。

   バンっ!

   机を叩き、彼をギロリと睨む。
   「本気でそんな事言っているの!!!」
   エリサベスの言葉にハウザ−は眉一つ動かさなかった。
   「・・・あぁ。本気だ・・・」
   エリザベスは手を上げ、寸前の所で彼の頬を叩くのをやめた。
   「・・・最低よ・・・今のあなた・・・昔のあなたに戻ったみたいね。ステラから逃げていたあなたに・・・」
   失望したようにエレザベスはハウザ−の前から去った。
   「・・・最低・・か」
   その言葉が今の自分に似合っている気がした。




   「・・・マヤ・・・ちょっといい?」
   稽古中の彼女をエリザベスが呼ぶ。
   「リズ!久しぶり!!」
   彼女の顔をみた途端嬉しそうに笑う。

   エリザベスはマヤを近くの公園に連れて来た。
   紅葉もすっかり落ち、冬の訪れを感じさせる。

   「・・・あなた、ジョンの事、どう思っているの?」
   何の前置きもない、真っ直ぐな言葉を口にする。
   マヤは少し、考えるように黙った。
   「・・・多分、好きだと思う・・・でも・・・」
   瞳を伏せる。
   「でも、何?」
   「・・・私、日本に好きな人がいるの。一生分の恋心をその人に注いだから・・・」
   遠くを見つめるような視線で口にする。
   どれだけ辛い恋をしてきたのか、その表情を見ればわかる。

   ・・・マヤ・・・。

   「・・・本当、どうしたらいいんだろう・・・。ハウザ−伯爵への気持ちに行き場がないの・・・」
   切なそうに笑う。
   「ハウザ−伯爵に伝えて・・・ステラさんの舞台は必ずやり遂げるって」
   マヤはそう言うと、稽古に戻った。




   今は何も考えずに、舞台に集中しよう・・・。
   速水さんの事も・・・ハウザ−伯爵の事も忘れて・・・。
   俳優として、舞台にとりくむ・・・。
   それが私の全て・・・。

   マヤはその日から何かを決心したように、稽古にとりくんだ。
   あんなに苦労していた英語のアクセントも乗り越え、彼女の演技は日々、研ぎ澄まされていった。
   周りの俳優たちは彼女の豹変ぶりに皆驚いていた。

   女優北島マヤとしての本能が目覚めた瞬間だった。

   そして、舞台の日・・・・。

   ステラが描いたのは妖精とある男の恋物語だった。
   マヤは妖精と男の妻の両方を演じた。

   ハウザ−は舞台を観に来ていた。
   そして、マヤの表現力に圧倒された。
   そこにいるのはまるで別人だった。

   胸が痛かった・・・。
   苦しかった・・・。
   彼女を知れば知る程、好きだという気持ちが大きくなり、張り裂けそうだった。



   ・・・終わった・・・ステラさんの舞台が・・・。
   楽屋に残り、マヤは呆然としていた。
   久しぶりに舞台に立った事への充実感が心を占めていた。

   コンコン・・・。

   ドアが叩かれる。

   「はい」
   マヤが返事をすると開かれた。
   そこに立っていたは・・・ハウザ−だった。
   一月ぶりに会った彼にドキッとする。

   「マヤ、素晴らしかったよ・・・」
   そう言い、差し出された花束を見て、マヤは驚いた。
   「・・・紫の薔薇・・・」
   随分久しぶりに目にする。
   「・・・君がもの欲しそうに花屋を見つめていたのを思い出したんだ」
   クスリと笑いながら言う。
   「・・・ありがとう・・・」
   花束を愛しそうに抱きしめる。
   それはまるで、離れていた恋人に再会したようだった。


   「もう、クリスマスね」
   ハウザ−と街を歩きながら、口にする。
   街はクリスマスカラ−一色にト統一されていた。
   「マヤ、あれに乗らないか?」
   ハウザ−は目についた”ロンドン・アイ”を指した。
   「えっ」
   「行こう」
   彼女の手をとって強引に歩き出す。

