★全国学生児童文化運動の歩みと現在★


1.戦後学生児童文化運動の発生
 戦前、児童文化運動は未開の分野で、戦後に教師や学生が「混乱した社会状態、荒廃した文化環境の子どもたちに明るい夢を与えよう」というスローガンのもと各地で活動したことが始まりとなった。

2.全教児連の結成
 1954年、全国教育学系学生ゼミナール(全教ゼミ)第1回大会の中で「児童文化活動、子ども会・セツル運動」の分科会が持たれた。ここで「現在悪い文化にさらされている子どもたちのために学生・先生・親が一緒になって良い文化財を創造し普及しよう」と掲げ、57年全国的な情報交換のための連絡機関として全日本教育系大学児童文化連盟(全教児連)が発足した。

3.全教児連の崩壊
 その後、全教児連は安保闘争の評価をめぐり「思想的停滞した児童文化運動を清算し、階級闘争の前衛として政治的課題に取り組む」ものと「運動の弱さを認めつつも網領を守り団結を固め、地域住民と共にこれまでの運動を前進させる」ものとで意見対立が起きた。やがて前意見の中心であった東京学芸大一派による中央事務局乗っ取りにより、63年全教児連は実質崩壊した。

4.全児連の結成
 民主的活動を望んだ学生らは金沢大に仮事務局を置き、安保闘争を総括、全教児連の民主化を開始。64年に「全国学生児童文化会議」を結成し、66年には全教児連の崩壊宣言と同時に再建準備協議会を結成した。しかし当時、加盟サークル数は72から36へと激減していた。その後何度かの大会を通じ、78年、全国学生児童文化連盟(全児連)は結成大会を迎える。この時全教児連時代の総括を行い、より子どもたちの情勢を重要視し「教育系」という語句を名称から外した。

5.全児連のその後と現在
 80年代、全児連は新学習指導要領の改悪、福祉教育の切り捨てなどの社会問題と闘ってきたが、学生の社会的問題関心は薄れていき、85年に結成当時から関わってきた茨城大などが脱盟したのを皮切りに様々な大学が脱盟、88年時点で加盟大学数は5にまで減っていた。それからも90年代前半に唯一の福祉系大学であった日本福祉大、当時中心者であった京都教育大が脱盟、都留大も99年に脱盟した。
 そして00年、埼玉大が脱盟したことで加盟サークルはゼロとなり、全児連は再び崩壊した。翌年には規約を破棄し、有志を中心に再建。現在埼玉大を中心に都留・鎌倉女子・帝京・跡見学園女子・文京大といった大学が参加、年3回の集・大会を開催している。


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