最後の想い-2-




「明日、ロスに発ちます」
北島マヤは静かにそう告げた。
「・・・そうか」
俺には何も言えなかった。
彼女の舞台を見たアメリカのある監督がハリウッドへ誘っていたのは知っていた。
彼女と個人的な関わりを持つ事は許されなかった。
結婚し、子供までいる俺は自分の気持ちを諦めるしかない。
「頑張りなさい。君ならきっとスターになるだろう」
速水真澄としてではなく、大都芸能社長としての言葉しか俺には許されなかった。
「・・・はい。頑張ります。速水さんに・・・紫の薔薇の人に喜んでもらえるように」
後半の彼女の言葉は涙に滲んでいた。

・・・紫の薔薇。
俺と彼女の絆だった。初めて彼女の舞台を見た日から結婚するまで送り続けた。
紅天女試演の日、彼女から打ち明けられた。
俺が紫の薔薇の人だと知っていたと・・・。
どこで運命が縺れてしまったのか・・・、
一生に一度あるかないかの彼女に気持ちを伝える機会だったのに、気持ちを告げぬ代わりに自分が結婚する事を話した。
祝福の言葉とともに流れた涙に、初めて彼女の気持ちを知った。
俺には小さな体を抱き締めてやる以外何もできなかった。
あの日から、冷たい壁が俺たちの間を塞ぐ。
決して口にしてはいけない想い。密かに想う事しか俺にはできなかった。

「・・・それじゃあ、そろそろ失礼します」
社長室を出て行こうとした瞬間、何かが外れた。
「・・・マヤ・・・!」
二度と逢えない気がした。今ここで彼女と別れたら後悔する気がした。
触れた手から温かさが伝わる。
速水真澄として初めて彼女に向き合う。
大きな瞳は零れてしまいそうな程見開き、俺を見た。
「・・・今夜、俺と逢って欲しい」
咄嗟に出た自分の言葉に驚いた。今更、彼女に何を伝えると言うのか・・・。
もう、全ては手遅れなのに。彼女だってわかっている事だ。俺とでは幸せにはなれない。

「・・・はい」

小さな声で彼女は呟き、頷いた。
その返事にキュッと胸を掴まれる。
彼女は全てをわかった上で、頷いたのだ。
ならばもう、自分の気持ちは止められなかった。
「今夜からパークヒルズホテル712号室にいます」
明日の朝一番の便に乗る彼女は空港の側にホテルを取っていた。
「わかった。今夜8時に行く」
握る彼女の手をギュッと掴み、約束の印に甲に唇を落とした。



「すまないが、夕方6時以降の予定はキャンセルしてくれ」
呼び出された秘書は俺の言葉に驚いたように目をしばたかせた。
「・・・しかし、今日は大都のメインバンクとの夕食会がありますが。会長も是非出席するように行っていました」
もう俺にはそんな事はどうでも良かった。
「構わん。後のフォローは水城君に任せたまえ。まだ2時間ある。詰められる予定は全て詰めてくれ」
再び彼女に逢った時、どうすればいいか。その事で俺の頭はいっぱいだった。




・・・8時。
時計の秒針が進む度に胸の鼓動が大きくなる。
そろそろ彼が部屋のドアをノックするはず。
彼に頂いた紫のドレスを着て、いつもよりも念入りに化粧をし、待っていた。
今日が日本最後の夜・・・。
アメリカに行ってから、当分は日本に戻るつもりはなかった。
いや、戻れなかった。
彼と、彼の奥さんがいるこの国で生きていくのは辛かった。


「・・・妊娠・・・」
何気ない会話の中で速水さんの妻は彼の子が身籠った事を告げた。
「えぇ。もう、三ヶ月目に入りますの」
偶然、テレビ局の廊下ですれ違った時に、紫織さんにお茶に誘われた。
嬉しそうに速水さんとの生活を口にする。
速水さんが何時に起きて、どんな新聞を読んで、何を食べるか・・・。
聞いているだけで、胸が苦しかった。
自分の中にこんな感情があったなんて知らなかった。
胸の中がモヤモヤとする。紫織さんにとってはただの世間話のつもりらしいが、私には拷問だ。
こんな風に感じるなんて、自分が酷く卑しい。
速水さんが結婚した今でも好きでいる事の罪。
彼に想いを寄せている事がこんなにも罪悪感を覚えるものだとは知らなかった。
「おめでとうございます。元気な赤ちゃん産んで下さいね。そろそろ時間なので、失礼します」
笑顔でそう言うのが精一杯だった。
私は何て嫌な女なのだろう。