   二人はロンドンでできたばかりの観覧車ロンドン・アイに乗った。
   そこからはロンドンの街並みが一望できる。
   「・・・わぁぁぁぁ!!綺麗!!」
   マヤが子供のようにはしゃぐ
   そんな姿をそっと見つめ、ハウザ−は笑みを浮べた。
   「・・・君が好きだ・・・」
   自然とその言葉がハウザ−の口から出る。
   「えっ」
   マヤは戸惑ったような表情を浮べた。
   「・・・そう前にも言ったよね。君を悩ませるつもりはないんだ・・・。ただ、口にしてしまいたかっただけ・・・。
   君の心の中に誰かがいる事も知っている。でも、僕はそれでも、君が好きなんだ。その人を愛した君が好きなんだ・・・」
   マヤの頬にそっと触れ、瞳を細める。
   「・・・返事はいらない。君がただ一人を愛し続けているって知っているから・・・」
   ハウザ−の優しい瞳に胸が熱くなる。
   気づけば涙が溢れていた。
   ハウザ−は彼女を抱きしめた。

   マヤの中で彼への想いが大きくなっていた。



   それから、5日後のクリスマスの朝、ハウザ−からマヤと愛にあてたクリスマスプレゼントが届いた。
   それはシェイクスピアの街に行った時に入ったテディベア博物館にあったテディ・ベアだった。

   ハウザ−への想いに胸が締め付けられた。

   私・・・ハウザ−伯爵の事を・・・。

   マヤの中で強い気持ちが生まれる。
   強い想いに動かされるように彼女は家を飛び出し、ハウザ−の元へと向かっていた。


   「・・・ジョンはしばらく、イギリスには戻らないわ・・・」
   彼のオフィスに行くと、エリザベスがマヤに言う。

   えっ・・・。

   その言葉に胸をギュッと掴まれる。
   「戻らないって・・・ハウザ−伯爵は何処に?」
   「彼はハリウッドに行った・・・例の話を引き受ける事にしたのよ」
   その話を受ければ、ハウザ−は一年はイギリスには戻って来れなかった。

   そんな・・・。

   マヤの中で会えない事に対する失望が生まれる。
   恋しさが増して、涙が溢れる。

   「・・マヤ・・・」
   その様子にエリザベスは驚いた。
   「・・・ごめんなさい。急に会えないと思うと・・・気持ちが溢れて・・・」


   ハウザ−がイギリスを出てから三か月以上が経った。
   マヤはステラの舞台で高く評価され、イギリスの舞台に立てるようになっていた。
   彼女の名は少しずつ世間に広がっていた。



   「愛ちゃん、いい天気だね」
   愛を連れて、マヤは散歩に出た。
   愛ももうすぐ一歳を迎える。
   我が子の成長ぶりに母親として嬉しかった。
   「マ−」
   マヤに向かって愛が口にする。
   「うん?愛ちゃんどうしたの?」
   愛が何かを指していた。
   「マ−」
   必死に訴えようとしている。
   マヤは愛の指す方を見た。

   横断歩道を挟んだ向こう側にハウザ−がいた。

   「・・・嘘・・・」
   夢でも見ているような気になる。
   気持ちがジワリと浮かぶ。
   マヤは動けなかった。
   金縛りにあったようにハウザ−から視線が外せない。

   そして・・・ハウザ−もマヤに気づく。

   信号が変わるまで二人は見詰め合った。
   互いの想いを伝えるように・・・。
   離れていた時間を伝えるように・・・。

   でも、マヤは歩道を渡らなかった。
   彼女の中には速水がいるから・・・。
   渡れなかった・・・。
   ハウザ−もそんな想いを知っているから渡らなかった。

   暫く、見詰め合った後、二人は現実に戻されたように違う道を歩いた。
   マヤは歩きながら、涙が溢れてくるの感じた。


   ・・・マヤ・・・。
   君の中にはまだ彼がいるんだね。

   ハウザ−は空を見上げた。
   今の彼の心の中のように曇った空だった。
   彼は待つつもりだった。
   マヤが心の整理をして、自分の方を向いてくれるのを・・・。

