ホテルマリーン―2―




日は沈みかけ、窓の外には大きな夕陽が浮かんでいた。
速水はマヤを抱きしめたまま、ソファに座っていた。
一時間以上泣いた後、彼女は疲れたのか彼の腕の中で安心するように眠りについた。
速水は愛しむように、彼女の黒髪や、頬を指で撫でる。
不思議と、こうしていると彼自身の気持ちも落ち着いてくるようだった。
まだ彼女とは何も話していなかった。
胸に秘めていた気持ちを告げる事もなく、彼はただ彼女を抱きしめ、泣き止むのを待っていた。

彼女が目を覚ましたら、自分は一体、何を告げるべきなのか・・・。
この後、どうするべきなのか・・・。

マヤの寝顔を見つめながら、そんな事を思う。
初めて自分の幸せを願った。自分の為だけに行動した。
今は目の前の彼女の事しか考える事ができなかった。

「・・・真澄様・・・」
聖が青い表情をして白百合の間に入ってくる。
「・・・どうした?」
聖の様子に何か嫌な予感がする。
「・・・紫織様が自殺を図ったそうです」
衝撃的な一言が彼の胸に突き刺さる。
「・・・何!」
思いもよらぬ事態に、彼は何と言葉を続けたらいいのかわからなかった。
「速水の家から先ほど、連絡があり、真澄様に東京にお戻りなるよう伝言をお預かり致しました」
聖はできる事なら、この伝言を今の速水に伝えたくなかった。
ようやく、彼が決心をし、彼女に会ったのだ。
「・・・そうか。それで紫織さんの容態は?」
深く一呼吸し、彼はいつもの冷静な表情を浮かべた。
「・・・幸いにも命に別状はありませんが、酷く取り乱されていると、お聞きしました」
聖の言葉を聞きながら、速水は腕の中の彼女をじっと見つめた。
まるで、この世の別れでもするように・・・。
「・・・わかった。今行く。マヤの事は頼む」
きつく瞳を閉じ、想いを振り切るように、彼は腕の中ので眠る彼女をソファに横たえた。
「・・・真澄様、いいのですか?マヤさんを起こさないで」
愛おしむようにマヤを見つめる彼に口にする。
「・・・いいんだ。このまま別れた方が・・・。彼女にとっても、俺にとっても・・・。
やはり、今のままでは俺は彼女に気持ちを告げてはいけないんだ。だから、今はこのままに」
「・・・真澄様・・・まさか、マヤさんの事を諦めるんですか!」
聖は珍しく感情的に語調を荒げた。
速水は聖の言葉には答えず、自虐的な笑みを浮かべた。

「・・・夢の覚める時間だ・・・」
そう告げ、眠る彼女の額にキスを落とすと、彼はマリーンを後にした。




「・・・あれ?速水さん?」
速水がいなくなってから、30分後、マヤは目を覚ました。
「・・・お目覚めになりましたか?」
静かな声がする。
ソファから起き上がり、声のする方を向くと、窓際に聖が佇んでいた。
「・・・聖さん・・・」
聖はとてもやり切れないような想いで窓の外を見つめていた。
「・・・あっ、紫の薔薇の人・・・速水さんは?」
思い出したように、マヤは口にし、部屋中を見回した。
しかし、どこにも彼の姿は見つからなかった。
一瞬、彼といた事が夢のように思え、記憶が混乱する。
「・・・聖さん、私、私、確かにあの人にあったんですよね。紫の薔薇の人に会ったんですよね」
確認するように聖に視線を向ける。
ここで、全ては夢だったと、なかった事だと告げるべきなのか、純粋な瞳に聖は迷った。
「ねぇ、聖さん、あの人は確かにここに来たんですよね!」
マヤの瞳に薄っすらと涙が浮かぶ。

「・・・すみません・・・」
否定する事も肯定する事もできず、聖はそう告げた。




一生に一度ぐらい自分の幸せを願ってもいいと思った。
しかし、俺は間違っていたのか・・・。こんな形で彼女に会うべきではなかったのか・・・。

速水の胸に二人の女性に対しての罪悪感が浮かんでいた。
一人は言うまでもなく、最愛の人・・・マヤで、そして、もう一人は婚約者の紫織だった。
紫織には彼なりの誠意をつくしたつもりだった。
しかし、結果的に彼女を自殺にまで追い詰めてしまった。
彼は自分が許せなかった。
紫織の事を最後まで気遣ってやれなかった自分に苛立ちが募る。