紫織さんと速水さんの幸せを喜べないなんて・・・。

トイレに駆け出し、泣きながらそんな事を思った。
あれから、2年・・・。この間週刊誌で彼と奥さんが子供と手を繋いでいる写真を見た。
とても幸せそうな家族の写真。
物心ついた時から、私に家族だと思える人は母しかいなかった。
母は女手一つで私を育てる為、いつも側にはいなかった。
家庭の温度など知らずに育ってしまった。

「・・・母さん」
母を死に追いやった速水真澄を愛した事は母への裏切りに近い。
彼もその事で十分過ぎる程の十字架を背負っている。
命日には毎月紫の薔薇が母の墓前に供えられていた。

やはり、彼に逢うべきでないのはわかっているが・・・、
手を握られた瞬間、自分を抑える事ができなくなった。

「・・・ごめんなさい」
呟き、時計わ見ると8時を5分程過ぎていた。





6時を少し過ぎた頃、社を出た。
2時間あれば、成田に行けるだろう。
自分で車を運転した。
高速に乗り、逸る気持ちを抑えた。
助手席にはさっき花屋で買った紫の薔薇が置かれている。
今夜だけは、不思議と自分の気持ちに正直になれる気がした。
彼女に逢ったら今度こそ・・・伝えるつもりだ。
好きだと。ずっと愛していたと。
「・・・マヤ・・・」
思えば様々な事が重なり、長い間彼女に気持ちを伝える事ができなかった。
11歳の年の差。彼女の母を死なせた事。自分の立場が苦しめ続けた。
自分の想いは一生胸の中に封じ込めておくつもりだった。
妻と結婚した時、そう決めたのだ。

しかし、昼間の彼女を、マヤを見た時、限界を知った。
言わないまま後悔する人生に耐えられないと思った。
自分は勝手な奴だと思うが、もう走り出した気持ちは止められない。
愛しいという想いは抑えても、抑えても胸から溢れ出ていた。
別に彼女とどうこうしようとは思っていないが、とにかく、気持ちを言いたい。
自分の口ではっきりとさせたかった。

標識を見ると、幕張の文字が見えた。
いつの間にか千葉に入っていた。後、一時間もあれば辿り着ける。
そう思った瞬間、携帯が鳴った。





夜が明け朝が来た。
結局彼は現れなかった。
一晩中眠らずに待った。
空港に向かうタクシーに乗り込むと、彼への気持ちを断ち切った。
来なかったのは彼の返事なのだ。
例えどんな事情があろうと、彼は私に逢いには来れなかった。
私よりも優先する大事な人が彼にはいる。
それが、よくわかった。
心のどこかで彼も同じ気持ちのような気がしていた。
しかし、やはり私の勘違いだったようだ。

「・・・お客さん、着きましたよ」
運転手の声でハッとする。
「・・・お客さん・・・」
顔を上げる事ができなかった。涙でいっぱいの顔はぐしゃぐしゃだった。





「もう、安心です。命に別状はありません」
医師の言葉にホッと胸を撫で下ろした。
隣に立つ妻は安堵から涙を溢した。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
何度もそう告げ、息子の無事を喜んだ。
二歳になる息子は乳母が目を離した隙に庭の池に転落し、溺れたのだ。
発見された時に既に呼吸はなく、体は冷たくなっていた。
救急病院に担ぎこまれ、意識不明の重体だったが、懸命な医師の治療に一命をとりとめた。
妻から電話があった時、息子の元に駆けつけるのを一瞬、躊躇った。
自分は酷い父親だと思う。
そして、彼女に対しても酷い事をしてしまった。きっと、一生許してはもらえないだろう。
時計を見ると、午前9時になっていた。
既に彼女は、北島マヤは機上の人となっていた。











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