永久(とわ)の想い−2−
なぜ抱いてしまったのか・・・。
彼女と一緒になれない事はわかっているのに・・・。
ただ、愛しくて・・・気づいたら、自分を抑えられなかった。
「・・・真澄様?」
「えっ」
ぼんやりと、船の甲板に出て、海を見つめていると、紫織の声がした。
今、真澄と紫織は一月にも及ぶ新婚旅行中だった。
「・・・どうしました?何だか怖い顔をなさてって」
心配するように真澄を見つめる。
「・・・いえ、何でもないですよ」
笑顔を作り、真澄は再び海を見つめた。
速水が結婚してからのマヤは何かを忘れるように演劇に向かっていた。
今までと違う彼女の演技に皆、圧倒されていた。
私には芝居がある。
これだけは何があっても・・・何を失っても変わらない・・・。
その想いに支えられように、一月後に控えた紅天女の本公演に向けて稽古に明け暮れた。
今、マヤにあるのは・・・稽古、稽古、稽古のみだった。
余計な事を考えないように疲れきっても、体中のだるさを感じてもその姿勢は変わらなかった。
しかし・・・。
連日の今まで以上の猛稽古にマヤは倒れた・・・。
「・・・北島!」
「マヤちゃん!」
皆が声を揃えて、ゆっくりと宙を舞う彼女を見つめる。
彼女意識はそこで途切れた。
「・・・マヤ?」
そう名前を呼ばれ、薄っすらと瞳を明けると、そこは病院のベットの上だった。
「・・・麗・・・私・・・・」
心配そうに見つめる彼女に問うように見つめる。
マヤは自分がどうしてここにいるのかわからなかった。
「・・・あんた倒れたんだよ・・・稽古中に・・・それで、丸一日意識がなかったんだ」
麗の言葉にそういえば、稽古をしていた最中だったという事を思い出す。
「・・・稽古しなくちゃ」
ハッとし、ベットから起き上がる。
「そんな体で何言っているんだ!」
マヤを制するように口にする。
いつになく真剣な麗を驚いたように見る。
「・・・何言ってるのよ。麗。私ならもう大丈夫よ」
何て事のないように笑顔を浮かべる。
「・・・あんたが大丈夫でも・・・お腹の子は大丈夫じゃないよ」
麗の口から出た言葉に大きく瞳を見開く。
えっ・・・。
「・・・マヤ、あんた妊娠しているって、さっき医者が・・・」
思わぬ事にマヤは言葉が出てこなかった。
妊娠・・・?私が?
次の瞬間、速水との事が浮かぶ・・・。
「・・・いいかい。大人しく寝ているんだよ。明日も来るからね」
麗はそう言い、病室を出ようとした。
「・・・待って、麗・・・この事は・・・」
麗を引き止めるように声をかける。
「・・・誰にも言わないよ・・・私の胸の中だけにしまっておく」
優しい笑顔を浮かべる。
「・・・ありがとう」
ホッとしたように笑顔を浮かべる。
「・・・早く、元気になんなよ」
そう言い、麗は今度こそ病室を出た。
部屋に一人になり、マヤは自分の身におきている事を考えた。
速水さんの子・・・。
そっと、お腹に触れてみる。
真澄の分身がそこにいると思うと愛しく思えた。
急に、涙が溢れてくる。
思いがけないプレゼントを貰ったような嬉しさと、速水に決して言えない現実に複雑な思いに駆られた。
速水さん・・・あなたが恋しい・・・。
病室の窓から見えるあの夜と変わらぬ三日月を見つめる。
「・・・速水さん・・・」
恋しさが膨れ上がり、胸が苦しくなる。
その夜、マヤは一晩中泣き明かしていた。
真澄は不思議な夢を見た。
その夢の中で小さな子供が彼をじっと見つめているのだ。
その表情はとても不安そうだった。
どうしたのかと声をかけようとしていたら、子供は消えていた。
そして、次に見えたのはマヤ姿だった。
マヤは泣いていた・・・とても悲しい顔で・・・。
触れようと手を伸ばすが、真澄には触れられない・・・。
何かを告げようとしても、声が出ない・・・。
ただ、ただ、真澄は泣きくれる彼女を見つめていた。
そして・・・そこで目が覚めた。
隣のベツトでは紫織が穏やかな寝顔を浮べて眠っていた。
心臓がドキドキと鼓動を早める。
額には冷や汗が浮かぶ・・・。
泣いていたマヤ姿が頭から離れない・・・。
落ち着かない胸騒ぎだけが大きくなっていた。
「・・・マヤちゃん、大丈夫?」
