ホテルマリーン―3―






「・・・記憶喪失・・・」
医師の診断を紫織は口にした。
「えぇ。調べた所、自分が誰なのか、どうしてここにいるのか、彼は全く覚えていないようです」
医師は鎮痛な表情を浮かべた。
「・・・そんな・・・真澄様は私の事も覚えていないというんですか!!!」
紫織はムキになったように大声を出した。
「・・・私は、私は真澄様の婚約者なんですよ!真澄様は私の為に私の為に・・・戻ってきて下さったんですよ!」
拳を強く握り、苛立ちをぶつけるように紫織は叫んだ。
「・・・しかし、それが事実です。今の彼は何も覚えていない」
冷静な医師の言葉に紫織はこれ以上何も告げる事ができなかった。
「今はとにかく静かに患者を見守る事です。もしかしたら、一時的なものですぐに思い出すかもしれません。
いいですね。無理に思い出させようとしてはいけませよ。患者には自然に接する事です」
医師の言葉に紫織は力なく頷く事しかできなかった。




俺は一体誰なのか・・・。ここで何をしているのか・・・。

記憶を失った速水は一日中病室の窓を見つめていた。
一瞬何かがふっと脳裏を掠めるがそれが何なのか彼にはわからなかった。
ただ堪らなく胸が苦しく、恋しかった・・・。
胸の中がギュッと掴まれるような、そんな想いが常に彼の心を占めていた。
しかし、それが誰に対しての想いなのか、今の彼に知る事はできない。

「・・・社長・・・・」
そう声を掛けられ、ハッとする。
気づくと、彼の秘書だと言う人物が心配そうに見つめていた。
「・・・あぁ。君は確か・・・水城君だったね」
窓から視線を外し、笑みを作る。
「・・・覚えて下さったんですか。光栄です」
水城は静かな笑みを浮かべた。
「あぁ。何となくだが、君の事は覚えている気がする」
クスリと笑い、彼は水城が持って来た書類を見つめた。
それは今までの彼が処理してきた仕事の書類だった。
確かに彼の筆跡で署名がしてあり、彼のものだと言う事はわかる。
だが、その仕事がどういうものだったのか、どう自分がかかわってきたのかは思い出す事はできなかった。
「・・・水城君、俺はどういう男だったんだ?」
書類を見つめてまま、彼はポツリと口にした。
その言葉に水城は考えるように速水の顔を見つめた。
「・・・仕事には厳しく、いつも走り回っていらっしゃいました」
水城の言葉に速水は苦笑を浮かべる。
「・・・そうか。俺もそんな気がするよ。きっと、あの人を・・・婚約者の彼女に俺は寂しい想いをさせていたのだろうな」
紫織の彼を見つめる寂し気な瞳を思い出す。
それとともに、彼の中でもう一人女性の影が浮かんだ。
「・・・仕事があるので、私はそろそろ失礼しますわ」
そう告げ、水城はベットの傍にあった椅子から立ち上がる。

「・・・水城君、俺には恋人はいなかったか・・・その・・・紫織さん以外にという意味でだ」
水城がドアノブに手を掛けた瞬間、速水は思い切ったようにその質問をぶつけてみた。
「えっ」
以外な言葉にもう一度彼の方を振り向く。
「・・・いや、その・・・何でもない。忘れてくれ」
水城と視線が合うと、彼は気まずそうに告げた。




恋人・・・真澄様に恋人・・・。
水城は速水の病室を出ると、何か引っ掛かりを感じる彼の言葉を自分なり考えてみた。

「あっ!水城さん」
病院のロビーで誰かに呼び止められる。
「・・・あなたは・・・マヤちゃん」
声のした方を見ると、見舞い用の花束を持ったマヤが立っていた。
「あの、速水さんのお見舞いに来て・・・」
もじもじと俯き、相変わらずの自信のなさそうな姿だった。
「あの、それで・・・速水さんの容態はどうなんですか?」
速水が入院したと聞いてから、一週間、マヤはずっと伊豆にいた。
毎日のように、彼の元に見舞いに行くが、いつも会えずじまいで、彼の容態も知る事ができなかった。
「・・・えぇ。もう、意識は取り戻しているから。心配はないわ。今だって、社長と話して来た所よ」
水城は温かい笑顔を浮かべる。
水城の言葉にマヤはホッとしたように胸をなでおろした。
「・・・良かった。それを聞いて安心しました」
「マヤちゃん、いつも来ているの?」
素朴な疑問が水城の口から出る。
「・・・えっ・・・あっ、はい。事故のあった日から、ずっと伊豆に泊まっています。でも、関係者じゃないからって・・・会わせてもらえなくて。
だから、せめてお花を贈って少しでも速水さんに元気になってもらいたなぁぁって」
マヤはハニカンダような笑みを浮かべた。
「そう。じゃあ。毎日お花持ってきているの」
マヤが手にしているブーケを見つめる。しかし、速水の病室には毎日持ってきているはずの彼女のブーケらしきものは何一つなかった。
あるのは高価な花を集めたものだけ。誰かの悪意を感じる。
「あの、水城さん、コレ速水さんに渡して貰えますか?いつも病院の方に頼むんですけど、ちゃんと届いているか不安で」
「えぇ。いいわよ」
水城は快くマヤから花束を受け取った。
「確かに社長にお届けするわ」
水城の言葉に安心したのか、マヤは久しぶりに笑顔を浮かべ、一礼をして病院を後にした。

