紅 天 女 -16-



「・・・速水さん、どうしているのかな・・・」
マヤはぼんやりと、病室の窓を見つめた。
窓の外には琥珀色に光る月が浮かんでいた。
突然、息ができぬ程の切なさに胸が熱くなる。
苦しくて・・・恋しくて・・・涙が浮かぶ。

「マヤ、泣いちゃ・・・駄目よ」
必死に自分に言い聞かせ、涙を拭う。
それでも、涙は止まらなかった。
一度思い出してしまった感情は止まる事なく、彼女の心を苦しめる。
もう、彼女の心から速水を追い出す事はできなかった。

「・・・なぜ、泣いている?」
突然、声がする。
「えっ」
窓の外から視線を向けると、戸口に真澄が立っていた。
「・・・速水さん・・・」
真澄はゆっくりと、マヤに近づいた。
「・・・見舞いに来たよ。ちびちゃん。お邪魔だったかな」
優しい瞳をマヤに向ける。
彼女は信じられないものでも見るように真澄を見つめていた。
「いいえ。邪魔だなんて・・・。私、速水さんに・・・速水さんに・・・」
「しっ!」
マヤの口の前に人差し指を立てる。
「そこから先は言ってはいけない。言っただろう。こんな男忘れなさいって」
「・・・速水さん・・・」
「・・・ところで、傷の方はどうだ?痛むか?」
「・・・もう大丈夫です。やっと、明日退院できます」
「そうか。それはよかった」
「でも、当分、大人しくしてなくちゃ、いけないんですって」
そう言い、ため息をつく。
「ははははは。ちびちゃんには酷だな」
いつもの笑い声を浮かべる。
何だかその笑い声にマヤは安堵を感じた。
「もう、それに入院してても退屈で、退屈で・・・ちょっとでも、走ったりしたら、看護婦さんが飛んできたりするんですよ」
「走るって・・・。ちびちゃん。はははははは。君にはまいったよ」
さらに可笑しそうに真澄の笑い声が病室に響く。
「相変わらず、お転婆だね。君は」
「だって・・・。じっとしているのって・・・何か落ち着かなくて・・・。そうだ!速水さん少し付き合ってくれますか?」
マヤは何かを思い出したように真澄を見た。
「えっ・・・、あぁ、別に構わんが」
「いいもの見せてあげます」
クスリと笑い声を零し、マヤはベットから起き上がった。
「おい。君、病室から出るのか?」
「はい。大丈夫。遠くにはいきませんから。さぁ、速水さん、いきましょう」
真澄にそっと手を差し出す。
「・・・君には負けるよ」
そう言い、真澄は差し出された手をしっかりと握った。

あったかい・・・。
速水さんの大きな手・・・。

マヤの中にあったさっきまでの苦しい気持ちは消え、落ち着いたような気持ちになっていた。

不思議だな・・・あんなに苦しかったのに・・・。
ずっと、速水さんに会う事を避けてきたのに・・・。
今はとても落ち着く・・・。




「ねぇ。綺麗でしょ」
目の前の光景に唖然とする真澄に得意げにマヤが言う。
マヤが連れて来たのは屋上だった。
ここからは星をよく見る事ができた。
「・・・あぁ」
真澄は思わぬものを目にしたような感じで、暫く星を見つめていた。
「まさか、都会でこんなによく星が見える場所があるとはな・・・」
驚いたように呟く。
「私も最初、ここ見つけた時、驚きました」
「しっかし、毎回あんな事して、ここに来ているのか」
真澄はここに来るまでのマヤの行動にクスクスと笑った。
もう消灯時間はとっくに過ぎていたので、マヤは看護婦に見つからないように、あれこれと工夫をしながら、真澄をここに連れて来たのだった。
「だって、星がよく見える時間には消灯しちゃうから・・・。あっ、でも、そういう速水さんだって・・・」
マヤと一緒に隠れて動いていた速水を思い出し笑い出す。
「別に速水さんは隠れなくてもよかったのに・・・あんなにこそこそとする速水さん・・・初めて見ました」
ついには可笑しそうにお腹を抱えて笑い出す。
「・・・いたっ」
傷に響き、眉を潜める。
「大丈夫か?」
心配そうにマヤを見つめる。
「・・・何とか・・」
「まったく、君は・・・笑いすぎなんだ。どうする?笑いすぎて傷が開いたりでもしたら」
コツンとマヤの頭に軽く拳を乗せる。
「えっ、だって速水さんが笑わせるから」
触れた場所にドキッとする。
僅かに脈が早くなった。
「君が勝手に笑ったんだろ」
苦笑を浮かべる。
「いいえ。笑わされたんです」
「強情っぱり」
一歩もひかないマヤにボソリと口にする。
「いじめっ子」
真澄に返すように、マヤも小さく呟く。
二人は同時に顔を合わせて笑った。

「・・・クシュン!」
小さく、マヤがくしゃみをする。
「寒いか?」
「・・・少し」
マヤの言葉を聞くと、上着を彼女の肩にかける。
「少しはあたたかいだろ?」
肩にかかった瞬間、コロンと煙草が混ざった香りがする。
何だか、彼に抱きしめられているみたいで、胸がキュンとする。
「・・・あったかいです・・・」
マヤは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に真澄の心に暖かいものが流れ込む。

「・・・速水さん、何かあったんですか?」
真澄の横顔を盗み見ながら、呟く。
今日、病室に現れた彼はどこか辛そうに見えた。
あの夜の辛そうな真澄の顔が重なる。
「・・・えっ」
マヤの問いに小さく驚く。
「だって・・・速水さん、何だか、悲しそう・・・」
真澄の心の奥をも見つめるような瞳で言う。
「・・・ごめんなさい。私、余計な事言いましたね」
何も言わず、じっとマヤを見つめる視線に慌てて、彼から視線を逸らす。

真澄は迷っていた。
紫織との結婚を・・・。
マヤが刺されたと聞いた時、心臓が止まるようだった。
そして、何よりもかけがえのない存在だった事に改めて気づかされた。
だから、ずっと、考えていた。
紫織との婚約を解消する事を・・・。
やはり、このまま結婚する事などできないと、心が訴えていた。
マヤの側に誰よりも近くにいたいと望むようになっていた。

しかし、今日、真澄の腕の中で子供のように泣き崩れた紫織をこのまま見捨てるような事はできない。
彼女の涙、そして、マヤに傷を負わせた原因は彼なのだから・・・。

「・・・速水さん!」
突然、無言で彼に抱きしめられる。
驚いたように彼を見上げる。
「・・・少し、このままでいさせてくれ・・・」
辛そうな表情を浮かべ、愛しむように彼女を抱きしめる。
腕の中にすっぽりと入ってしまう華奢な体に、鼓動が早くなった。
彼女との距離に胸が苦しくなる。

愛している・・・。愛している・・・。
俺は君だけを・・・。

二人は暫く、そうしていた。






「・・・速水さん、私、大都で、紅天女を上演させたいです」
それは、マヤを病室に送り届け、真澄の帰り際に彼女が口にした言葉だった。
「・・・マヤ!」
瞳を見開き、彼女を見つめる。
「大都で上演したくなかったんじゃないのか?」
真澄の言葉に瞳を伏せる。
「確かに、大都では上演させたくないって気持ちもありました。
でも、そう思うよりも、強く、やっぱり、紅天女を任せられるのはあなたしかいないって思うんです」
真っ直ぐな瞳で真澄を見つめる。
「お願いです。大都で上演させて下さい」
マヤの瞳に迷いはなかった。





                                         

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