翌日、桜小路が見舞いに来た。
「うん。大丈夫。後、2,3日したら退院できるって言われたから」
明るい笑みを浮べる。
でも、その表情に涙の跡が残る事を桜小路は見逃さなかった。
「・・・マヤちゃん。僕でよかったら、いつでも相談に乗るから・・・何かあったら言ってね」
優しく包み込むような瞳を向ける。
「・・・桜小路くん・・・ありがとう・・・」
「マヤ、本当にいいのかい?」
桜小路が帰った後、入れ替わるように麗が現れた。
麗の言葉に今朝回診の時に言われた医者の言葉を思い出す。
「・・・どうなさいます?産みますか?降ろしますか?」
マヤに一通りの妊娠状況を説明すると、医師が口にした。
その言葉にドキっとする。
私は・・・。
改めて、自分の中に宿った命をどうするべきか考える。
きっと、生まれてもこの子には父親はいない・・・。
それ所か、マヤ一人で育てていかなくてはならない・・・。
それに、暫くは演劇の方を休まなければならない・・・。
そして、何よりも、速水に気づかれてはいけない・・・。
産む事に対する苦しい現実が襲いかかる。
でも・・・。
この子が愛しい・・・。
愛する人との子が・・・。
「・・・産みます」
マヤは迷う事なく、そう告げた。
「うん。いいの」
笑顔を浮かべ、麗に言う。
「私、嬉しいの。この子が私の中にいる事が・・・」
お腹に触れ嬉しそうに言う。
「麗にはこれからいろいろ迷惑かけると思うけど・・・」
すまなそうに見る。
「・・・迷惑だなんて、何、他人行儀な事言ってるんだい。私も、嬉しいよ。あんたが望む事ならね」
「・・・ご迷惑おかけ致しました」
退院し、黒沼の所に行く。
「北島・・大丈夫か?」
心配そうに見つめる。
「はい。もうこの通り・・・」
笑顔を浮かべる。
「そうか。よし。それじゃあ、またビシバシ稽古するぞ」
おどけるように言う。
その言葉にマヤは一瞬、曇ったよう表情を浮べた。
「・・・先生・・・実は、ご相談したい事があるんです」
いつになく真剣な表情を浮べる。
黒沼はじっと、マヤの言葉に耳を傾けた。
「紅天女の本公演は半月後に大都劇場で行われる公演を最後に暫く、休みたい・・・」
今度の公演の興行主である大都に出向き、黒沼が述べる。
紅天女の上演はかねてからの真澄の手回しで大都で上演される事になっていた。
「・・・暫くというと?」
休暇中の真澄に代わり、水城が応対する。
「・・・一年か・・・もしかしたらそれ以上かも・・・」
黒沼の言葉に眉を寄せる。
「・・・理由をお聞きしていいですか?」
”この事は先生の胸だけにしまっておいて下さい”
マヤの言葉が胸に響く。
「・・・主演女優北島マヤの希望だ。上演権は彼女が持っているのだから、上演するもしないも彼女の自由だろう」
「・・・まぁ、確かにそうですが・・・という事は後に控えていた地方公演は全てキャンセルなんですね?」
「あぁ・・・そうだ。すまないが宜しく頼む」
そう言うと、黒沼は席を立った。
水城はいつになく歯切れ悪い黒沼の様子が気になった。
「何!公演をキャンセルだと?」
休暇を終えたばかりの真澄が出社するとそんな知らせが耳に入った。
「・・・はい」
水城は無表情に答える。
「・・・理由は?」
「・・・マヤさんのご希望だそうです」
マヤの・・・。
一瞬、胸が熱くなる。
「今、彼女はどこにいる?」
真澄は上着を掴み、聞く。
「3日後に控えた本公演のリハ−サル中です」
真澄が大都劇場に行くと、丁度休憩中だった。
「黒沼さん」
客席にいた黒沼に声をかける。
「これは、速水の若ダンナ。休暇は終わったのかい?」
驚いたように真澄を見る。
「えぇ。今日から仕事に戻りました。ところで、地方公演を全てキャンセルすると聞いたんですが?」
その言葉に”来たな”という表情を浮べた。
「全ては北島の意志だ。上演権を持っているのは彼女だ。あんたにはどうこう言えないだろう?」
今にもマヤに喰ってかからんという真澄を抑えるように言う。
「・・・そうですが・・・。でも、こんなの突然すぎて・・・彼女らしくない」
納得のいかないというように口にする。