「・・・そうか・・・。彼女の事ね・・・」
遠ざかるマヤの背中を見つめながら、水城はある事に気づいた。





「あら?水城さんまだいらしたんですか?」
速水の病室に戻ると、紫織が丁度花瓶に花を活けていた。
紫織は毎日のように速水につきそい、彼女が温室で大切に育てている花を持って来た。
「えぇ。社長にお届けものがあって」
そう言い、小さなブーケを紫織に見せると、一瞬彼女の顔色が曇る。
明らかに、そのブーケの贈り主を知っているようだった。
「・・・真澄様は今お休みになっているので、私の方から渡しておきますわ」
そう紫織が告げた瞬間、ベットの周りを取り囲むように引かれていたカーテンが開く。
「・・・あっ・水城君か。どうした?忘れ物でもしたか?」
先ほどとは違うパジャマに着替えた速水が戸口で紫織と話している水城を見つける。
「・・・えぇ、社長にお仕事の話がもう一つあったのを思い出しまして」
紫織の横を通り過ぎ、水城は速水のベット近くに移動した。
「・・・重要なお話なので、社長と二人だけで話したいのですが」
水城はサッと、彼に耳打ちをした。
速水は考えるように水城を見てから、戸口に立ったままの紫織に視線を向ける。
「・・・紫織さん、悪いが仕事の話なので、席を外して頂けないでしょうか?」
速水にそう言われては紫織はここにいる訳にもいかなかった。
「・・・えぇ。わかりましたわ」
愛想のいい笑顔を浮かべ、紫織は病室を後にした。






「速水さん、受け取ってくれたかなぁぁぁ」
マヤは一週間前に訪れたホテルマリーンに今度は宿泊客として来ていた。
全ては聖の計らいだった。
少しでも速水とマヤの距離を埋めたく、そのためには今はマヤが伊豆にいる方がいいと判断したのだ。
マヤは毎日のようにあの日、彼を待っていた白百合の間に行き、速水に会った事が夢だったのか現実だったのかを考えていた。
「・・・速水さん・・・」
小さく呟き、窓を開けテラスに出る。
海が近く潮風がここまで来てきていた。
頬にあたる風に心地よさを感じる。
マヤは瞳を閉じ、速水の姿を思い描いた。
とても優しい笑みを浮かべる彼。彼女をからかうように笑う彼。彼女を奮闘させる為に厳しい表情を浮かべる彼。
どの彼も愛しく、マヤの心を切なくさせた。
「・・・あの方にはお会いになれましたか?」
彼女の後ろの方で声がする。
マヤは瞳を開け、小さく首を振った。
「でも、いいんです。今日は知り合いの方に花を渡す事ができた。それに、どんな容態かも聞く事ができました」
笑顔を浮かべ、彼女を見守るように隣に立つ聖を見る。
「・・・速水さんが元気なら、私、それだけでいいんです」
聖はマヤの横顔を見つめながら、ずっと思っていた疑問を言うべきか考えていた。
「今まであの人には沢山支えてもらったから。だから、今度は私があの人の為に何かがしたい」
そう告げたマヤの表情がとても大人びて見え、聖の心をくすぐる。

この方ももう、大人の女性なのだな・・・。
改めてそんな事を思う。
「・・・マヤさん、一つ聞いていいですか?」
「うん?何ですか?」
聖の方をマヤはチラリと見た。
「・・・あなたは紫の薔薇の人が誰かご存知だったんですか?」
聖はあの日、速水がいなくなってから、彼女が口にした"速水"という言葉に内心驚いていた。
それは、間違いなく恋しいものを呼ぶように彼女の口から告げられた。
彼女が起きたら、全ては夢にしてしまおうと思ったが、できなかった。
速水に対して憎悪ではなく好意を抱いていると知った今となっては二人の恋を成就させてやりたい。
「・・・えぇ。知っていました。もう、随分前から・・・私はずっとあの人が名乗り出てくれるのを待っていたんです」
海を見つめ、意を決したようにマヤは口開く。
「だから、嬉しかった。彼と・・・速水さんと会える機会を作ってもらえて・・・。でも・・・私、あの日の記憶に自信がないんです。
本当に紫の薔薇の人として私の目の前に現れたのは速水さんだったのか。いえ、速水さんに私は本当に会えたのか・・・。
全ては私が抱いていた夢なのかもしれません」
マヤの言葉に聖は今、何を彼女を告げるべきか確信する。

「・・・紫の薔薇の人は速水真澄です。それは間違いありません。そして、あなたはあの日、真澄様とお会いになりました」
聖の言葉に彼女の動きが止まる。
大きく瞳を見開き、聖を見つめる。
「・・・すみません。あの日あなたにそう言っていれば、こんなに迷わせる事はしなかったのに」
聖は深く礼をした。
「・・・聖・・・さん・・・」
マヤの瞳から涙が流れる。その涙は嬉しさの涙だ。
ずっと、ずっとこの一週間自信がなかった事に、今、聖が確信をさせてくれた。
聖はそっと、マヤに胸をかし、涙に濡れる彼女を抱きしめた。




「それで、重要な話とは?」
水城と二人きりになると、速水が口開く。
「・・・まずはこれを・・・。ある方から預かってきました」
水城はマヤから預かった花束を差し出した。
彼女が選んだらしいとても可愛い花々と、一輪だけ紫の薔薇が添えられていた。
速水は紫の薔薇を見た瞬間、胸が締め付けられるような想いを感じた。
「・・・これは・・・」
薔薇をじっと見つめ、何かを思い出す。
「・・・あなたが先ほどおっしゃっていた恋人からの贈り物です」
水城の言葉に速水はハッとした。
「・・・会いたい・・・今すぐこの薔薇をくれた人に会いたい」
速水の中で一人の少女の影が浮かぶ。
顔はハッキリとはわからないが、間違いなくそれは彼が愛した人だという事はわかった。
速水の言葉に水城は笑みを浮かべた。
「・・・えぇ。あなたが望むのなら、お連れしますわ」



つづく




2002.6.2.
Cat



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