   でも・・・。

   耐えられそうにない・・・。
   彼女への愛しさが募り、捕まえて、無理にでも抱いてしまいたかった。
   愛すれば愛する程、彼女が欲しかった。


   「・・・マヤ、あなたにこれが」
   家に戻ると、知子が郵便物を渡した。
   それはパ−ティ−への招待状だった。
   「・・・ライザ−城・・・」
   開かれる場所を見て、ドキっとする。
   その城はハウザ−が所有する一つだった。
   差出人の名前はエリザベス・パ−カ−になっていた。

   毎年ライザ−城では演劇関係者を集めたパ−ティ−が開かれていた。
   このパ−ティ−に招待されるという事は演劇人として認められた事になる。
   演劇を目指すものなら誰でも憧れるパ−ティ−だった。
   マヤでもその招待状の意味はわかっている。

   しかし、迷いがあった・・・。
   このままパ−ティ−に出れば、きっと、ハウザ−と顔を会わせてしまう。
   そうなった時の自分がどうなるのかわからない。
   溺れてしまいそうな自分が怖かった。



   「パ−ティ−には出ないってどういう事?」
   エリザベスがハウザ−に言う。
   「また、ハリウッドに戻る。僕がいなくても、君が何とかしてくれるだろう」
   ハウザ−は早く、イギリスから出てしまいたかった。
   マヤのいない国へ行きたかった。
   「駄目よ!これはただのパ−ティ−と違うんだから」
   いつになく厳しい口調で言う。
   「あなたがいなくてどうするのよ!いい。ハリウッドの方は私が調整しておくから・・・出るのよ」
   エリザベスの言葉に苦笑を浮べる。

   「・・・マヤも招待したのか・・・」
   オフィスを出て行こうとする彼女の背中に声をかける。
   ピクリと彼女が立ち止まる。
   「・・・あなたたち、そろそろくっつくべきよ・・・」
   背を向けたままそう言うと、エリサベスは部屋を出た。





   マヤは自分でも信じられなかった。
   愛を知子に預けてさんざん迷ったあげくパ−ティ−に来ていた。
   豪華な俳優たちの顔ぶれに、豪華なドレス・・・。
   皆自分が一番輝く事を考えて、着飾ってくるのだ。
   ここで名前を売る事は今後舞台に立つ上で重要だった。
   マヤも積極的にいろんな人と話していた。
   しかし、気づけば、ハウザ−の姿を探している。
   沢山の人の中に彼の姿はなかった。

   「・・・はぁぁ・・・何しに来たんだろう・・・」
   一人になりたくて、テラスに出る。
   一時間以上も話していたので、くたくたに疲れていた。
   ぼんやりと、月を眺める。

   またあの月が出ていた。
   マヤの心を締め付ける三日月・・・。
   有無も言わさずに速水の事を思い出させる。

   「・・・また、彼の事を考えているのかい?」
   背中から声がかかる。
   振り向かなくても、それが誰だかわかっていた。
   「・・・月を見つめる君はどこかに消えてしまいそうな程、悲しそうだ・・・」
   彼女の心の中を見つめるように口にする。
   「・・・丁度、こんな夜だった。彼に抱かれたのは・・・」
   マヤはポツリと言葉を浮べた。
   「あの時の私は彼への愛しさで潰れてしまいそうだった。だから、思い切って、抱かれた。
   一度でも愛してもらいたかったから・・・彼の愛を感じたかったから・・・。
   そして、愛がお腹にいる事を知った。とても嬉しかった・・・でも、彼には言えなかった。
   彼は結婚していたから・・・。私は全てを忘れたかった。彼から離れたかった・・・。
   彼の側にいると気が狂ってしまいそうだから・・・。
   この国に来て、2年が経つ・・・まだ私の心の中にはあの人が・・・いる。
   ・・どうしたら、彼を諦められるのかわからない・・・忘れたいのに・・・忘れられない・・・」
   マヤは感情を露にし、振り返った。
   涙に濡れた瞳でハウザ−を見つめる。

   「・・・僕が・・・君のつらい過去を忘れさせてやる」

   ギュッと彼女を抱きしめ耐え切れない想いを告げる。
   その言葉に弾けたようにハウザ−への想いが溢れる。
   「・・・忘れさせて・・・」
   蒼い瞳を見つめ、呟く。
   瞳と瞳が重なり、月明かりの下、二人は唇を重ねた。

   その夜、マヤはハウザ−に抱かれた。






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