「・・・あいつはあいつなりに精一杯考えて決めた事なんだ。それをわかって欲しい」
真剣な表情で真澄を見る。
「・・・北島マヤはどこです?」
「・・・今のあんたに彼女は会わせられない」
黒沼の言葉に戸惑ったような表情を浮べる。
「どういう意味ですか?」
少し、ムッとしたように言う。
「今、あんたは絶対、北島を責めるだろう?公演が近いんだ。それで、またあいつが紅天女を演じられなくなったら困る。
演出家として会わせる訳にはいかない」
黒沼の言う通り、真澄は彼女に会ったら、公演をキャセルした事を責めるつもりだった。
そして、何としてもまた舞台に立ち向かせるつもりだった。
「・・・頼む。北島には会わないで帰ってくれ。あいつの意志を尊重して欲しい」
黒沼の言葉に真澄はそれ以上何も言えなかった。
・・・速水さん・・・。
劇場を出て行こうとする真澄をロビ−で見かける。
久しぶりに目にした彼の姿に胸が熱くなる。
真澄はまだマヤの視線には気づいていなかった。
今、まともに真澄と顔を会わせる力はマヤの中にはない。
彼に気づかれないように立ち去ろうとする。
しかし・・・。
カランっ
足元に置かれていた缶ジュ−の空き缶を蹴ってしまい音を立てる。
真澄の視線が無意識に音のした方へと向く。
そこには柱の側に立っているマヤがいた。
熱い想いが込み上げてくる。
あの夜を過ごして以来、マヤとは直接顔を会わせる事はなかった。
真澄の視線に驚いたように見つめるマヤの瞳があった。
そして、次の瞬間、マヤが走り出す。
真澄は理性よりも先に感情で彼女を追いかけていた。
「・・・どうして、逃げるんだ」
彼女の腕を掴み、見つめる。
「・・・だって・・・」
困ったように真澄から視線を逸らし、呟く。
久しぶりに見る彼女はどこか印象が違って見えた。
その事が胸をかき乱す。
「・・・きっと、速水さんに怒られると思ったから・・・」
桜色の唇が動く。
彼女と初めて唇を交わした時の事を思い出す。
その唇はとても柔らくて、甘い感触がした。
「あぁ。そうだ。君をしかりに来た。どうしてなんだ。あれほど、望んでいた紅天女の公演をキャセルするなんて・・・」
口付けしそうな距離で真澄が言う。
動悸が早くなる。
真澄の顔を見る事ができなくて・・・マヤは俯いたように床を見つめた。
「・・・少し、休みたくなったんです」
苦しそうに言葉を口にする。
「今の私にとって・・・それが必要なんです」
溢れそうな涙を抑え、何とか言葉にする。
「・・・俺のせいか?」
沈黙を置いた後、辛そうな表情を真澄が浮べる。
その言葉にドキッとしたように真澄を見つめる。
「・・・離して下さい。そろそろリハ−サルに戻らないと・・・」
気持ちを隠すように口にする。
その瞬間、真澄の唇が彼女の唇を奪う。
時が止まったように重なる唇・・・。
どれくらいの間そうしていたのかわからなかった。
二人の胸に切ない想いが募る。
「・・・すまない・・・」
唇を離し、我に返ったように真澄が呟く。
「・・・行かないと・・・」
理性を振り絞り、小さく口にする。
真澄はその言葉にそっと、彼女の腕を離した。
速水さんが・・・好き・・・。
どうしようもない程好き・・・。
アパ−トに戻ると、マヤは抑えていた涙を流した。
自分でも信じられない程、真澄を好きになっている事に気づく。
このまま速水さんの側にはいられない・・・。
どこか、遠くへ・・・行かないと・・・。
そんな想いが胸に募る。
マヤは自分が怖かった。
次に真澄と顔を会わせたらきっと、妊娠した事を告げてしまう。
そんな自分が怖かった。
絶対秘密にしておかなくてはならない事なのだ・・・。
結婚している真澄の重荷になるような事は避けたかった。
「・・・マヤ様、一体、どうしたんですか?」
マヤに突然呼び出された聖は彼女と向き合うようにコ−ヒ−ショップの席に座った。
「・・・聖さん。今から私の言う事を決して、誰にも他言しないと約束してくれますか?」
真剣な表情で聖を見つめる。
「えぇ。約束しましょう。何があっても言いません・・・」
「あの人にも・・・紫の薔薇の人にも秘密にしてくれますか」
真っ直ぐに聖を見つめる。
「・・・はい。お約束いたします。あの方にも秘密にしておきます」
