昨日の深夜、管理人である自分をリストカッター(手首を切ると言う行為に依存している人)だと明言するサイト(詩と日記がメイン)を見ていて、今までにない感覚を覚えた。全体を取り巻いていた不思議な雰囲気に自分も取り込まれたと言うべきだろうか。
 管理人は女子中学生で、掲示板には同じリストカッター(経験者)や、手首は切らずとも不登校だったり、精神科に通ったりしている、あるいは全く普通に生活している中高生が複数人参加していた。「手首を切る」と言う行為を繰り返す人と言うのは、少なからず何かに対する絶望やそれによる自殺願望と言った深刻な悩みがあり、そう言った心の葛藤を抑制する為に、行為に至っていると考える。言ってみれば、煙草や薬と同じ、一種の精神安定剤的な位置付けだ。一思いに深く傷つければ死ぬ事だって出来るのにも関わらずそうしないのは、やはり実際には生きていたいからだろう。生きられないけれど生きたい、死にたくないから死ねない。痛みを感じる、及び自らの血を見ることで「生きている」と言う実感を得、自分を落ちつかせる。いつしかそれが止められなくなり、依存症となる。それは、とても悲痛な事に感じる。
 中学二年〜高校二年と言う期間は、最も精神的に不安定で、あらゆるもの(特に自分自身に)不満を抱き、適わぬ欲求を掲げてはどうしようもならないジレンマに苦しむ時期だ。教科書通りの言い分かもしれないが、自分の経験からしても、そもそも教科書を作成した人物もそれを体験してきたのだろうから、それは紛れもない事実なのだ。精神的な病気(と第三者から判断されるもの)に遺伝的なものは少ないと思う。環境要因がほとんどではないだろうか(全て、とは言い切れない)。けれど、その環境要因は、周りの人物には中々理解し難いようになっている。と言うのも、それは感情と記憶を認識出来るようになってからずっと長い時間をかけて個人の心の底に蓄積されていく、個人専用のものであるからだ。願望から生まれる不満、他人に対する嫉妬や焦燥、期待の裏にある不安。「引き金」となるアクシデントすらない場合もあるかもしれない。「ただ、何となく」「カッターがあったから」。どうしてそうなってしまったのか、自分でも分からない。そして「よく分からないけれど、落ちついた」と言う結果のみが実感として現れ、そして依存していく。
 最も驚いた事、それはサイト全体の雰囲気だった。すごく落ちついていて、決して暗い感じはしない。管理人を始め掲示板の常連客や初投稿の訪問者まで、あらゆる人が「なんとか普通にやっている」印象を受けた。掲示板には確かに「普通ではない雰囲気」が漂っている。しかしそれは自分が予想していたよりもさらに異質だった。「今日も三十本切ってしまった」「薬だけじゃ間に合わない」「ケロイド体質なんで傷が残ってしまった」「(解離性人格障害なのだが)ホスト人格が煙草嫌いなので吸えなくて困る」と言った発言がごく自然に交される(ほとんどが中高生)。日常、どこにでもある談話のように。これは、ネットの特性の典型的な例だ。本来、一同に集まる事など到底難しい問題を抱えた人達が、ネットを通じる事で気軽に、何の負い目も感じる事なく集合する事が出来る。そして、集まった彼女(彼)達には、本当に同じ辛さを抱え同じ考え方を持つ複数人と共に、「自分達にとっては当たり前な話題」を交す。それが、あまりに自然過ぎて逆に不自然に感じてしまったのだ。「思い詰めた結果」と言う感じが全くない。「恐くなったらまず煙草。恐くなくてもマジ煙草。それでもだめならリストカット。」とは、管理人の女子中学生の言葉。本当に「当たり前」になってしまっているのだと分かった。それは、今までそうは言っても「煙草の依存とリストカットの依存ではニュアンスが異なっている」とどこかで考えていた自分の感覚を完全に否定するものだった。それなら、果たして彼女(彼)達は、一般認識として受け入れられたいと言う願望はあるのだろうか。それは直接、現状のまま社会へ出る事を、そして周囲がそれを受け入れてくれる事を望んでいるのか、と言う問に繋がる。答えは分からない。思いつきようがない。「生きる」と言う言葉は、彼女(彼)達にとってはどんな意味を持つのだろうか。案外自分達を変わらないだろうか。「当たり前な癖」が一つあるだけで、考え方は一緒なのかとも思うし、またその一つが大きな違いを生むのかとも思う。
 掲示板の但し書きには、「リストカットに偏見の有る方は見ない方が吉」とあった。つい先程まで「異質な行為」と言う感覚を潜在的に持っている事に気付くことすらなかった自分はどうだろうか。とりあえず何も考えないで画面をスクロールさせていると、トラウマの話題について、管理人が返答の締めにこう書いていた。「お互い、トラウマ持ちですが頑張って生きようね。」 思春期をハキハキと生き、自殺未遂なんてもっての外と言う、いわゆる前述の教科書の話に全く当てはまらない人にとっては、さぞ興味関心のない話題だろう。きっと深く話し合って、事実として納得してもらったとしても、否定的な(もしくは意味がわからない、と言う)意見しか出ないはずだ。それはしょうがない。「この感情は、分からない人には絶対に分からない。分かって欲しくもない」と言った考え方は単なる「逃げ」であり間違っていると思うが、この場合はしょうがない。理解出来っこないのだ。「自己嫌悪」にまみれた思春期を送ってきた人間がまた、その心情を理解出来ないように。
 けれど、現実に彼女(彼)達は存在する。それは決して特異ではない、現代社会が生み出した、紛れもない必然の集合体だ。「経験者」は自分を省み、照らし合わせる事で、「未経験者」は彼女(彼)達のいる現実を認識する事で、既存の様々な心の問題の、自分なりの答えを導き出すきっかけになれば、と思う。
 追記:管理人は、好きな歌手にCoccoを挙げていた。彼女の詞には、痛々しい現実や残酷なまでの愛がとても「綺麗」に表現されている。そして時に淡い希望を歌うそれは、ある意味彼女(彼)達に対する「パンドラの箱」とも取れるだろう。



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