「・・・急いでくれ。早く東京に・・・」
速水は冷静さを取り戻すように運転手に告げた。

そして・・・。





「マヤ!大変だよ!大都芸能の速水社長が交通事故にあったんだって!!!」
アパートに戻ると、麗が開口一に告げる。
その言葉にマヤは目の前が一瞬、真っ暗になる。
「速水さんが交通事故!!!うそ!!!どこで!!!」
麗の肩を掴み、彼女は人が変わったように食ってかかった。
「伊豆から東京方面へ向かう道路で・・・」
その言葉にマヤの中の確信が揺らぐ。
速水はマリーンには現れず、途中で引き返したように思えた。
自分は彼を待ちながら都合のいい夢を見ていたのだろうか・・・。
とにかく、今は一刻でも早く彼に逢いたい。彼の無事な姿を見たい。
マヤは電話に手を伸ばすと、水城と連絡を取り彼が収容された病院を聞き出した。





「・・・真澄様・・・」
紫織が伊豆の聖ヨハネ病院に駆けつけると、緊急治療室で彼は手当てを受けていた。
意識はなく、頭部を強く打ったのか、白い包帯が何重にも巻かれ、それは体中にも広がっていた。
痛々しい姿に胸がつまる。

私の為に・・・。私の為にこんな事に・・・。

速水の姿を目の前にし、涙が溢れてくる。
その夜、紫織は一晩中、緊急治療室の前で過ごした。




伊豆に再びマヤは麗とともに来ていた。水城に教えてもらった病院には既に多くのマスコミがいた。
彼女もマスコミの輪の中に入り、医師に食いつく。
「どんな様子なんですか!速水さんは!お願いです。会わせて下さい!!!」
しかし、親族でもないマヤはその夜、彼に会う事も、どんな容態なのかも知る事ができなかった。

「・・・マヤ・・・」
病院を出て近くの浜辺を麗はマヤと一緒に歩いていた。
麗は今のマヤに何て声をかけるべきかわからなかった。
「・・・麗。速水さんが紫の薔薇の人なの・・・」
長い沈黙の後、ようやく、マヤが口開く。
その衝撃の事実に、麗は瞳を見開いた。
「・・・ずっ、ずっと、私を支えてくれていたのは速水さんなの・・・」
マヤの声が涙で濡れる。
「私、私・・・今日、紫の薔薇の人に・・・速水さんに会いに行ったの」
暗闇に包まれた海を見つめる。
「・・・今日、確かに私は速水さんと会った気がした。でも、目が覚めると、速水さんはいなかった」
大粒の涙が瞳から零れる。
「・・・何一つ、確かなものがないの。目の前に現れた速水さんも、今こうしてここにいる事も・・・」
マヤは両肩を抱き、彼に抱きしめられた感触を思い出した。
しかし、それが本当にあった事なのか彼女にはわからない。

"俺はどこにも行かない。ここにいるから。君の傍にいるから・・・"
不意に、耳元で囁かれた言葉を思い出すが、やはり、それが夢だったのか現実だったのか彼女にはわからなかった。




事故から二日後、速水はようやく意識を取り戻した。
そして、彼の視線に入ったのは見知らぬ女性だった。

「・・・君は誰だ・・・?」
彼の言葉に紫織は我が耳を疑った。
「・・・真澄・・様?」
不安気に彼の名を口にするが、彼はまるで初めて会った人物を見るような視線を紫織に向けたままだった。



  

         
                                つづく





【後書き】
ははははは。あのまま甘甘路線突っ走ろうかなぁぁと、おもったんですけど・・・ちょっと変化球つかってみました(笑)
やっぱり・・・交通事故と言えば、記憶喪失ネタを使わなければ(ニヤリ)はたして真澄様とマヤちゃん結ばれるんでしょうかねぇぇ(笑)

ここまでお付き合い頂きありがとうございました♪

2002.6.2.
Cat



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