マヤの想いを汲み取るように口にする。
「・・・よかった・・・」
ホッとしたような表情を浮べる。
「・・・実は私、ある人の子供を身ごもりました・・・」
その一言に、聖は大きく瞳を見開いた。
「どうしても、その人には妊娠した事は言えません。そして、私は何があっても産むつもりです」
意志の篭もる強い眼差しで聖を見る。
「・・・でも、私、その人の側にいると怖いんです。全てを口にしてしまいそうだから・・・だから、遠くに行きたいんです。
その人の手の届かない・・・顔も会わせる事もない・・そんな遠い所に行きたいんです」
マヤの表情に女としての強さが浮かぶ。
今までの彼女にはなかったものだ。
マヤ様・・・。
「・・・わかりました。手配致します。マヤ様のご出産に適した場所を」
聖は全てを悟ったように口にした。
「・・・ありがとうございます」
マヤは真澄への想いを込めて、大都劇場で紅天女を演じた。
その演技は試演の時よりも、数段上がっていた。
艶かしく、切ない表情を浮べる天女は観客の心をさらった。
公演は一週間続き、連日立ち見が出る程の超満員だった。
マヤ・・・。
真澄は熱にうかされたように連日のように紅天女を観ていた。
これまで観た事のない天女の表情・・・マヤの表情に心を乱された。
舞台上の彼女は本当に天女ではないかと思わされる程だった。
彼女の無限の才能を見せ付けられ、その距離を感じる。
もう、君は俺の手には届かない・・・。
そんな想いが胸を締め付けていた。
公演が終わった日、聖はマヤの楽屋に呼ばれていた。
「聖さん、ありがとう。来てくれて」
まだ打ち掛け姿のマヤが聖を迎える。
その表情と舞台の上での彼女とのギャップに聖はドキッとした。
「いいえ。私の方こそ、マヤ様の楽屋にお招き頂き光栄です」
そう言い、紫の薔薇をマヤに渡す。
「あの方からです」
薔薇を受け取り、マヤは複雑な表情を浮べる。
「・・・私も、紫の薔薇の人に渡すものがあるんです」
そう言い、聖に何かの書類を渡す。
「・・・これは!」
それを目にした途端、聖は驚いたようにマヤを見た。
「・・・あの人が欲しがっていたものだから・・・」
マヤの言葉に聖は彼女が全てを知っている事を知った。
「・・・マヤ様・・・」
切なく笑う彼女を見つめる。
「わかりました。確かにお届けします」
「ありがとう」
「・・・それと、マヤ様、これは航空券になります。あちらでは私の知り合いがあなたのお世話をします。
安心なさって下さい」
”To U.K.”
その文字がマヤ中の何かを覚悟させた。
「・・・本当にそちらで宜しいんですか?」
伺うように見つめる。
「・・・いいの。このぐらい離れている方があの人の事を考えなくて済むし・・・」
その表情に聖はずっと抱いていた疑問を口にした。
「・・・マヤ様、お腹の子の父親の名前を伺って宜しいですか?」
「・・・紫の薔薇の人・・・」
沈黙を置き、マヤは儚い表情でそう呟いた。
「・・・これは?」
聖から差し出された封筒を受け取り、真澄が口開く。
「・・・マヤ様からです」
聖から出たマヤという言葉にドキッとする。
「・・・なっ・・・!」
封筒の中のものに真澄は言葉を失った。
「・・・マヤ様は全てを知っていたようです。あなたが紫の薔薇の人だと言う事を・・・」
聖の言葉に真澄は呆然と紅天女の上演権の証書を見つめていた。
「マヤ、本当に大丈夫?」
麗を始め、つきかげのメンバ−が不安そうにマヤを見つめる。
本公演が終わってから一週間後、マヤは空港にいた。
マヤの手には大きなス−ツケ−スが握られている。
「大丈夫よ」
くったくのない笑顔を浮かべる。
「私、何だかわくわくしているの。全然知らない国に行く事に・・・」
「いい。変な人についていっちゃ駄目だよ。それから・・・・」
麗は母親のような口ぶりでマヤに10コ以上にも登る注意点を告げていった。
「もう、麗ったら、大丈夫よ。あっ、そろそろ行かないと」
時計を見つめ口にする。
「手紙書くからね。電話も時々する。じゃあね」
マヤはそう言うと皆に見送られゲ−トをくぐった。
マヤにとっての新しい旅立ちだった。